歴史書籍

古くて新しい東京の坂を楽しむ書籍『TOKYO坂道散歩なび』より神楽坂を紹介!

『TOKYO坂道散歩なび 選りすぐり18コース』(→amazon)の制作に、執筆協力しました鷹橋忍と申します。

こちらの本は、机の上で情報を集めたのではなく、私を含む制作スタッフが現地に足を運び、実際にコースを幾度も歩いて、作り上げました。

そのため、リアルな坂や街の空気を感じて頂けると思います。

私たち制作スタッフが絶対の自信をもってお勧めする、選りすぐりの18コースのうち、巻頭を飾る

【コース01 神楽坂】花街の面影を残す 粋な坂道を愛でる

をノーカットでお届け致します。

本書の内容は2017年当時のものですので、現在とは様子が変わっている箇所もありますが、それもまた街の移り変わりとして、楽しんで頂ければ幸いです。

※TOP画像『TOKYO坂道散歩なび 選りすぐり18コース 坂と街のヒミツを楽しむ本! (KAWADE夢文庫)』(→amazon

 

古くて新しいTOKYOの坂と街を深く楽しむために

坂好きを自任する人々を虜にする「坂」の魅力とは何だろう。

坂上からの絶景、上りきったときの達成感、坂を彩る石垣や緑の木々の美しさ……。

だが、それ以上にわれわれを魅了するのは、坂を基点に街を歩くことで、その地域がたどった歴史や地理的な変化、ふだんとは違う角度だからこそ見えてくる光景など、街の意外な素顔に出会えることだろう。

そんな坂と街の魅力をもっと多くの人に知ってほしくて、本書は編まれた。

「坂学会」の井手のり子氏に協力をいただきながら、東京23区のなかでもとくに魅力的な坂が集まるエリアを取り上げ、18のコースを設定、紹介している。

街の歴史に触れながら、史跡・施設などの「立ち寄りスポット」にも十分なページを割いているので、コースの道順をたどるだけで理解が深まるはずだ。

関口~目白台を歩くコース(コース16)では「のぞき坂」の名の由来が納得できる空前絶後の傾斜を、

のぞき坂

白金(コース09)では丹精された花々が印象的な住宅街を抜ける「明治坂」の美しさを堪能していただきたい。

明治坂

西日暮里~谷中(コース15)では「夕焼けだんだん」なる階段坂から見下ろせるどこか懐かしい光景を、

夕焼けだんだんから、谷中銀座を見下ろす

本郷(コース13)ではかつて「菊坂」の近所に暮らし、赤貧の中でも小説の執筆に没頭した樋口一葉の面影を感じるに違いない。

菊坂の入口

江戸の町では、その面積の8割を占める武家地と寺社地に町名がつけられなかったため、坂や橋がランドマークの役割を果たしてきた。

とくに動くことのない坂は、格好の道しるべであったのだ。今でも道順を説明するときに「◯◯坂を上った先」のような言い方をするように。

しかし、不動のランドマークであった坂も、近年では少し様子が変わってきている。

たとえば、赤坂(コース05)、赤坂~虎ノ門(コース06)、赤坂~六本木(コース07)を歩くコースでは、再開発事業などにより街並みが大きく変わり、それに伴って、いくつかの坂が姿を消したり、姿を変えたりして、ランドマークとしての役割を失いつつあるようだ。

その反面、六本木さくら阪・けやき坂のように新しい坂も生まれ、多くの人々で賑わっている。

今、歩いている場所に、かつて何があったのか、そして、この先どう変わっていくのか――坂歩きによって、過去に思いを馳せ、現在を味わい、未来を展望するなら、東京は今よりずっと面白くなるに違いない。

※記事末に全コース名を掲載

 

コース①花街の面影残す粋な坂道を愛でる

風情ある細い路地や老舗、フランスを初めインターナショナルかつお洒落なレストランも軒を連ねる。

明治以来、文人達も闊歩した通りには、今もさまざまなエピソードが残る。

新と旧・和と洋が混在する魅力的な街だ。

江戸城門におかれた三十六見附(見張り番所)の一つ、牛込見附(御門)からまっすぐのびる大きな坂が神楽坂である。

江戸時代には海からここまで船が上がってきて、全国から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒などが荷揚げされた。現在、商業ビル「ラムラ」のあるあたりは、神楽坂河岸と呼ばれた一大船着場だったのだ。

神楽坂河岸から神楽坂方面へ行くと、すぐ高台になるため、河岸から荷物を揚げるための坂やそれにちなんだ地名が生まれた。軽子坂、揚場町などはその典型である。

高台であるということは地盤が固いということでもある。

いわゆる「山の手」であったことから、天正18年(1590)に徳川家康が入府すると多くの武家屋敷ができた。

その中でひときわ存在感を見せたのが、神楽坂上の先の酒井若狭守の屋敷である。老中・大老を歴任した若狭小浜藩・酒井忠勝は三代将軍・家光の信頼厚く、江戸城で火事があった折、家光は城から程近いこの屋敷に避難している。

忠勝が将軍警護のために周囲に竹矢来(竹を粗く交差させてつくった囲い)を巡らせたことから、現在もある矢来町の名の由来となった。

その後も家光はたびたび酒井邸を訪問しており、牛込御門からの最短距離である神楽坂はメインストリートになっていく。

この地は武家屋敷と並んで、多くの寺社が軒を連ねた場所でもあった。いまはなき行元寺(「寺内公園」に面影を残す)、地蔵坂上の光明寺(こうみょうじ)、庾嶺坂近くの若宮八幡宮も有名だが、なんといっても“神楽坂の毘沙門さま”善国寺にとどめをさす。

もとは元禄4年(1595)に家康を開祖として日本橋に寺社地を与えられたが焼失、その後、麹町を経て、火事により神楽坂へ移転してきた。麹町にはいまも「善国寺坂」が残っている。

善国寺は「江戸の三毘沙門」と呼ばれて多くの参詣者を集め、明治~大正期には有数の信仰地として賑わったという。

その周辺に茶店が軒を連ねたことで、花街の原型ができた。うお徳などの料亭や「和良店亭」などの寄席、芸事にかんする店も増え、永井荷風、夏目漱石などの文人が多く行き来するようにもなった。

なお、明治になると、かつて武家屋敷だったところを中心に高級官吏が居を構え始める。

下町に比べて関東大震災の被害が少なかったこともあり、三越、高島屋、資生堂など一時移ってきた商業施設も多かった。

早稲田大学、東京物理学校(東京理科大学)、東京法学校(法政大学)など周辺に学校が増え、さらに当時の行政・教育に影響を与えたフランス関係機関が集中した。その拠点が逢坂沿いのアンスティチュ・フランセ東京(旧日仏学院)である。

花街の面影を残しつつ、学校やフレンチレストランが点在するのも、うなずける。

 

軽子坂

飯田橋駅B4a、B4b出口を出てすぐ。坂下の名画座「ギンレイホール」が目印だ。

「軽子」の名は、江戸時代、目の前の神楽河岸で揚げられた荷物を軽籠(縄で編んだもっこ)で運ぶ人が、この辺りに住んでいたことから呼ばれた。

幅は広いが、わりと急な長い坂である。重い荷物を担いで何度も往復するのは骨が折れたろう。

芸者新道

軽子坂を上り切って左折、神楽坂3丁目3と2の間の道を入ろう。ここは花柳街として華やかだった頃、芸者衆が近道として通っていた。小さな段々が続き、やや高低差がある道。「ろくはち通り」とも呼ばれたが、これは料亭の1回目の開始が18(6)時で、2回目が20(8)時だったことから。当時の隆盛がしのばれる。

かくれんぼ横丁

来た道を戻って料亭「千月」の手前を左折。お忍びで来てもスッと入れば人目を避けることができ、まるで「かくれんぼ」をするようだからこの名が付いたという。人とすれ違うときは気を遣うほど小さな横丁である。かつて、この横丁に「わかまつ」というおにぎり屋さんがあり、芸者衆が手軽に腹ごしらえをしていたとか。

うお徳

かくれんぼ横町を出るあたりにある料亭。明治の文人、尾崎紅葉らがひいきにした。『高野聖』などで知られる泉鏡花は、紅葉の弟子だったときに、ここで芸者の桃太郎と恋仲になる。二人は同棲を始めたが、修行中の身であることから紅葉に「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで反対され、泣く泣く別れることになる。だが、明治36(1903)年に紅葉が亡くなると、二人は結婚した。この間の悲恋を小説にしたのが、代表作の一つ『婦系図』だ。

 

三年坂(三念坂)

「うお徳」を通り過ぎて最初の十字路の左右にのびた坂。傾斜はあまり見られない。

赤穂浪士で有名な堀部安兵衛が、高田馬場の決闘に向った際に、この坂を駆け抜けたと伝わる。

本多横町

先ほどの十字路を左へ行くと本多横町に入る。神楽坂に抜ける道では一番大きな道で、多くの飲食店が並び、賑わいを見せる。名前の由来は、福井藩家老・本多家の広い屋敷があったことから。

兵庫横丁

神楽坂4丁目と5丁目の間に位置する。兵庫とは「兵=つわもの、庫=くら」のことで「兵器を納めておく倉」をさすため、この辺りに兵器庫があったのだろう。いまでは狭い路地に高級割烹やバー、小物を売る店が立ち並ぶ、まさに隠れ家的な神楽坂を代表するスポットである。

和可菜

兵庫横丁に入って正面の“本書き旅館”として有名な旅館。戦前戦後に活躍した女優・小暮実千代が旅館を買い取って主になったことから、つながりのある脚本家らがここを定宿にした。やがて野坂昭如、色川武大、山田洋次監督など錚々たる作家・脚本家が数々のヒット作を生むようになる。

寺内公園

兵庫横町先の十字路を右に進むと見えてくる。「寺内」とは行元寺の境内の俗称。その貸地が遊興地であったことから「花柳界発祥の地」ともいわれる。喜劇俳優・落語家として一世を風靡した柳家金語楼も寺内に住んでいた。なお、公園といってもマンションが建ったりして、いまでは遊ぶことはできないほど狭い。

 

神楽坂

寺内公園を通り過ぎ、左へ上がっていくと神楽坂に出る。

坂名には「坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから」「津久戸明神が移ってきたとき、この坂で神楽を奏したから」「若宮八幡の神楽が聞こえたから」「この坂に赤城明神の神楽堂があったから」など、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

寛永5年に大老・酒井氏が矢来に屋敷地を拝領したため、牛込見附への登城道路として整備が進み、いまの神楽坂の原型ができた。明治・大正初期には「山の手銀座」と呼ばれるほど賑わった。

相馬屋源四郎商店

神楽坂沿いにある文房具店で、その歴史は古い。紙漉きから紙問屋になり、戦後は現在の文房具店となる。相馬屋の原稿用紙を使って書くことが、明治の文人たちの憧れであり、尾崎紅葉、夏目漱石、坪内逍遥、石川啄木なども愛用した。店内には彼らの自筆の原稿が飾られていて、見学できる。

善国寺

神楽坂を横切ると、朱塗りもまぶしい善国寺が見えてくる。麹町から移転してときに門前の店が一緒に移って来たため縁日の始まりとなり、神楽坂の繁栄の基礎となった。明治も半ばになると毘沙門天の縁日で夜店が出て、人出が多くて歩けないほどだったという。「歩行者天国」発祥の地でもある。本堂の左右には狛犬ならぬ、毘沙門天の化身であるトラの石像が鎮座する。

 

地蔵坂

善国寺を通り過ぎて神楽坂上方面に行く途中に、左折したところが地蔵坂である。坂名は坂上の光照寺に子安地蔵があったことに由来する。

なお、この辺りに藁を扱う店があったため、藁坂、藁店坂とも呼ばれた。坂は勾配がきつく、大きく右に湾曲しながら上っていく。そのため、道がぬかるむと、荷を運ぶ馬の足が滑る。その滑り止めのために藁が必要だったため藁店があったというが、実際に上がると納得だ。

ちなみに、かつては坂の途中に「和良店亭」という寄席があり、夏目漱石がよく通っていたという。

光照寺

地蔵坂の坂上、左手にある。戦国時代には、この地域の領主だった牛込氏の居城があったが、北条氏滅亡後に牛込城は取り壊され、その後、正保2年(1645)に神田から光照寺が移転してきた。高台なので眺望がよい。

宮城道雄記念館…道なりに進んで変形四つ辻を右に曲がる。宮城道雄は、正月三が日の定番のBGM『春の海』などを作曲した盲目の箏曲家。晩年の住居を記念館としたもので、音楽家の記念館としては日本で初めて造られた。

 

逢坂(おうさか)

記念館を出てもとの道に戻り、さらに進む。しばらく進むと、左に最高裁判所長官官邸があるので、その角を左に道なりに進むと、逢坂の上に出る。
昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来たとき、美しい娘と恋仲になったが、その後都に帰って没した。娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになった。

名にしおはば逢坂山のさねかづら 人にしられでくるよしもがな

この歌に詠まれた「さねかづら」が美男葛と書くため、「美男坂」という別名もある。

坂名の由来はこのとおりだが、勾配がきついので、上から見ているとゆらゆら、ひょこひょこと人の頭が見えてきて、全体の姿が現れる。そのときは、本当に「出逢う」という感じがする。先方が大荷物だったときは、思わず、「大丈夫ですか」などと声をかけたくなるほどだ。

逢坂(おうさか)

アンスティチュ・フランセ東京(旧日仏学院)

逢坂をくだる道沿い、左側に位置する。大正13年(1924)に財団法人として設立、日本におけるフランス文化の拠点となる。そのため、神楽坂は日本でもっともフランス人の人口密度が高い。

 

庾嶺坂(ゆれいざか)

逢坂を下りきって外堀通りに出て、道なりに飯田橋方面に進むと左にある坂。江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、2代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所・大庾嶺にちなんで命名したと伝えられる。

若宮坂、祐玄坂、唯念坂、幽霊坂、行人坂、新坂など別名が多い坂だが、その名からこの土地の変遷をたどることができる。

「若宮」は若宮八幡宮が坂上にあったことから、「祐玄」は人の名(祐玄和尚)、「唯念」は念仏を唱えていることからか、「幽霊」はその当時の寂しい景観を、「行人」は道としての形態ができたことを、「新坂」は近くに別のよく知られた坂(逢坂)があったのだろう。

庾嶺坂(ゆれいざか)

若宮八幡神社

庾嶺坂を上りきって右手にある。鎌倉時代源頼朝が奥州征伐に向かう際、戦勝祈願のため宮鎌倉鶴岡の若宮八幡宮をここへ分社した。以前はこの辺り一帯が境内だったが、いまはかなり縮小されている。

小栗横丁

若宮神社を左に見て道なりに進むと、長期滞在の外国人客も多いアグネスホテルがあるので、その脇道を進むと現われる。名前の由来は、小栗という姓の屋敷があったことから。熱海湯という銭湯があることから「熱海湯横丁」ともいわれる。狭い路地に飲食店が建ち並ぶ路地から入った階段は趣があり、たびたびロケ地などに使われている。

見番

正式名称は「東京神楽坂組合」。芸者の手配や玉代などの計算などを行う。最盛期である昭和12~13年(1937~38)には700人近い芸者衆がいたが、現在は30名ほど、料亭も5件ほどだ。2階が稽古場で、時折三味線の音が流れてくる風情ある一画である。

見番の脇の道を右に進むと神楽坂に出る。帰りは飯田橋駅が近い。

 

コース表(神楽坂から落合まで全18コース)

【コース01 神楽坂】花街の面影を残す 粋な坂道を愛でる(全文掲載)

※本稿に全文掲載

【コース02 番町~九段】武家地が密集した切絵図の舞台「番町」を歩く

切絵図の時代からあまり変わっていない、古くて新しい坂を歩きます。東郷坂、行人坂、南法眼坂と、三つの坂が一直線に続く道が、鷹橋のお勧めです。

【コース03 四谷】体感! 四谷の「谷」と「スリバチ型地形」探検

四谷を、谷から尾根へ、尾根から谷へと、アップダウンを繰り返すコースです。アニメの舞台にもなった須賀神社の男坂からの眺望と、「策の池」の谷底感は、ぜひ味わって頂きたいです。

【コース04 霞が関~永田町】国会周辺の坂からめぐる大人の社会科見学

国立劇場、最高裁判所、国会図書館、国会議事堂や首相官邸など、日本の中枢をめぐる坂をたどる、大人の社会科見学コースです。憲政記念館が、鷹橋のお気に入りスポットです。

