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【姉川の戦い】
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美濃からの侵入を防ぐ刈安尾城と長比城
浅井家は美濃方面からの後詰めルートを遮断するためにいち早く動きました。
交通の要衝「関ヶ原」を抜ける伊吹山周辺の防衛のために「刈安尾城(かりやすおじょう)」と「長比城(たけくらべじょう)」を築城。
これらは朝倉家による築城と云われています。
以下の地図をご覧ください。
右側(東)の美濃から、左側(西)の近江へ抜けようとすると、山岳の合間で道が狭くなり、そのすぐ先に刈安尾城と長比城がご確認できるでしょう。
刈安尾城は北近江守護・京極高清の居館「上平寺館」の詰めの城があったところで、関ヶ原方面まで見渡せる場所に位置しています。
ここで美濃から北国街道へ出る道を封鎖しましました。
一方、長比城は美濃から京へ向かう東山道を封鎖します。
そして織田家と同盟していた頃には小谷城と佐和山城のつなぎの城でしかなかった「横山城」を改修して北近江~美濃国境にフタをしたのです。
仮に、このフタが破られても、背後の鎌刃城と佐和山城で待ち構え、その後詰めとして本城の小谷城から軍勢を繰り出して南下する織田方の背後を襲うことが可能です。
囲碁や将棋のように考えれば、まさに盤石の守備体制です。
敵に攻撃する意思を見せつけなければ機能せず
これだけ強固な防御に対し、織田軍はどうすればよいか?
小谷城と佐和山城を結ぶ縦のライン上に出てこなければ、京へ進軍するどころか、南近江に近づくことすらできません。
まさに八方塞がり。
このように浅井家は、関ヶ原周辺を二つの陣城と横山城で危険なデルタ地帯を造り、待ち構えていたのです。
一見すると完璧な守りにも見えますね。
しかし、この浅井家の防衛戦略が間違いだったことがすぐに露呈します。
実は軍事的に攻め寄せる敵に対し、自領に城を構えて待ち受ける戦略は良策ではありません。
どこがまずい戦略なん?と思われるかもしれませんが、自領に城を構えるということは、
【これ以上先に進みません・絶対にこちらから攻めません】
と宣言するようなものです。
仮に両軍が同盟中であればそれでもよいでしょう(そうであれば城は構えませんが)。
しかし今は交戦中。
自分から「攻めてやる!!!」という強固な意図を見せつけることは非常に重要です。
例えば、織田信長が美濃の斎藤家を攻めるとき、危険を冒して何度も木曽川の向こうに橋頭堡を築こうとしたり、あるいは武田信玄があえて敵地に旭山城や海津城を築いて領有を既成事実化したように、
【自領外(敵領)でのアクション】
が必要なのです。
仮に、領土的野心がなく、防衛に徹する場合でも、上杉謙信のように最前線を越えて敵領内へ侵入して敵陣を破壊し、【進攻の代償が高くつくこと】を見せつけることが重要。
なぜなら相手に反撃の意志なしと分かれば侵攻にのみ専念でき、【攻めの戦略】だけを立てればよくなるからです。
その方が、圧倒的に戦いやすいのは自明の理でありましょう。
浅井長政は、たとえ防衛が主目的でも、「美濃へ攻め込むぞ!」という意思を見せつけなければならなかったんですね。
誰得?と問われれば朝倉得!
