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磔にされた村山たか/wikipediaより引用

女性 西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

村山たかは井伊直弼の女スパイ!? 安政の大獄で恨まれ京都三条河原に晒される

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幕末は
「女性の活躍が少ない」
時代とされています。
果たしてそれは事実でしょうか。

おそらくや幕末は荒ぶる魂を持った男の時代――そう思いたいバイアスがかかっているのでしょう。
実のところ、幕末だって女性は活躍しています。
ただし、その姿が表舞台には出ないため、あまり人に知れることがないのです。

大奥や閨房で、彼女らは活動していました。
そしてそのために、憎しみをかい、危険にさらされることもありました。

井伊直弼の手の者とされる女スパイ・村山たかもその一人です。

 

京都三条河原にとある女の姿が浮かび上がる

ときはペリー来航から数年が経過した文久2年(1862年)、11月15日。

夜が白々と明けるにつれ、京都三条河原に、とある女の姿が浮かび上がってきました。

「なんや、あの女。高札立てられとるで」
「また天誅かいな。おお怖っ……」

周囲の人々は好奇心から彼女の姿をジロジロと眺めました。
その姿に唾棄し、石をぶつけるような者はいません。

哀れ――されど、誰も彼女を助けようとはしません。

女の名は、村山かず江。
年の頃はもう50ほどではありましたが、美貌の面影が残り、色香すら漂わせた女性でした。

 

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「この女は井伊直弼の懐刀・長野主膳の愛妾」

傍らの高札には、こう書かれておりました。

「この女は井伊直弼の懐刀・長野主膳の愛妾であり、大胆不敵な行動でその奸計を助けていた」

さらには「死をもって償うべきところを、罪一等減じて晒しているのだ」ともあります。

こんな調子では、誰だって恐ろしくて声をかける気にもなれないでしょう。
彼女が晒された翌日、息子の帯刀(たてわき)が、人斬りで知られた岡田以蔵らによって殺害、斬首され、さらし首となりました。

彼女の姿は、素足に着物一枚だけを身につけ、切られた髪には頰かぶり。
縛り付けた縄がその身にくいこんでいます。

このままでは長くは持たない――。

三日三晩ののち、彼女はやっと老尼に助けられ命を拾ったのでした。

 

美しい少女は京都で芸妓となり鉄三郎に出会ってしまう

村山かず江、またの名は村山たか。以下、本稿では、たかと記します。

なぜこれほどまでに彼女は憎まれたのか。
一体何をしたのか。

文化6年(1809年)、たかは近江国犬上郡多賀で生まれました。

父は多賀大社尊勝院の長老・尊賀。
母の素性は不明。尊
賀は妻帯しなかったため、寺侍村山家の養女となりました。

たかはやがて美しい少女に育ちました。
三味線や茶道・華道も得意としていました。
そんな才色兼備の女性であったためか、20才で彦根藩主・井伊直亮の侍女となります。

その後、21才頃には京都祇園下河原で芸妓となりました。
かず江という名は、この頃名乗るようになったとされています。

下河原の芸妓は、身を売るよりも芸を売るという、精進を怠らないプロ意識を持った女性たちでした。

美しく聡明なたかは、上流階級の人々とも交流を持ちます。
鹿苑寺金閣の住職・北潤承学はたかに惚れ込み、二人の間には男児が生まれました。

男児はたかに引き取られ、母子は彦根に戻ります。

このころ、彦根藩主・井伊直中の十四男・直弼は部屋住みの身でした。
彼は「埋木舎」で、趣味にあけくれる日々を過ごしていました。

天保10年(1839)頃、たかは医師の仲介によって鉄三郎(井伊直弼の幼名)と出会います。
たかの美貌と才知に見せられた直弼は、やがて彼女を愛妾としたのでした。

 

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女スパイとしての日々

もしも井伊直弼が、気楽な文化人として一生を終えていたのならば?
たかも生き晒しにはあわなかったでしょう。

互いに才知を磨きあう二人は、良好な関係でした。
実際、2人の間には子供が生まれたとも伝わります。

井伊直弼/wikipediaより引用

しかし運命はにわかに動き出します。
弘化3年(1846年)、兄・井伊直元が死去したため、急遽、直弼が彦根藩を継ぐこととなりました。

藩主として江戸に向かうこの機会に、直弼は彼女を遠ざけることにしました。
性格の不一致とも、周囲の反対によるものともされています。

やがてたかは、直弼の懐刀である長野主膳の妾となりました。

主膳は直弼のため、将軍後嗣問題において暗躍。
これは次の将軍を徳川慶福(家茂)にするか、一橋慶喜にするか、という争いでした。
島津斉彬西郷隆盛なども巻き込んだ、幕末の後継者争いかつ派閥争いでもあります。

井伊家は慶福を推す南紀派でした。
そして主膳は主に朝廷工作を担当し、公家衆らに取り入りました。

井伊サイドにとっては首尾よく徳川家茂が将軍に就くと、その後の安政の大獄で主膳は一橋派の処分を直弼に進言。
このため主膳は恨まれるようになったのです。

たかは主膳の朝廷工作を助けていたとされます。
具体的な活動はハッキリしませんが、その才知や芸妓時代に築き上げた人脈は、頼りになるものであったことでしょう。

 

天誅の犠牲に

たかの具体的な動きがハッキリしない以上、評価の難しいところではあります。
それでも天誅の季節を迎えた過激な者たちにとって、たかは「稀なる大胆不敵な所業これあり」と高札に記すほど憎い存在でした。

そして文久2年(1862年)。
長州と土佐の藩士が北野天満宮に集います。
あの長野主膳の愛妾が、京都でひっそりと暮らしているらしい、との知らせを受けていたのです。

「憎たらしい女め」
岡田以蔵らを含めた一団は、たかを引き立て生き晒しにしました。
さらに一度は逃げたたかの子・帯刀を捕らえ、斬首したのです。

のちに彼女は京都金福寺で出家し、明治9年(1876年)、67才でその生涯を終えるまで、慰霊の日々を過ごすこととなります。

幕末という激動の時代は、彼女の周辺に生きた人々の命を奪ってゆきました。

暗殺された井伊直弼。
天誅の犠牲となった息子・帯刀。
長野主膳ものちに斬罪されています。

たかは天誅に遭うのがふさわしい、邪悪な女スパイであったのでしょうか。
それとも、直弼と主膳という二人の男への愛のために、身を危険にさらした悲劇の女性でしょうか。

三日三晩生き晒しにされたたかの姿を思うと、何とも陰惨な気持ちにさせられる。
幕末激動の一幕なのでした。

文:小檜山青




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【参考文献】

 



-女性, 西郷どん(せごどん)特集, 幕末・維新

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