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【チカパシ】
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8月15日を過ぎても戦争は終わらない
日本の常識として、8月15日に戦争が終わったということがあげられます。
それはあくまで本土でのこと。
樺太では22日、地取において日ソ間で停戦交渉がまとまりましたが、その後、樺太最南端にあり、最も栄えていた豊原に空襲があり、犠牲者が出ています
樺太から脱出した船も魚雷に襲われ、北海道を前にして水中に散った命もありました。
荒波は、まだ続きます。
そんな中、チカパシとエノノカはどうなったのか?
樺太先住民でもアイヌは日本人と見なされ、日本領に住まねばならないと彼らが考えたならば、“決死の逃亡”に巻き込まれたことになります。
第二次世界大戦において、最大規模の戦死者を出したのはソビエト連邦です。
第二次世界大戦は【大西洋憲章(1941年8月)】と【カイロ宣言(1943年11月)】により、領土不拡大の原則が定められており、ソ連もここに加わっています。
とはいえ樺太の場合は拡大ではなく、ソ連からすれば【ポーツマス条約】により割譲された領土の「奪還」という認識です。
後に日本が1951年に締結した【サンフランシスコ平和条約】には、【ポーツマス条約】で獲得した領土の放棄が含まれていました。
樺太の一部と千島列島はこの範囲に入る。
問題はそれ以外の領土も獲得したことです。
ソ連はこのとき、南樺太を日本から取り戻すだけでなく、北方四島をも領有しました。
現在も残る【北方領土問題】の根源ですね。
◆北方領土:外務省(→link)
戦死者が膨大であったソ連は人手不足です。
労働力がなんとしても欲しい――そう考えたソ連は、満洲や樺太にいる日本人を冤罪で逮捕することが相次ぎました。
なぜ、逮捕されたのか?
ロシア語で説明された挙句、罪状はさっぱり理解できない、そんな事例が続発したのです。
もしもチカパシとエノノカが、樺太で事業を行い成功していたら。高い技術を身につけていたら。
労働力として目をつけられ、逮捕投獄され、財産を没収された可能性は出てきます。
彼ら自身が逃れたとしても、家族は捕まってしまった可能性も考えられるでしょう。
樺太は「鉄のカーテン」の向こう側へ
戦争という波だけでなく、ソ連と接している樺太は政治的な波にもさらされました。
1956年まで、日本とソ連は国交が回復されます(【日ソ共同宣言】)。それまではソ連により抑留された日本人のことが伝えられなかったのです。
さらにこの政府間の取り決めにより、取りこぼされる人々も出てきます。
冷戦という時代は、西側と東側陣営の諸国間に「鉄のカーテン」と呼ばれるほどの分厚い隔たりが生まれた時代でもありました。
日本とソ連の間でもこのカーテンがかかり、引き離されてしまった人々がいます。
ソ連領サハリン州となった樺太には、「日本人はいない」とされました。
やむを得ない事情で残った日本人が実際にはいたにもかかわらず、政治的には存在しないこととされたのです。
仮にチカパシとエノノカが、サハリン州にいたとしましょう。
彼らは収容所から解放されて、民間人として暮らすことになり、そうなると、彼らが存在したかどうかすら、日本にいる谷垣には知る手段がありません。
問い合わせるにしても、ロシア語を用いてソ連政府に聞いてみるしかない。
谷垣がロシア語のできる月島と連絡し、なんとか手紙を送ったとしても、答えはこうなったと推察できます。
「樺太アイヌは日本人である。日本人はもうサハリン州には存在しない。彼らは引き揚げた」
「もしもいるとしたら、彼らは自由意志でソ連に残ったのだ。帰国する意思はない」
こうして政治的な波によって消されてしまった人々。
サハリン州に残った日本人は、細々と流れてくるNHKラジオの音を拾い、祖国を思い出す。そんな歳月が長く続きました。
サハリン在住日本人の帰国運動が始まったのち、国会で審議されたのは、実に1990年のことです。
チカパシとエノノカは1895年頃の生まれと推察できるので、その頃まで生きていた可能性は低い。
彼らがサハリン州に住み続けていたら、2世や3世の時代となっています。
時代の波に消されたような人々の声が広く日本で認識されるようになったのは、1991年のソ連崩壊前夜のことでした。
歴史的な波をいくつ超えたら、再会できたのか?
大粒の涙をこぼし、谷垣と別れたチカパシ――彼らは再会の機会に恵まれなかった、というのが公式見解です。
もしも再会を果たすとすれば、どれだけの障壁を越えねばならなかったのか。
最後に確認してみましょう。
◆日本人として、北海道に戻った場合
・1945年8月、ソ連兵の侵攻をくぐりぬけ、北海道へたどりつく。ただしその場合、故郷である樺太には戻れなくなる
◆ソ連人として、サハリン州に残った場合
・谷垣はロシア語を駆使し、ソ連政府とかけあう
・それでもソ連政府相手にはどうにもならないことを、誰かに訴えねばならない。墓参を名目とした一団に参加する
・1990年頃まで生存し、国境を超えて出会う
両者の年齢を踏まえると、やはり再会は不可能なのでしょう……。
言うまでもなくこれは『ゴールデンカムイ』のキャラクター同士の話だけではありません。
苦難を味わった人々は実在したのです。
やんちゃな笑顔のチカパシ。
そろばんを弾いていたしっかりもののエノノカ。
あの無邪気な子どもたちは、歴史的な波に飲まれてゆきます。
チカパシが谷垣からゆずられた銃で、彼はソ連兵と戦うことになるかもしれない。
エノノカは犬たちを置き去りにできず、樺太にとどまることを願うかもしれない。
『ゴールデンカムイ』は厳しい世界です。
鶴見にせよ、尾形にせよ、辛い人生を送っています。
日露戦争を生き延びた時点で、誰も彼もが過酷な思いを味わっています。
しかし、彼らの苦難は過去にあるともいえる。いや、杉元たちだってもちろん戦争に巻き込まれます。
それでも北海道や本土に暮らしていることでしょう。和人や和人の配偶者として生きる道を選んでいます。
しかし、チカパシとエノノカは、あの戦争の中で樺太に生きるアイヌとなります。
彼らのその後について語るとなれば、数コマや数ページだけでは到底間に合わない。ゆえに「歴史的な波」という表現でまとめるしかなかったのかもしれません。
樺太の運命と、そこにいた人々の苦難は、戦争の記憶からも抜け落ちやすいもの。
そんな苦悩を知り、さらに調べてみようという読者が増えれば『ゴールデンカムイ』の意義はさらに高まることでしょう。
最終回でも描かれなかったからこそ……チカパシとエノノカが巻き込まれる波のことを思い巡らすと、今も胸が苦しくなってしまいます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
金子俊男『樺太一九四五年夏』(→amazon)
小川エイ一『樺太・シベリアに生きる』(→amazon)
川嶋康男『永訣の朝 (河出文庫)』(→amazon)
野田サトル『ゴールデンカムイ公式ファンブック 探究者たちの記録』(→amazon)
他