本気で自領を守りたいのであれば、最前線の城は鉄壁の防御ではなく「攻めの城」でなくてはなりません。
例えるなら、分厚いコンクリートで固めた要塞ではなく、空母やイージス艦の機能を有している必要がある。
信長が稲葉山城攻略に手こずったのも、同城がイージス艦のように機能して、再三の信長の侵攻を、稲葉山城のはるか手前で防ぐことがてきたでした(以下の記事に詳細あります)。
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しかしせっかくのイージス艦機能があっても、運用する者次第でいくらでも変わります。
稲葉山城の場合、斎藤道三や斎藤義龍らは運用できても、その次代・斎藤龍興には荷が重過ぎました。
ゆえに信長に落とされたのです。
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では、浅井家はどうでしょうか。
智謀に優れる浅井久政と戦上手の浅井長政。
そんな最高の運用者がおりながら、浅井家は美濃との国境を分厚いコンクリートで固めてしまいました。
実は、長政の祖父・浅井亮政の時代は、当時、新興だった美濃斉藤家に対して度々国境を越えて軍勢を繰り出しておりました。
そうやって北近江の国境を美濃勢から守ってきていた。
そんな先例があったにも関わらず、今回は国境の手前を固めるという誤った戦略をとってしまったのです。
もっとも刈安尾城と長比城は越前衆による築城との記録に従えば、浅井家にとっては愚策でも、朝倉家にとってはベストな選択でしょう。
朝倉家にとっては、北近江そのものが越前防衛の緩衝地帯であり、そこを織田家との決戦の場に設定すれば、少なくとも越前には戦乱のトラブルは及ばないからです。
浅井長政はこの朝倉家中心の戦略に気づいていたのか。
あるいは反対したかったがゴリ押しで築城されたのか。
もしくは全く理解できずにお人好しにも築城を承知したのか。
詳細は不明ですが、両城の築城が「誰得?」と問われれば、間髪入れずに「朝倉得!」と答えられる築城位置なのです。
いずれにせよこの防衛戦略を見る限り、信長が長政を小心者呼ばわりした人物評価は的を射ていたと思います。
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信長に衝かれた浅井家第二の失策とは
では浅井長政にとってベストな選択は何だったのか?
亮政時代の戦略を踏襲すれば、信長が金ヶ崎から岐阜城にたどり着く前に美濃に侵入し、大垣あたりまで西美濃を荒らしまくるか、長政自ら全軍を率いて関ヶ原の隘路で待ち構え、決戦に持ち込むべきでした。
信長は必ず京への進軍ルートの確保に出てきます。
相手の出方が分かっていることほど戦略が立てやすいことはありません。
個々の戦闘力では決して負けてはいない北近江兵ですが、織田信長の動員兵力(尾張、美濃、伊勢、援軍の徳川家)を考えると数で劣ることは明らかです。
少ない兵力が大軍を相手にするときは、相手に包囲されないことが最も重要です。
包囲されないためには相手が留守の時に攻勢に出つつ、後退して関ヶ原付近の隘路で待ち構えるべきで、自領に引きこもるだけで何もしないのは最もダメな選択で、実際、そういう動きになっていきます。
長政が攻勢に出てこない――。
それを理解した信長は、京に向けて全力で侵攻するのでした。
そして信長は浅井家の第二の失策をつきます。
浅井家の失策――それは地元の国人衆・堀秀村とその家臣・樋口直房に重要なデルタ地域を任せたことでした。
この二名を、竹中半兵衛重治が短期間で調略してしまうのです。
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「さすが半兵衛!軍師様!」
そう言いたいところですが、これはほとばしる智謀というよりも、竹中家代々の領地が北近江との国境付近「菩提山城」にあることがミソです。
国は違えど、領地が隣り合う竹中重治と樋口直房は顔見知りなのです。
しかも竹中は稲葉山城を乗っ取った後に斉藤家を出奔し、しばらく樋口直房の食客になっていたという仲でもあります。顔見知りどころか両者には国境を超えた熱い友情さえ感じます。
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堀秀村は「鎌刃城(かまはじょう)」という、名前だけみると血が滴り落ちてくるようなスプラッターな城名の城主です。
文字通り鎌の刃のような縄張りをしているのでこの名称になりました。
鎌刃城は佐和山城同様に、南近江との最前線に位置して、浅井―六角間で何度も奪い合いになった城でもあります。
堀家は先祖代々、六角家についたり浅井家についたりを長年繰り返し、戦国の世を泳いできました。
こんな堀秀村に「裏切るなよ!絶対に裏切るなよ!絶対だぞ!」と指示してもダチョウ倶楽部的展開になるのは目に見えています。
浅井長政は、樋口直房の領地だからといって最前線の重要な城の管理を現地人に任せるのではなく、磯野員昌や阿閉貞征レベルの重臣に任せるべきでした。
もしくは長政自ら本隊を率いて入城すべきでした。
しかしそれができなかったのが浅井家のゆる~い支配のデメリットです。
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