絵・富永商太

合戦

姉川の戦いが雌雄を決する大戦にならなかった意外な理由【戦国野戦譚】

浅井家の失策――それは地元の国人衆・樋口直房とその家臣・堀秀村に重要なデルタ地域を任せたことでした。

この二名を、竹中半兵衛重治が短期間で調略してしまうのです。

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「さすが半兵衛!軍師様!」
そう言いたいところですが、これはほとばしる智謀というよりも、竹中家代々の領地が北近江との国境付近「菩提山城」にあることがミソです。

国は違えど、領地が隣り合う竹中重治と樋口直房は顔見知りなのです。
しかも竹中は稲葉山城を乗っ取った後に斉藤家を出奔し、しばらく樋口直房の食客になっていたという仲でもあります。顔見知りどころか両者には国境を超えた熱い友情さえ感じます。

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堀秀村は「鎌刃城(かまはじょう)」という、名前だけみると血が滴り落ちてくるようなスプラッターな城名の城主です。
文字通り鎌の刃のような縄張りをしているのでこの名称になりました。

鎌刃城は佐和山城同様に、南近江との最前線に位置して、浅井―六角間で何度も奪い合いになった城でもあります。

堀家は先祖代々、六角家についたり浅井家についたりを長年繰り返し、戦国の世を泳いできました。

こんな堀秀村に「裏切るなよ!絶対に裏切るなよ!絶対だぞ!」と指示してもダチョウ倶楽部的展開になるのは目に見えています。

浅井長政は、樋口直房の領地だからといって最前線の重要な城の管理を現地人に任せるのではなく、磯野員昌や阿閉貞征レベルの重臣に任せるべきでした。
もしくは長政自ら本隊を率いて入城すべきでした。

しかしそれができなかったのが浅井家のゆる~い支配のデメリットです。

 

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ともかく鎌刃城まで調略され、補給ルートを絶たれた刈安尾城と長比城は敵地に孤立。
無用の長物となってしまい、両城の守備兵も織田方が来る前に逃げ散ってしまいました。

この調略に怒った浅井長政は小谷城にいた樋口直房の人質を見せしめに殺してしまいますが、二人を調略されたのは明らかに長政自身の失策です。

ここからは小谷城-横山城-佐和山城の縦のラインを突破できるかが課題です

ここからは小谷城-横山城-佐和山城の縦のラインを突破できるかが課題です/©2015Google,ZENRIN

とはいえ北近江にはまだ横山城とその背後に佐和山城があります。

ここで信長は南近江へ向けて一気に進軍――と思いきや、押さえの兵力を横山城にわずかに残して自らは北上し、小谷城に向けて進軍を開始します。

もうおなじみの光景ですね。
今回も敵の本陣、小谷城へ全速力で向かうのです。

しかしさすが難攻不落の小谷城です。
そう簡単には落ちません。

結局、信長は小谷城の陥落は難しいとあきらめて小谷の城下町を放火。
虎御前山など付近の小山に陣取り、挑発を繰り返しながら長政を小谷城から引きずり出そうとしますが、敵もなかなか出てきません。

ならばと、いったん小谷城から撤退し、横山城の総攻撃に移ります。

浅井長政にしても、この間、小谷城でプルプル震えていたわけではありません。
兵力を補うため朝倉家の援軍をひたすら待ちながら、織田方に対して夜討ちを仕掛けて反撃していました。

実はこの数日前に朝倉義景は、朝倉家の軍事一切を引き受ける軍奉行の朝倉景鏡(かげあきら)を信長追討軍として派遣していました。

朝倉家の軍奉行は長年、猛将・朝倉宗滴が務めていましたが、宗滴死去後は義景の従兄弟・朝倉景隆、次いで朝倉景鏡が務めました。
この景鏡率いる信長追討軍が既に動いていたのです。

ただし小谷城の救援ではなく「金ヶ崎から撤退する織田信長の追撃」のためです。

ええ、そうです。
みなさんもぜひ同じツッコミを入れてやってください。

「遅いわ!」

これが朝倉クオリティーです。

 

ヤル気スイッチ完全オフ! 朝倉家の後詰めは不安でしかない

実は朝倉家の軍勢は、ここまで長年、朝倉宗滴のセンスだけで維持されていたので、彼の死後は急激な質の低下を招いていました。

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さらに後任の朝倉景隆は謎の死を遂げ、朝倉景鏡が軍奉行の全権を握ってしまい、なんだかなぁ……な状態。

