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【杭瀬川の戦い】
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三成の混乱を鎮めるため左近が奇襲が仕掛ける
「マジで家康だああああああ!!」と大混乱に陥りそうな西軍。
なだめたのは三成の側近・島左近(清興)でした。
「殿! これ以上ここでじっとしてても仕方ありません。向こうはまだ着いたばかりだろうから、今のうち軽く一戦して叩いておけば、こちらに勢いがつくはずです」
三成も、これでようやく我に返ります。
左近は蒲生郷舎(元・蒲生氏郷の家臣)と共に500人の少数で、東軍へ奇襲を仕掛けました。
このときの戦法がカッコイイ。
川を渡って密かに東軍へ近付き罵声を浴びせ……目の前の田んぼを刈ったりして挑発。
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敵がいる目の前でそんな余裕ぶっこいた真似をされては、さすがに東軍も黙っていられません。
東軍の将・中村一栄(かずしげ)隊が刈田を止めるために出てきます。
もちろんこれは左近の予想通り。
多少の犠牲は出てしまったものの、少しずつ川のほうへ退却します。
渡河中の戦は困難なものです。
もちろん東軍諸将もそれを知っていますから、この機を逃すなとばかりに猛攻をかけます。
しかし左近も戦上手、そう簡単にはやられません。
そして川を渡りきり、さらに大垣城に向かって退却を続けます。
家康ブチ切れ!左近は意気揚々と本陣へ
追う中村隊が同じく川を渡り、対岸に着いたその時!周囲の草むらから西軍の兵がワラワラと湧き出てきました。
「かかったな!」
退路を絶たれた中村隊は囲まれてようやく計略であったことに気付きましたが、時既に遅し。
逃げていたはずの左近隊が挟み撃ちを仕掛けてきたため、大苦戦に陥り、家老だった野一色頼母(のいっしきたのも)もこの混戦の中で死んでしまいました。
東軍もただ黙って見ていたわけではありません。
中村隊の苦戦を感じ取った有馬豊氏という大名が救援に向かいます。
しかし、これまた西軍・宇喜多隊の明石全登(あかしたけのり)に横っ腹から集中砲火を受けて撤退を余儀なくされてしまいました。
「勝手に出陣したあげく負けるとは、あのバカモノども!!」
この様子を山の上から見ていた家康は当然ブチ切れ、井伊直政と本多忠勝を戦地へ向かわせると強制的に兵を退かせました。
策を見事成功させた左近はこの結果に満足し、深追いすることなく引き上げます。
戻ってみると、家康登場で混乱していたのが嘘のように西軍は大盛り上がり。
士気を上げるという当初の目的は無事果たされたのでした……が、そのテンションは翌日見事にひっくり返されることになります。
翌日とは他でもありません。関ヶ原の戦い本戦であり、西軍は裏切りの連鎖によりわずか一日で敗北してしまいました。
その辺りの関連記事は以下にお譲りしますので、よろしければ併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon)