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【鉄砲伝来】
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種子島から紀州の根来寺へ
視点を日本国内に戻します。
種子島での鉄砲量産成功は、商人などを通じて本土にも噂されるようになりました。
紀州の根来寺(ねごろでら)から種子島時堯へ「一挺譲ってくれませんか」という使者が来たといわれています。
時堯もかなりの金額で購入したので迷ったようですが、言われた通りに一挺譲りました。
根来寺は平安時代に開かれ、現在にも続く由緒正しいお寺でありながら、戦国時代には70万石を超える領地と、1万前後の僧兵を抱える武装集団になっていました。
立地的にも紀伊半島南部の山中にあり、中央の権力争いに巻き込まれにくいところではあります。
が、もし事が起きれば、数で押し切られたり、兵糧攻めに遭って苦しくなることもありえます。
そうした窮地に陥る可能性を減らすため、鉄砲を配備しようと考えたのでしょう。
根来の刀鍛冶はスグに鉄砲製作に慣れたらしく、天文十四年(1545年)には堺から注文が入ったこともありました。
また「堺の商人が種子島に1~2年留まって鉄砲を練習し、習熟して戻ってきた」とか、「天文十三年(1544年)に十二代将軍・足利義晴が、管領・細川晴元を通じて近江国友村の善兵衛という鍛冶屋に鉄砲を注文した」という話もあります。
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それまで見たことも聞いたこともなかったようなものを、いくら情報やお手本があるとはいえ、一年程度で作れちゃうってスゴイ話ですね。
刀の名産地など、元々鍛冶の技術が発展していたところは、鉄砲を大量生産した土地にもなりました。
刀も鉄砲も、いずれも製鉄・鋳鉄技術を必要とするからです。
もちろん、そういった町の全ての鍛冶屋が、鉄砲や刀ばかり作っていたわけではありません。
農具や包丁、錠前なども作っており、材料が同じ、かつ積み重ねてきた技術が高かったから、質の良いものを色々と作ることができたようです。
戦争や軍事目的の技術が平和利用される――それは現代でも珍しい話ではありませんね。
瞬発式と緩発式
次は当時の鉄砲の作りについてみてみましょう。
種子島時堯が手に入れた火縄銃は「マラッカ型」と呼ばれるもので、その名の通り東南アジア製でした。
【瞬発式点火機構】を持っているのが特徴です。
一方、ヨーロッパ製火縄銃は【緩発式(かんぱつしき)点火機】という別の仕組みが主流でした。
ヨーロッパから来たもの=ヨーロッパの主流が最先端ということになりそうですが、なぜ東南アジアや日本では別の機構が用いられたのでしょうか?
これには、それぞれの方式の特徴と、地形が関係しています。
まずは瞬発式と緩発式の特徴から見てきますと……。
瞬発式は、ばねを使って瞬時に火縄に点火することができるため、点火→発砲のタイムラグが少なく、現代イメージするような銃に近いとされています。
これに対し緩発式は、引き金を引く速度に応じてアームが動き、点火するようになっています。これにより瞬発式より点火が遅くなるのだそうで。
「早く撃てるほうがいいじゃん」
そうツッコミたくなりますが、瞬発式は暴発しやすいという欠点もありました。
暴発すれば人的被害はもちろんのこと、当然その銃は使えなくなってしまうわけで……二重の損失を生む元になります。
そのため、発砲までの早さと命中精度では瞬発式、安全性や操作性においては緩発式がそれぞれ優れていると考えられます。
二丁拳銃がない理由
次に地形の差ですが、これは割と単純な話です。
平原が多いヨーロッパや中国大陸では緩発式、東南アジアや日本のように平原が少ない地域では瞬発式が好まれたという傾向があります。
◆安全性が高い緩発式=多くの射手が発砲に成功する確率が高い=弾幕状態を作りやすい
◆素早く撃てる瞬発式=標的に勘付かれる前に発砲できる=狙撃に向く
平原ならば、弾幕を張ったほうがより多くの敵を倒せますが、そもそも障害物が多かったり、地形の高低差がある場合は弾幕を張りにくいので、狙撃に向く銃のほうが使いやすいということになわけですね。
「どちらかだけが優れている」という話ではなく、現代的にいうなら、機関銃(=大量殺戮兵器)、とスナイパーライフル(=目標だけをピンポイントで撃ち抜く武器)の用途が違うのと似ているかと。
この好みは戦国時代だけでなく、江戸時代や幕末まで続きました。
幕末には命中精度の低い銃も入ってきていましたが、それは当時のヨーロッパにおける最新式の銃だったからです。
というか現代でも、命中精度と安全性を両立した銃火器を作るのは結構難しいことなんですよね。
もちろん技術は向上していますが、重さや反動などの問題もあります。
完全に余談ですが、漫画やゲーム、あるいは洋画の強いキャラクターでよく見かける「右手と左手に一丁ずつ銃を構えた人物」が現実世界ではほとんどありえないのは、「拳銃の構造上、左手用の拳銃を作るのが難しく、調達も困難だから」だそうです。見た目はすごくカッコイイんですけどね。
ただし、弾を撃ちきった後の再装填に時間がかかっていた時代は、予備として二丁以上の拳銃を持つこともありました。
予備なので、左右の手で同時に撃つわけではありませんが。
細川と三好の戦闘で鉄砲による死者
そんなこんなで、あっという間に国産製造に成功した火縄銃は、残念ながら使い手が扱いに慣れるまで少し時間がかかりました。
公家・山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』では、天文十九年(1550年)7月14日、「東山で起きた細川晴元と三好長慶の戦闘(中尾城の戦い)で、細川軍の発砲により、三好軍に死者が出た」と書かれています。
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公家の日記ですから、信頼度はかなり高いかと思われます。
この頃の公家の例に漏れず、言継も手元不如意で、調薬を副業にしており、庶民との付き合いもたくさんしていましたので、おそらくは戦見物をしに行った人から聞いたのでしょう。
早い時期に鉄砲を使った記録としては、他に天文二十三年(1554年)、島津氏家臣の伊集院忠朗による加治木城(大隅)攻めが挙げられます。
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また、十二代将軍・足利義晴が晩年に作らせた中尾城の防壁は、砂利や石を詰め、鉄砲対策を意識していたのが見て取れます。
この城を建て始めたのが天文十八年(1549年)10月なので、鉄砲伝来から数年しか経っていません。
上記の通り、義晴自身が以前鉄砲を注文したことがありましたので、より正確な情報を持っていたのでしょう。
いずれの事例も、日本における鉄砲の伝搬スピードの凄さがわかりますね。
少なくとも、「こういうヤバイ武器が世の中に出てきた。国内でも作れるようになっているから、いつ誰が使ってくるかわからない。備えなければ!」という概念は、かなり広く浸透していたとみていいでしょう。
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