信長の撤退から10日ほどして、のんびりと金ヶ崎に現れた朝倉の大軍勢が、「よし! 信長は金ヶ崎から撤退した!」と指差し確認して(さあ、もう一度ツッコミましょう「遅いわ!」)、一乗谷に帰ってしまいます。
そしてちょうど越前に帰り着いた頃、浅井家からの小谷城援軍要請がやってきたのでした。

さすがの朝倉義景も後詰めの義務は果たさないといけないので「んじゃまた頼むわ、景鏡さん」と、景鏡に出陣要請します。

が、肝心の景鏡は「は? 無理無理。今帰ったとこだし、足疲れたわ」と言った会話があったどうか分かりませんが、再び出陣することはありませんでした。

確かに、これほどの大軍が帰郷して一度緩んだ士気を再度入れ直し、あらためて攻勢に出るには徹底した指揮命令系統が必要であり、さらに相当な訓練が必要です。
当時の朝倉クオリティーでは不可能に近い要求です。

結局、朝倉家は親戚衆の一人(謎の死を遂げた朝倉景隆の息子)である朝倉景健(かげたけ)に兵8千を任せて小谷城の後詰めに出しました。

当主の朝倉義景でもなく、軍奉行の景鏡でもない。
朝倉家のやる気スイッチがオフなのが分かります。

この軍勢が姉川の戦いで朝倉方として戦うことになるのです。
味方なら、不安しかありませんね。

 

本当は【姉川の戦い】ではなく【野村の戦い】だった?

朝倉景健の北近江到着後、浅井長政も小谷城から出て横山城の救援に向かいました。

援軍は、朝倉家主力ではなかったものの、織田方との兵力差は縮まりました。
信長は、横山城の北端「竜が鼻」に陣を敷き、横山城への後詰めとして南下するであろう浅井家本隊と朝倉の援軍に備えます。

ここで信長は徳川家康に援軍を要請しています。

この後に勃発するのが有名な【姉川の戦い】です。

兵数は前述の通り
・織田23,000
・徳川6,000
vs
・浅井8,000
・朝倉10,000~15,000
という規模ですね(推定)。

信長公記』では【野村の戦い】と呼ばれています。
浅井側の記録も【野村の戦い】であり、朝倉家の記録では【三田村の戦い】、そして徳川の記録だけが【姉川の戦い】です。

実は姉川の戦いは正確な記録が残っていません。

信長の13段の構えを、浅井重臣の磯野員昌が11段まで崩した――なんて勇ましい記録もありますが、すべて後世の軍記物が出典であり、本当かどうか怪しいところです。

【野村の戦い】ではなく【姉川の戦い】の名が残ったように、戦況も徳川寄りの内容に随分脚色されています。

少数の徳川方が朝倉方を蹴散らした勢いで浅井家の側面に横槍を入れて最終的に織田・徳川連合軍が勝利したことになっており、この戦闘経過も軍記物が作られた江戸時代という時代背景が色濃く出ていると思います。

なんせ3代将軍・徳川家光のおじいちゃん徳川家康と、母・江の実家の浅井家、そして母方のおばあちゃん・お市の実家の織田家が入り乱れて戦ったとあれば、徳川の時代ではこれほどの豪華キャスティングを見逃すことはできないでしょう。

要は徳川のための合戦描写なんですね。

また姉川の戦いでは、やたら徳川の譜代家臣たちが活躍しているように、戦国の世を知らない将軍に対して「我々の先祖が家康公を支えたから今の徳川の世があるんです。譜代家臣を大事にしなさいよ!」と、将軍を教育する格好のネタにしていたようにも思えます。

 

姉川の戦いは野戦による決戦が目的ではなかった

話は戻りまして。

姉川の戦いの経過で確かなことは、ざっと次のようなことです。

◆西の朝倉家に徳川家が対峙し、東の浅井家を信長の馬廻り衆と西美濃三人衆が戦ったこと

◆朝倉家の猛将・真柄直隆や、同じく浅井家の猛将・遠藤直経など、浅井、朝倉方の多数の将が戦死したこと

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◆織田信長が、撤退する浅井・朝倉家を追撃し、小谷城下をまたしても放火しまくったこと

姉川の戦い後も、浅井家は何年にも渡って軍事行動が可能だったように、
「実は浅井は負けてなかったんじゃないか?」
とか
「そもそも小規模な戦いだったんじゃないか?」
と言われており、結局は正確な経過がほとんど不明なんだ……ということに尽きます。

