杭瀬川の戦い

徳川家康(左)と石田三成/wikipediaより引用

合戦・軍事

西軍勝利だった関ヶ原前哨戦「杭瀬川の戦い」家康も三成もガクブル

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岐阜城を守っていた信長の孫って誰だ!?

かくして福島正則池田輝政らの新参者たちの東軍は、2日後の21日に清洲城を出発して、岐阜城を攻撃します。

清州城から岐阜城までの距離をグーグルマップで確認しておきますと、現代の距離で約29km、徒歩6~7時間とあります。

黄色→清州城
赤色→岐阜城
青色→大垣城

一方、西軍の将(岐阜城の主)は織田秀信でした。

この秀信さんってのが、また因縁めいておりまして、名字からお察しの通り、織田信長の血縁者。

孫です。

それも単なる孫ではなく清州会議で豊臣秀吉が担いだ、あの「三法師」なんですね。

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つまりこの【岐阜城の戦い】は、ほぼ織田豊臣の重要人物で行われたものでした。

メンツ的にはオールスターって感じですが、戦い自体はあっさり3日で陥落。

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東軍はその勢いで、三成たち西軍の主力が集結している大垣城のすぐそば、赤坂というところまで進撃します。

 

家康の着陣を信じたくない三成

江戸城に引きこもりを決めていた家康。

この一報を受け「あれ? もう勝っちゃったの」と出陣せざるをえなくなり、9月1日、ようやく重い腰をあげます。

3万の旗本を率いて強行軍かつコッソリと西へ。

通常は堂々と見せびらかすのぼりや旗をたてず、手にもって進みました。

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9月14日、大垣城のそばを流れる杭瀬川近くの赤坂に布陣。

そこで、これまで隠していた【葵紋の旗7本】をはじめ、たくさんの旗や幟を一斉に立てたのです。

「うおー!」と盛り上がる東軍たち。

しかし、家康がいると報告を受けた三成は当初これを信じませんでした。

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「何言ってんだ、家康は今江戸にいるはずだからこんなところにいるわけないだろ? 金森長近が似た旗使ってるから、それと見間違えたんだろ?」

そんな風に強がりますが、実際はガクガクブルブル。

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家康の着陣を信じたくない三成は改めて偵察させますが、結果は「家康の側近がいました(キリッ」という全く嬉しくないもの。

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