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おんな城主直虎特集 井伊家 寺社・風習

傑山宗俊とは? 龍潭寺の住職を通じて知る当時の寺院と僧兵事情【おんな城主 直虎人物事典㉒】

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2017年大河ドラマ『おんな城主直虎』には、一見、不思議な登場人物がいる。
市原隼人氏が演じる、傑山宗俊(けつざん そうしゅん)ーー。
頭髪を刈り剃った禿頭であることから想像が付くように、彼は僧侶(龍潭寺・りょうたんじ)である。しかし、仏に仕える身でありながら、NHKの公式サイトには

出家したおとわにとっては兄弟子にあたる。武芸に秀でているので時にボディーガードの役割も果たし、城主・直虎を陰で支える。

とも記されている。
僧侶にして
武芸に秀でている――とは?
ボディーガード――とは?
一体これはどういうことなのか。『おんな城主 直虎』人物事典第22回は、龍潭寺の第三世住職・傑山宗俊を通して、当時の僧侶やお寺の状況について解説したい。

 

僧兵が僧兵にならなければならなかった理由とは

かつて日本の「寺」は、宗教施設であると同時に、学問を身につける場であった。
現代で言えば大学の研究室ようなもので、俗世間から離れて学業に没頭する――という意味では「象牙の塔」と表現してもいいかもしれない。

そんなお寺でも、世の中が乱れて治安も荒んでくると、寺は寺で自衛のために武装する必要性が生じてくる。
それを担ったのが「僧衆(そうしゅう)」だ。

僧衆は「悪僧」とも言うが、単純に「悪い」という意味ではない。
「悪党」の「悪」と同様に「剽悍(ひょうかん・素早く荒々しいこと)さ」を表す言葉であって、江戸時代以降になると彼らは「僧兵」と表現されるようになる。
おそらくや「僧兵」のほうが馴染みやすいので、今後はこの文字で進めていこう。

僧兵が生まれた当初、彼らが戦う相手はならず者の盗賊たちがメインであった。
それが次第に在地の領主らとも戦うことになり、戦国時代ともなると、有名な例として、織田信長と比叡山延暦寺や長島一向一揆(願証寺)、徳川家康の三河一向一揆(本證寺)が挙げられるだろう。また、神社の武装集団を神人(じにん)というが、武田信玄の駿河国侵攻においては、静岡浅間神社が武田信玄と戦った例もある。

井伊家に身近な例で言えば、臨済寺の太原雪斎であろうか。彼は厳密には兵として戦う僧兵ではないが、合戦の指導者(軍師的なポジション)として数多の戦績を残している。

天文17年(1548)3月19日、小豆坂(愛知県岡崎市)で織田信秀と戦ったほか、翌天文18年(1549)11月には安祥城(愛知県安城市)攻めで織田信広を捕縛し(後に竹千代こと徳川家康との人質交換を成立させる)、天文23年(1554)3月には今川家・武田家・北条家の「甲相駿三国同盟」の締結させている(善得寺会盟)。僧侶でありながら、常に今川軍の先頭に立っていたのであった。

なお、寺院というと、現在では「ご先祖様のお墓」というイメージが強い。
それは江戸時代になって、キリシタンではないことを証明させるため「寺請制度」が確立したからである。当時「宗門人別改帳」(戸籍帳であり租税台帳)が制作され、さらに「檀家制度」(寺院が葬祭供養を独占的に執り行なう)が広まったのが強く影響しており、少なくとも井伊直虎の時代には、寺は高度な学問&武芸の修練場という位置づけの方が強かった。

 

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傑山宗俊、「小牧・長久手の戦い」で井伊直政の補佐を担う

井伊家を支えた重要人物の龍潭寺・南渓和尚もまた、武芸の達人であった。
養父である井伊直平が「僧侶ではなく、武士にしたい」と常々周囲の人々に語っていたほどで、学問だけでなく寺院にある道場で(中国の少林寺ほどではないが)高度な武術も習得していた。