確実なことを確認しておきますと……。

あくまで横山城が主戦場であって、姉川の戦いは後詰め戦から展開した野戦であり、野戦による「決戦」が目的ではなかったことです。
この後、小谷城下まで攻められているので浅井長政は確かに野戦に負けましたが、「横山城防衛に失敗した」と言う方が正確でしょう。

【姉川の戦いの意義】
・野戦による決戦が目的ではなかった
・浅井は横山城の防衛に失敗した

後詰めの来ない横山城はもはや死んだも同然です。

横山城を守備する浅井方の国人衆は、戻ってきた信長に降参し、城を織田方に明け渡します。
信長は横山城の城番として木下藤吉郎(豊臣秀吉)と竹中半兵衛重治を入れ、続いて佐和山城の攻略に向かいました。

 

磯野軍 佐和山城参戦は不可能だったのでは?

佐和山城は相変わらず磯野員昌が守備しておりました。

軍記物では、磯野員昌の姉川の戦いでの活躍が知られていますが、そもそも敵地にポツンと取り残されている佐和山城の城主が姉川の戦いに参加できたかどうか疑問です。
陸路では織田家の支配地域を縦断して行かなくてはなりません。

そうであれば、わざわざ浅井長政の元になど行かず、織田方の背後に陣取るか、横山城に入城するでしょう。

あるいは琵琶湖から船で小谷城方面に出ることも考えられます。
今と違って佐和山城下まで内湖が広がっていましたので、城から直接、琵琶湖に出ることが可能です。

このルートで船団を率いて小谷城に向かったことも考えられます。

そこで佐和山城を空っぽにしてまで姉川に向かうでしょうか。

今回の織田家の目的は「京都までの進軍ルートを確保」し、「織田信長がいつでも畿内に軍勢を繰り出せることを諸大名に見せつけること」です。

故に、主戦場は南。
佐和山城はそれを阻止する最後の要の城ですから、守る側の浅井家も小谷城より佐和山城の防衛こそがヤマになっていたはずです。

そう考えると磯野員昌の参戦も怪しく、そもそも姉川の戦いの勝敗もそれほど重要ではないことが分かります。

 

京都までの進軍ルートは確保した

岐阜城の出陣から、佐和山城攻城戦までの一連の戦い。

それを見ると、小谷城の攻撃や、姉川の戦いは、横山城と佐和山城の攻撃前に、織田方が背後を狙われないために仕組んだ牽制だったと見るほうが自然です。

浅井長政が北近江防衛のためにすべきだった美濃に侵入して荒らしまくるという牽制を、義兄の信長自身が長政の面前でやってみせたのです。

佐和山城の短期間での落城は難しいと判断した信長は付け城戦術で対抗します。
城に通じるすべての道を付け城で遮断しました。

佐和山城を包囲する織田方の付け城。戦国時代は城の麓まで琵琶湖の内湖が広がっていました。彦根山は内湖からの補給ルートを阻止する役目があったと思われますが、制湖権は浅井方にありましたので、どこまで機能していたか分かりません

佐和山城を包囲する織田方の付け城。戦国時代は城の麓まで琵琶湖の内湖が広がっていました。彦根山は内湖からの補給ルートを阻止する役目があったと思われますが、制湖権は浅井方にありましたので、どこまで機能していたか分かりません/©2015Google,ZENRIN

すでに横山城まで信長の支配地域に入ってしまったため、小谷城からの援軍や兵糧は期待できません。

かなり絶望的な状況。
しかし佐和山城自体が巨大な城郭で、琵琶湖からの補給ルートはまだ浅井家が握っておりました。

磯野員昌という頼りになるアニキの存在で、これ以後も降伏することなく籠城に徹します。

結局、道を封鎖されたとはいえ佐和山城の落城は免れました。
横山城、佐和山城の攻城戦を一連の戦いと考えると1勝1敗の引き分けと考えてもよさそうです。

とはいえ信長は京までの進軍ルートを確保するという主目的を達成しております。
信長が、義昭に謁見して勝利を報告したのは誇張でも間違いでもないでしょう。

このようにお互いが完璧とは言わないまでもある程度目的を達成したのです。
こうしてみると有名な戦いであるにも関わらず「姉川の戦い」が決定的な戦いにならなかった理由が分かります。

今回はここまで!

今後は三好三人衆や本願寺の蜂起から、森可成の死、それに続く坂本城の歴史的意義まで突っ込んでみたいと思います。

筆者:R.Fujise(お城野郎)

◆同著者その他の記事は→【お城野郎!

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 



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