さまざまな困難を乗り越えた魏無羨と藍忘機――この二人が大自然の中、琴と笛を演奏する大団円は感動的です。
七絃の古琴とは、中国最古の伝統楽器であり、天地をあらわすものとされます。
世界遺産にも認定され、身も心も美しい人が大自然の中で琴を弾くだけでも美しく尊い――嗚呼、すばらしい大団円です。
そうまとめたいところではありますが、ちょっと待ってください。
二人が合奏をすることが、これ以上ない事として演出されているのは、一体なぜなのか?
もうちょっとすることないの?
ハグとかキスは?
なんて、ツッコミたくなったことはないでしょうか。
実はそこには長い年月を超えて受け継がれてゆく、中国伝統の美しい願いがあったのです。
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“忘羨”はカップリング表記のみにあらず
ともに演奏する曲名を考えてあるのか?
そんな会話が、この物語の底にはそっと響いておりました。
その曲名は「忘羨」――。
羨ましいという気持ちすら、忘れてしまう。なぜならば、こうして合奏をする私たちほど幸福なものはいないのだから。
そんな意味があり、かつ二人の名前も組み合わせております。
ボーイズラブのカップリング表記のようで、そうではない。書道で書いていても特に不審に思われない。極めて高度な曲名がそこにはあります。
ここまで踏まえてこの名前にしたのであれば、まさしく巧みの技と言えます。
合奏するふたりは男女ではなく、男性同士。夫婦仲と合奏を組み合わせた言葉はあります。
琴瑟(きんしつ)相和す。『詩経』「小雅・常棣」
琴と、大型の琴である瑟の合奏です。これは夫婦仲としてたとえられます。
では、琴と笛は?
それは友情の演奏とみなせます。
ともにこの曲を奏でる相手を探そう
物語の元となった作品として金庸『笑傲江湖』があげられます。
この作品の序盤に、劉正風と曲洋という人物が登場。正邪両派が激しく対立しています。
正派に属する劉正風が引退式を開いたところ、彼とその一門を貶めるべく「邪派の曲洋と親しくしているな!」と糾弾されてしまいます。
劉正風とその家族と弟子が襲撃されたところ、曲洋と、この物語の主人公・令狐冲が救助に入りました。
かくして劉正風だけが救われるものの、彼と曲洋は激戦の中で重傷を負っていました。
劉正風は簫(しょう・縦笛に似た楽器)。曲洋は琴。
死にゆく二人は、音楽を通し、正邪を超えた友情を育んでいたのです。最期の力を振り絞り合奏し、二人は曲譜「笑傲江湖」を令狐冲に託します。
なんとこの「笑傲江湖」とは、幻の名曲「広陵散」を元にしているというのです。
琴だけで演奏する「広陵散」を、簫をもつものも加え二人で合奏するようにした「笑傲江湖」。
誰よりも大切な誰かと、この曲を奏でなさい――そう託された令狐冲の、長く困難な物語が始まります。
令狐冲は冲(ちゅう)という名前通り、無欲で人がいい青年です。
彼が気の合う琴の弾き手を探す一方、周囲は権力を求め、武術の奥義書のために争い、破滅してゆく。
権力を求めるか? 愛する相手との合奏というひとときを求めるか? どちらが正解か? もちろん合奏だ!
自由気ままに、愛する誰かと生きること。それこそが人間の幸福ではないかと、『笑傲江湖』は描いているのです。
この『笑傲江湖』映画版のテーマとして大ヒットし、幾度も謳われている曲が「滄海一声笑」でした。
青い大海原にまるで笑うように波が立っている。両岸に打ち付けているよ――そんな明るい歌詞のようで、これには深い意味があります。
波が両岸に打ち付けるように、対立した正邪両派どちらの言い分もわからなくもないよな……もうわけがわからんから、歌って生きるしかねえ!
そういう開き直った感情もあるのです。
最後は「ラーララーラ♪」と歌い上げることがお約束なのですが、もうヤケになっていると解釈できなくもありません。
世知辛いときに歌うとしっくり来るのか、中国語圏では永遠の名曲として扱われております。
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彼らの無念を昇華させよう
この作品は、愛するもの同士の合奏で大団円を迎えます。
劉正風と曲洋は友情と合奏を全うできなかった。その思いを受け継ぎ昇華させるという願いがあります。
立場の異なる両者が友愛を育んだものの、周囲が受け入れずに破滅してしまう――そんな物語はあります。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』が代表例です。それを元にした『ウエスト・サイド物語』は、悲劇的な結末を迎えます。
山田風太郎『甲賀忍法帖』では「甲賀ロミオと伊賀ジュリエット」という章題があり、この作品もまた運命に逆らうことができず、愛し合う二人は悲劇的な結末を迎えました。
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しかし、『笑傲江湖』では二人が楽器を演奏して終わる。
劉正風と曲洋の無念を乗り越えて、合奏して終わります。
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