姉川の戦い

浅井長政(左)と織田信長が衝突/wikipediaより引用

織田家 浅井・朝倉家

織田徳川vs浅井朝倉「姉川の戦い」で一体何が変わったのか?合戦前後も併せて考察

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重要拠点に半兵衛旧知の武将を置いたのが間違い

ともかく鎌刃城まで調略され、補給ルートを絶たれた刈安尾城と長比城は敵地に孤立。

無用の長物となってしまい、両城の守備兵も織田方が来る前に逃げ散ってしまいました。

この調略に怒った浅井長政小谷城にいた樋口直房の人質を見せしめに殺してしまいますが、二人を調略されたのは明らかに長政自身の失策です。

ここからは小谷城-横山城-佐和山城の縦のラインを突破できるかが課題です

ここからは小谷城-横山城-佐和山城の縦のラインを突破できるかが課題です/©2015Google,ZENRIN

とはいえ北近江にはまだ横山城とその背後に佐和山城があります。

ここで信長は南近江へ向けて一気に進軍――と思いきや、押さえの兵力を横山城にわずかに残して自らは北上し、小谷城に向けて進軍を開始します。

もうおなじみの光景ですね。

今回も敵の本陣、小谷城へ全速力で向かうのです。

しかしさすが難攻不落の小谷城です。

そう簡単には落ちません。

結局、信長は小谷城の陥落は難しいとあきらめて小谷の城下町を放火。

虎御前山など付近の小山に陣取り、挑発を繰り返しながら長政を小谷城から引きずり出そうとしますが、敵もなかなか出てきません。

ならばと、いったん小谷城から撤退し、横山城の総攻撃に移ります。

浅井長政にしても、この間、小谷城でプルプル震えていたわけではありません。兵力を補うため朝倉家の援軍をひたすら待ちながら、織田方に対して夜討ちを仕掛けて反撃していました。

実はこの数日前に朝倉義景は、朝倉家の軍事一切を引き受ける軍奉行の朝倉景鏡(かげあきら)を信長追討軍として派遣していました。

朝倉家の軍奉行は長年、猛将・朝倉宗滴が務めていましたが、宗滴死去後は義景の従兄弟・朝倉景隆、次いで朝倉景鏡が務めました。

この景鏡率いる信長追討軍が既に動いていたのです。

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ただし小谷城の救援ではなく「金ヶ崎から撤退する織田信長の追撃」のためです。

ええ、そうです。

みなさんもぜひ同じツッコミを入れてやってください。

「遅いわ!」

これが朝倉クオリティーです。

 


朝倉家の後詰めは不安でしかない

実は朝倉家の軍勢は、ここまで長年、朝倉宗滴のセンスだけで維持されていたので、彼の死後は急激な質の低下を招いていました。

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さらに後任の朝倉景隆は謎の死を遂げ、朝倉景鏡が軍奉行の全権を握ってしまい、なんだかなぁ……な状態。

信長の撤退から10日ほどして、のんびりと金ヶ崎に現れた朝倉の大軍勢が、「よし! 信長は金ヶ崎から撤退した!」と指差し確認して(さあ、もう一度ツッコミましょう「遅いわ!」)、一乗谷に帰ってしまいます。

そしてちょうど越前に帰り着いた頃、浅井家からの小谷城援軍要請がやってきたのでした。

さすがの朝倉義景も後詰めの義務は果たさないといけないので「んじゃまた頼むわ、景鏡さん」と、景鏡に出陣要請します。

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しかし肝心の景鏡は「は? 無理無理。今帰ったとこだし、足疲れたわ」といった会話があったどうか分かりませんが、再び出陣することはありませんでした。

確かに、これほどの大軍が帰郷して一度緩んだ士気を再度入れ直し、あらためて攻勢に出るには徹底した指揮命令系統が必要であり、さらに相当な訓練が必要です。

当時の朝倉クオリティーでは不可能に近い要求です。

結局、朝倉家は親戚衆の一人(謎の死を遂げた朝倉景隆の息子)である朝倉景健(かげたけ)に兵8千を任せて小谷城の後詰めに出しました。

当主の朝倉義景でもなく、軍奉行の景鏡でもない。

朝倉家のやる気スイッチがオフなのが分かります。

この軍勢が姉川の戦いで朝倉方として戦うことになるのです。

味方なら、不安しかありませんね。

 


【姉川の戦い】ではなく【野村の戦い】か?

朝倉景健の北近江到着後、浅井長政も小谷城から出て横山城の救援に向かいました。

援軍は、朝倉家主力ではなかったものの、織田方との兵力差は縮まりました。

信長は、横山城の北端「竜が鼻」に陣を敷き、横山城への後詰めとして南下するであろう浅井家本隊と朝倉の援軍に備えます。

ここで信長は徳川家康に援軍を要請しています。

この後に勃発するのが有名な【姉川の戦い】です。

兵数は前述の通り

・織田23,000
・徳川6,000
vs
・浅井8,000
・朝倉10,000~15,000

という規模ですね(推定)。

『信長公記』では【野村の戦い】と呼ばれています。

浅井側の記録も【野村の戦い】であり、朝倉家の記録では【三田村の戦い】、そして徳川の記録だけが【姉川の戦い】です。

実は姉川の戦いは正確な記録が残っていません。

信長の13段の構えを、浅井重臣の磯野員昌が11段まで崩した――なんて勇ましい記録もありますが、すべて後世の軍記物が出典であり、本当かどうか怪しいところです。

浅井三代記など後世の軍記物に準拠した布陣図/photo by Jmho wikipediaより引用

【野村の戦い】ではなく【姉川の戦い】の名が残ったように、戦況も徳川寄りの内容に随分脚色されています。

少数の徳川方が朝倉方を蹴散らした勢いで浅井家の側面に横槍を入れて最終的に織田・徳川連合軍が勝利したことになっており、この戦闘経過も軍記物が作られた江戸時代という時代背景が色濃く出ていると思います。

なんせ3代将軍・徳川家光のおじいちゃん徳川家康と、母・江の実家の浅井家、そして母方のおばあちゃん・お市の実家の織田家が入り乱れて戦ったとあれば、徳川の時代ではこれほどの豪華キャスティングを見逃すことはできないでしょう。

要は徳川のための合戦描写なんですね。

また姉川の戦いでは、やたら徳川の譜代家臣たちが活躍していまして。

戦国の世を知らない将軍に対して「我々の先祖が家康公を支えたから今の徳川の世があるんです。譜代家臣を大事にしなさいよ!」と、将軍を教育する格好のネタにしていたようにも思えます。

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