答えは、天文21年(1552)12月。大内義隆の許可を得て、宣教師コスメ・デ・トーレスが実施したものだとされます。
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トーレスは、あのザビエルさんの後任だとされ、場所は山口市でした。
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今回の舞台は、それから約25年後の天正6年(1578年)。この年、巨星が落ち、越後は大混乱に陥るのでした。
官兵衛登場
◆軍師官兵衛で知られる黒田官兵衛さん。その息子の松寿丸こと黒田長政さんは天正5年(1577年)に人質として豊臣秀吉のもとに預けられました。長政が愛用していた兜といえば「銀箔押一の谷形兜」でしょう。いかにもバランス悪そうなカタチをしており、実際、重さは約3キロもあるようで、戦場では大変だったハズです。
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しかし、味方を奮い立たせ敵に余裕の態度を見せるため――という意味では確かに目立つデザインであり、長政さんが意外に芝居ッ気・洒落っ気のある武将だったんでは?と思わせる材料にもなりますよね。フィクション作品によっては「できない子」として描かれることもあるのが残念です。
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12月23日
◆天正6年(1578年)のイブイブだった12月23日、上杉謙信は家臣たちに向かって遠征を発令します。もちろん雪深い越後では行軍はかなわず、翌年3月の出発を予定していたのですが……。
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