その弟子である傑山宗俊もまた、同様に学問や武芸を身に着けていたことは想像に難くない。

「想像に難くない」と表現がハッキリできないのには理由がある。
確たる記録がないのだ。

直虎の時代、龍潭寺の住職は第二世の南渓瑞聞であり、市原隼人氏演じる傑山宗俊が同寺の住職になったのは直虎の死後のこと。
ただし、井伊直虎は「次郎法師」と名乗って龍潭寺に入っており、当時は彼女の「兄弟子」であり、関係性が強かったのは間違いない。

ただし「兄」というのには少し語弊があるかもしれない。南渓和尚の「遷化」(僧侶が死ぬこと)から3年後に彼も遷化しているので、かなりのご年配(南渓瑞聞と同じくらいの年?)だったハズ。年齢的には「兄」というより、「祖父」であろうか。

龍潭寺の住職期間が3年間と短く、記録が皆無に近い――というのは前述の通り。強いて言えば、龍潭寺九世・祖山法忍が書いた『井伊家伝記』の「小牧・長久手の戦い」ぐらいである。

おそらくその記録から人物像を想定して描かれるであろう。本稿では、その様子を意訳文でまとめておく(原文も後述)。

「小牧・長久手の戦い」の時は、祐椿尼(井伊直虎の実母)や次郎法師(井伊直虎)は他界していて、ひよ(井伊直政の実母)だけが生きていた(実際は、南渓和尚も生きていて、井伊直政に「井伊家の軍旗は井の字の紋で、吹き流しは正八幡大菩薩である」と教えている)。

井伊直政は(「井伊の赤備え」のデビュー戦の)大将として参加することになったので、やる気満々ではあったが、大軍の先鋒となると心配もあり、ひよの再婚相手・松下源太郎清景が、社寺を回って戦勝祈願をした。その時、龍潭寺においては、天照大神から龍潭寺開山・黙宗和尚へ授与された「日・月・松(にち・げつ・しょう)の絵柄の金銀の扇子」を、「先鋒の大将に任命された井伊直政の陣扇に」と授けられた。この扇子は、寺宝で、現在も井伊谷の龍潭寺に保管されている。

また、井伊谷では、南渓和尚が2人の弟子を遣わした。この2人は、僧侶ではあるが、武芸にも通じていた。

1人は「傑山宗俊」(のちの龍潭寺三世)といって、強弓(つよゆみ、ごうきゅう)の引き手である。もう1人は、「昊天宗建」(のちの龍潭寺五世にして彦根の龍潭寺開山)といって長刀(なぎなた)の達人で、「長刀昊天」と呼ばれていた。この「小牧・長久手の戦い」では、「長久手の戦い」において、池田恒興(勝入)、「鬼武蔵」こと森武蔵守長可の両隊を追って討ち、井伊直政は名をあげ、「井伊の赤鬼」と恐れられた。『井伊家伝記』

【原文】「其節ハ、祐椿、次郎法師ハ御遠行、實母斗御在命故、俄ニ大名大将之御威勢御満足に被思召候得共、大軍之先手殊之外、氣遣ニ思召、松下源太郎を以種々御立願有之候。右御立願之訳にて天照大神ゟ黙宗和尚江御授被為遊候、「日月松有之金銀の扇子」を直政公先手大将之陣扇に被遣候。右之扇子ハ宝物故、龍潭寺に相傳、則、扇子に記録有之、於井伊谷南渓和尚弟子衆両人被遣候。出家といへとも武藝達者に御座候。壱人ハ傑山と申候亭、強弓なり。壱人者彦根龍潭寺開山昊天なり。長刀上手にて今以一宗にて長刀昊天と申候。於長久手、池田勝入、森武蔵守、両備を追崩、敵数多討取、直政公御自身高名勝利を得也。」(『井伊家伝記』)

なお、記事末に龍潭寺歴代住職について補足資料ならびに画像を掲載しておいた。同時に参照していただければ幸いである。

次回へ続く

 

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おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
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南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
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龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