【コース05 赤坂】激変する時代の流れを〝体現〟する都心の坂

最新スポットが次々と生れると同時に、昔からあるものが静かに消え、あるいは姿を変える――そんな赤坂の新旧を感じられるコースです。V字型の薬研坂も必見です。

【コース06 赤坂~虎ノ門】「桜坂」の競演に酔い、見晴らしの名所・愛宕山を目指す

桜が彩る坂道をたどるコースです。桜の季節に、ぜひ、訪れて頂きたいです。ゴール付近の、「出世の階段」と呼ばれる愛宕山の男坂は圧巻です。

【コース07 赤坂~六本木】ミッドタウンからヒルズをつなぐ大都会の〝坂迷宮〟

直線距離なら一駅分の赤坂のミッドタウン~六本木ヒルズ間を、迷路のように歩きます。於多福(おたふく)坂、寄席坂、饂飩坂、芋洗坂など、ユーモラスな名前の坂にも出会えます。

【コース08 麻布】坂沿いの大使館と隠れた“水スポット”を訪ねる

大使館が立ち並ぶ、インターナショナルな街の坂を歩きます。ハイライトは、一本松坂から三方向へ三つの坂(狸坂、大黒坂、暗闇坂)が下る「坂の交差点」です。

【コース09 白金】緑陰の坂から見えてくる セレブの街の意外な素顔

花や木々に彩られ、洗練された坂道を堪能しつつ、セレブの街の意外な一面を垣間見られるコースです。鷹橋の体感では、全コースで最もハードでした。

【コース10 目黒】庶民信仰と落語の舞台だった「むかし道」を坂からたどる

目黒川の桜並木を経て、庚申塔の見守る坂道を歩きます。落語『目黒のサンマ』にゆかりの坂も通ります。ラストの別所坂上にある「新富士跡」からの眺めは最高です。

【コース11 御茶ノ水】明治に生まれたカルチェ・ラタンをアカデミックに坂探訪

学生街(カルチェ・ラタン)の坂をめぐります。「東京音楽大学発祥の地」や、夏目漱石が卒業した小学校なども見られる、アカデミックな雰囲気が漂うコースです。

【コース12 湯島】学問の中心地で見つけた 神様につながる「男坂・女坂」

神田明神や湯島天神、湯島聖堂など、江戸らしい文化の薫る地の坂をめぐります。江戸情緒溢れる甘味屋さんで、甘酒とお団子で一服したのが、一番の思い出です。

【コース13 本郷】樋口一葉ゆかりの菊坂から文士たちの面影をたどる

「菊坂」という、樋口一葉にゆかりの深い果てしなく長い坂を中心に、明治~昭和に活躍した文士たちの足跡を、坂とともにたどるコースです。文士とは関わりがありませんが、個人的には「金魚坂」がお勧めです。

【コース14 根津~千駄木】創作意欲を刺激された? 鴎外・漱石が愛した坂と街

夏目漱石や森鴎外が思案にふけりながら上り下りしたであろう坂道をたどり、小説の舞台となった地や、文豪たちの記念館や旧居跡を探訪するコースです。

【コース15 西日暮里~谷中】街歩きのメッカ “寺町と下町”を味わいつくす

「坂と寺と猫の街」として知られる谷根千(谷中・根津・千駄木)の坂をめぐりながら、下町情緒漂うレトロな街を、観て、食べて、学べるコースです。谷中銀座での食べ歩きは、最高でした。

【コース16 関口~目白台】神田川沿いの坂をいく 大人の散策コース

神田川沿い(低地)と目白台(高台)を結ぶ坂を幾度も行き来しながら、江戸川橋駅から目白駅方向へ進みます。博物館や教会など、見どころ多し。ややハードなコースです。

【コース17 目白~落合】高台の住宅地をへて 川が“落ち合う”せせらぎの里へ

JR目白駅から西武新宿線の下落合駅へと進むコースです。ホタルの養殖で知られる「おとめ山公園」や、野鳥の飛び交う「野鳥の森公園」などにも立ち寄ります。比較的、歩きやすいです。

【コース18 落合~中井】二つの「村」を見てきた坂から 芸術家の息吹を感じる

高台の高級住宅地「目白文化村」と、川沿いの低地に生れた「落合文化村」。この二つの村に点在する坂を行き来するコースです。一の坂、二の坂と、一から八までの坂が次々と現われ、最終コースを飾ります。

【TOP画像&参考】
坂の街研究会 (編集) 『TOKYO坂道散歩なび 選りすぐり18コース 坂と街のヒミツを楽しむ本! (KAWADE夢文庫)』(→amazon

本稿の紹介文:鷹橋忍

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