本戦(15日)が、あまりに早く決着がついてしまったため、北では伊達政宗、南では黒田官兵衛が( ゚д゚)ポカーン状態になるわけですが、実はこの早期決着は他ならぬ徳川家康も驚いておりました。
なぜかというと、関ヶ原本戦の前日時点では三成のいる西軍が有利だったとも考えられるからです。
慶長五年(1600年)9月14日、前哨戦ともいえる【杭瀬川の戦い】がありました。
「くいせがわのたたかい」と読みます。
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杭瀬川の戦い 2ヶ月前のこと
時計の針を同年の9月から7月へと戻しまして。
もともと家康は会津の上杉を叩き潰すつもりで東北へ進軍しており、その途上で石田三成が挙兵したものですから、「どうしよう、どうしよう」とパニックになります。
関ヶ原の戦いというと、とかく【家康の仕掛けた罠に三成が引っかかった】という風に描かれがちですが、それはあくまで結果ありきの話であって、西軍の蜂起に対し東軍・家康だって100%勝てるだなんて自信はありません。
力が拮抗しており負ける可能性だって十分ある。
そうでなければ東と西で迷ったりする武将などいないでしょう。徳川が確実に勝てる状況だった【大坂の陣】とは違います。
そこで家康は7月25日、あわてて軍議を開きました。
有名な【小山評定】です。
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そこで、豊臣恩顧筆頭の福島正則が
「三成みたいな茶坊主は許せん!俺たちはタヌキじいさんに付いていくぜ!」(超訳)
と言えば、山内一豊も
「俺なんか、家康さんにお城(掛川城)を提供します!」(超訳)
と応えます。
山内一豊については、西軍からもスカウトの手紙が来ていたのですが、正妻・千代の機転でその手紙を家康に最初に読ませて夫婦の忠誠心をアピールし、後に土佐20万石を得るに至った逸話【笠の緒文(おぶみ)】がよく知られておりますね。
小山評定については後世の創作という議論もありますが、ともかく東軍は方針を変更。
家康は8月5日に自分の居城「江戸城」に戻ると、なぜか引きこもってしまいました。
家康動かず……ザワザワ……ザワザワ…
やる気満々の福島さんら豊臣系武将は東海道をズンズンと驀進して、愛知県の清洲城まで進撃します。
ところがいつまで経っても家康が来ません。
福島たちは不安になってきます。
「すぐに清洲に来ると言っていたじゃないか!」
「もしかして、うちら捨て石?」
ザワザワ、ザワザワ……。
一緒に先発隊にいた家康の部下・本多忠勝は真っ青になって「まあ、まあ」と必死になだめます。
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8月19日になって、ようやく家康の使者が来ます。
そして、こんなことが伝えられました。
「先行部隊の威勢がいいもんだから見守っていたんだけど、もしかして皆さん、清洲城を打って出る気ない?」(超訳)
えっ???
思いもよらぬ家康の物言いに対して、忠勝だけでなく、井伊直政も、他の徳川家臣団もびっくり。
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しかし、意気に感じた福島正則は、断言します。
「まことにごもっとも! されば、ただちに出陣して、成果をあげてみせよう!」
そして木曽川を挟んで対岸の岐阜城に攻めることになったのです。
うーん、愛しき猪武者よ……。
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岐阜城を守っていた信長の孫って誰だ!?
かくして福島正則や池田輝政らの新参者たちの東軍は、2日後の21日に清洲城を出発して、岐阜城を攻撃します。
清州城から岐阜城までの距離をグーグルマップで確認しておきますと、現代の距離で約29km、徒歩6~7時間とあります。
黄色→清州城
赤色→岐阜城
青色→大垣城
一方、西軍の将(岐阜城の主)は織田秀信でした。
この秀信さんってのが、また因縁めいておりまして、名字からお察しの通り、織田信長の血縁者。
孫です。
それも単なる孫ではなく清州会議で豊臣秀吉が担いだ、あの「三法師」なんですね。
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つまりこの【岐阜城の戦い】は、ほぼ織田豊臣の重要人物で行われたものでした。
メンツ的にはオールスターって感じですが、戦い自体はあっさり3日で陥落。
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東軍はその勢いで、三成たち西軍の主力が集結している大垣城のすぐそば、赤坂というところまで進撃します。
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