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十文字腹から五臓六腑を掻きだした
柴田勝家は、織田信長の父・織田信秀の代から仕える武将でした。
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一時は、信秀の次男(つまり信長の弟)織田信勝の家老となり、信長に対し反旗を翻しましたがこれに敗れ、後に軍門に下ります。
そして『鬼柴田』と異名をとるほど武勲をあげ、織田家の筆頭家老に上り詰めました。
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しかし、北陸攻めの最中に起きた本能寺の変では、光秀討伐に間に合わず、織田家臣団での発言力を秀吉に抜かれてしまいます。
とりわけ、織田家の後継者を決める『清洲会議』で、信長の三男・信孝を推しながら、秀吉が擁立した三法師(信長の長男・織田信忠の息子で後に織田秀信)に敗北したのが大きかった。
信長の妹・お市との結婚が決まったのを勝利と見る向きもありますが、その後、日の出の勢いの秀吉には敵わず、結局、【賤ヶ岳の戦い】を機に切腹へと追い込まれていくのです。
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さて、そこで問題です。
漫画のように「勝家がハラワタをひきちぎった史料は存在する」のか?
『柴田退治記』の記述とは
困っていたら『柴田退治記』にそれを匂わせる記述がございました。
私の現代語訳で強引に進めますと、勝家はまず「腹の切り様を見よ!」と左手で脇差を突き刺し、右手で背骨側に引きつけて切り、返す刀で心下から臍下まで切り裂いた(十文字腹)とのことです。
ただ、これだけでは終わらず、さらに五臓六腑を掻き出して(無念腹)、家臣の中村文荷を呼んで首を打つように頼んだとのこと(文荷は後ろにまわって勝家の首をはね、文荷もその太刀で腹を切って死にました)。
「内臓を投げた」とは書いていません。
しかし「内臓を掻き出して」はおりますね!
まさしく、秀吉に対する、どうにもならない無念の怒りが蘇ってくるかのような記述。
そしてそれは、勝家が後見人となっていた織田信孝にも、同じような現象が見られるのです。
勝家が烏帽子親だった信孝
信孝は、織田信長の三男として永禄元年(1558年)に生誕。
次男の信雄より20日早く生まれたのですが、母の身分が低く、報告が遅れたことで三男にされてしまったと伝わってます。
それがなぜ柴田勝家との関係が深いのか。
と申しますと、実は勝家は、織田信孝の烏帽子親でもあるのです。
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烏帽子親とは、元服の際に行われる儀式で、実質的には後見人という立場を表明するもの。
そしてその後、信孝は、紀州征伐や荒木村重討伐などで実績を残していきました。
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しかし!
これまた勝家と同様に、本能寺の変では光秀討伐で秀吉に遅れを取り、山崎の戦いでは名目上だけの総大将に終始します。
来たる賤ヶ岳の戦いでは、岐阜城で兄の信雄に囲まれたまま何もできず、秀吉に降伏するしかなかったのです。
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