◆資料:龍潭寺歴代住職

拝請開山 文叔瑞郁(1468-1535) ※天文4年12月2日没
龍潭寺一世 黙宗瑞淵(1463-1554) ※天文23年4月6日没
龍潭寺二世 南渓瑞聞(?-1589) ※天正17年9月28日没
龍潭寺三世 傑山宗俊(?-1592) ※文禄元年12月5日没
龍潭寺四世 悦岫永怡(?-1622) ※元和9年8月18日没
龍潭寺五世 昊天宗建(?-1644) ※正保元年12月10日没
龍潭寺六世 萬亀惟鑑(?-1663)
龍潭寺七世 喝岩東震(?-1681)
龍潭寺八世 徹叟法珍(1637-1707)
龍潭寺九世 祖山法忍(1672-1740)
龍潭寺10世 獨叟法達(1691-1776)
龍潭寺11世 貫宗恵通(1698-1777)
龍潭寺12世 敬堂義養(1726-1762)
龍潭寺13世 渭鱗全求(1737-1786)
龍潭寺14世 仲山全甫(1760-1843)
龍潭寺15世 琢岩錤瑛(1797-1870)
龍潭寺16世 鑑宗禅砥(1853-1910)
龍潭寺17世 琳山全澄(1870-1944)
龍潭寺18世 玄龍全匡(1897-1978)
龍潭寺19世 清山全裕(1933-) 前住
龍潭寺20世 武藤宗甫(1955-) 現住

拝請開山・文叔瑞郁像(龍潭寺)

 

文叔瑞郁の墓(龍潭寺・「天文4年12月2日没」とある)

延徳年間、悟渓宗頓の孫弟子の文叔瑞郁が、凌苔庵に来ていることを知った井伊19代直氏は、文叔瑞郁を自浄院に招いたという。

直氏の子・井伊20代直平は、永正5(1508)年、文叔瑞郁を自浄院主とし、天台宗の自浄院を臨済宗に改宗して、凌苔庵(りょうたいあん)にちなみ、「龍泰寺(りょうたいじ)」と改名。

しかし、江戸時代の龍潭寺の境内図に「自浄院」が描かれていることから、「自浄院を龍泰寺にした」のではなく、「自浄院とは別に龍泰寺を建て、後に自浄院は龍潭寺の塔頭となった」とする説、「自浄院(井伊共保の法名を院名とする井伊共保の菩提寺)とは別に冷湛寺(宗良親王の法名を寺名とする宗良親王の菩提寺)があり、その冷湛寺が龍泰寺になった」とする説がある。

とはいえ、寺伝通り、自浄院を龍泰寺とし、後に自浄院を塔頭として復興したようにも思われる。

龍泰寺は、永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」で死亡した井伊直盛の戒名により寺名を「龍潭寺」と改め、井伊直盛の菩提寺としたが、江戸時代、遠江井伊家の菩提寺として整備された。

文叔瑞郁像(松源寺)

文叔瑞郁の墓(松源寺)

拝請開山・文叔瑞郁は、松岡城主・松岡貞正(松源寺殿)の実の弟で、松岡貞正が建てた松源寺の開山(拝請開山は師の玉浦宗珉)である。この縁から、亀之丞(井伊直虎の許婚。後の井伊直親)は、松源寺で10年間過ごすことになった。

開山・黙宗瑞淵禅師像(龍潭寺開山堂)

南渓和尚の墓(龍潭寺)

祖山和尚の墓(龍潭寺

祖山法忍は、油田の庄屋・尾藤氏(堀川城の戦いで自害した尾藤主膳の後裔)である。

彼が書いた『井伊家伝記』は、遠江井伊氏研究の基本文献となっている。

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※臨済宗妙心寺派には、上位から特住・歴住・再住・前住・住持・準住・東住…の14の階級があり、祖山和尚は「再住」であった。修行僧は黒衣であるが、住持(住職)の位を得ると紫衣となり、それ以上では緋衣となる。

龍潭寺歴代住職の墓(傑山宗俊の墓もあるはず)

 

 





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