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【村山たか】
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女スパイとしての日々
もしも井伊直弼が、気楽な文化人として一生を終えていたのならば?
たかも生き晒しにはあわなかったでしょう。
互いに才知を磨きあう二人は、良好な関係でした。実際、2人の間には子供が生まれたとも伝わります。
しかし運命はにわかに動き出します。
弘化3年(1846年)、兄・井伊直元が死去したため、急遽、直弼が彦根藩を継ぐこととなりました。
藩主として江戸に向かうこの機会に、直弼は彼女を遠ざけることにしました。性格の不一致とも、周囲の反対によるものともされています。
やがてたかは、直弼の懐刀である長野主膳の妾となりました。
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主膳は直弼のため、将軍後嗣問題において暗躍。次の将軍を徳川慶福(家茂)にするか、一橋慶喜にするか、という争いでした。
島津斉彬や西郷隆盛なども巻き込んだ、幕末の後継者争いかつ派閥争いでもあります。
井伊家は慶福を推す南紀派でした。そして主膳は主に朝廷工作を担当し、公家衆らに取り入りました。
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井伊サイドにとっては首尾よく徳川家茂が将軍に就くと、その後の【安政の大獄】で主膳は一橋派の処分を直弼に進言。
このため主膳は恨まれるようになったのです。
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たかは主膳の朝廷工作を助けていたとされます。
具体的な活動はハッキリしませんが、その才知や芸妓時代に築き上げた人脈は、頼りになるものであったことでしょう。
天誅の犠牲に
たかの具体的な動きがハッキリしない以上、評価の難しいところではあります。
それでも天誅の季節を迎えた過激な者たちにとって、たかは「稀なる大胆不敵な所業これあり」と高札に記すほど憎い存在でした。
そして文久2年(1862年)。
長州と土佐の藩士が北野天満宮に集います。
あの長野主膳の愛妾が、京都でひっそりと暮らしているらしい、との知らせを受けていたのです。
「憎たらしい女め」
岡田以蔵らを含めた一団は、たかを引き立て生き晒しにしました。
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さらに一度は逃げたたかの子・帯刀を捕らえ、斬首したのです。
のちに彼女は京都金福寺で出家し、明治9年(1876年)、67才でその生涯を終えるまで、慰霊の日々を過ごすこととなります。
★
幕末という激動の時代は、彼女の周辺に生きた人々の命を奪ってゆきました。
暗殺された井伊直弼。
天誅の犠牲となった息子・帯刀。
長野主膳ものちに斬罪されています。
たかは天誅に遭うのがふさわしい、邪悪な女スパイであったのでしょうか。
それとも、直弼と主膳という二人の男への愛のために、身を危険にさらした悲劇の女性でしょうか。
三日三晩生き晒しにされたたかの姿を思うと、何とも陰惨な気持ちにさせられる。
幕末激動の一幕なのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都 (中公新書)』(→amazon)