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堀田正睦/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

堀田正睦(まさよし)55年の生涯マトメ!井伊直弼と孝明天皇に挟まれパンク寸前!?

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ペリー来航によって日米和親条約が結ばれ、時代の波が急激にうねり始めた幕末。
幕府にとって大きな痛手になったのが安政4年(1857年)でした。

頭脳明晰かつ性格も温和で、万人に好かれるタイプの調整名人・阿部正弘が、若くして急死してしまったのです。

阿部正弘/wikipediaより引用

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その後、阿部に代わって幕政を切り盛りした家老たちが、政権内の対立をうまく処断できなかったのは皆さん何となくご存知かもしれません。

とりわけ大きかったのが、将軍継嗣問題から発展して起きた大老・井伊直弼安政の大獄(1858~1859年)」。

翌1860年には、その井伊自身が「桜田門外の変」で暗殺されてしまったのですから、
『もしも阿部が生きていたら』
と考えてしまうのも無理なきところでしょう。

ただし。
阿部正弘の後任者たちが無能だった――と断じてしまうのは早計です。

優秀な人物もおりました。
当時、江戸幕府が直面していた局面があまりに難しい状況だっただけで、阿部だって、もしもそのとき生きていたら上手く対処できたかどうかは不明です。

今回は、阿部正弘の跡を継いだ老中・堀田正睦にスポットを当ててみましょう。

 

佐倉の「蘭癖大名」

堀田は文化7年(1810年)、下総佐倉藩主・堀田正時の次男として生まれました。

母は藩士源田右内光寿の娘。
はじめは正篤と言いましたが、薩摩の姫から徳川家定の御台所になった篤姫の名を避けるために改名しております。

母は健康な女性であったようで、その母に似た堀田も健やかに育ちました。

文政7年(1824年)、父・正時のあとを継いだ従兄・正愛の養子となります。
そして翌年、正愛の跡を継いで、佐倉11万石の藩主となりました。

そのころ、佐倉藩は荒れ果て、藩政改革の必要に迫られていました。
そこで堀田は天保4年(1833年)より、藩政改革に取り組みます。

主な内容は、以下の通りです。

・藩士に貸付金を与えて、家計を扶助
・倹約を奨励
・文武を奨励
・学制改革を実施、従来の藩校「温故堂」の拡充とカリキュラム見直し
・江戸と翌年佐倉に「成徳書院」。儒学を基本として礼節・書学・数学および各種の武芸を教える
・医学所整備。佐藤泰然を招いて蘭方医学を採用
・泰然が私塾「順天堂」を開いたため、、佐倉は幕末蘭学の一大中心地となる
・「陰徳講」を組織して育児を奨励。「子育掛代官」を設置、間引きの禁止と農村人口の回復をはかるという、少子化対策の実施
・「勧農掛」の設置
・篤農家や豪農層を勧農役に任命し、農村復興にあたらせる
・社倉・囲米など備荒貯穀政策の実施
・領内豪農商層を育成し、領国経済の自立化を目指す

堀田のこうした改革は実を結びました。

特に蘭学の奨励はめざましい成果をあげまして。
当時、蘭学といえば「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほどにまで充実するのです。

ちなみに「順天堂」は、現在の順天堂大学の前身にあたります。

 

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藩政から幕政へ

こうした成果を認められた堀田は、藩政だけではなく幕政にも関わるようになります。

が、結論から申しますと、水野忠邦「天保の改革」に関連して、スグに失脚してしまいます。
足早に年表で説明しますと、こんな流れであります。

・文政12年(1829年) 奏者番
・天保5年(1834年) 寺社奉行を兼帯
・天保8年(1837年) 大坂城代、西ノ丸老中
・天保12年(1841年) 水野忠邦の推挙で本丸老中に就任、天保の改革期の幕政に関与する
・天保14年(1843年) 「上知令」が撤回により改革が失敗、老中罷免

老中を罷免され、藩政に戻った堀田。
それが再び幕政に呼び戻されたのは、10年後の嘉永6年(1853年)、阿部正弘が身分を問わず多くの人に意見を求めた時でした。

勝海舟の飛躍となったのもこのとき。

勝海舟/wikipediaより引用

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荒唐無稽な攘夷論が噴出する中、堀田や勝の政策提言は明確でした。

「武備を整える必要があります。同時に開国をせねば国は発展しません。そのうえで通商を行い、富をたくわえるのです」

これは光るアイデアだと阿部は納得しました。
同時に堀田を幕政へ戻すべきと考えたのです。

 

「京都の朝廷の意見も聞かないといかんよ」

引き立てて間もなく阿部は急死。
その後、堀田は阿部のやり残した仕事に着手しました。

意外かもしれませんが、開明的で「蘭癖大名」と呼ばれていた堀田は、ガチガチ攘夷論者の徳川斉昭と気が合うはずもありません。
その辺、阿部は巧みにコントロールしておりましたが、足を引っ張りかねない斉昭を、堀田は幕政から追い出します。

「これからは軍政や海防改革に口を出さないでください」
とまぁ、バッサリ!

当然、徳川斉昭もブチ切れるわけで
「おのれ堀田め! いずれ蹴落としてやる!」
とばかりに歯がみしながら去ってゆきました。

徳川斉昭/wikipediaより引用

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これはむしろ、狂犬・斉昭すら手綱に取っていた阿部正弘のコントロール術が特別過ぎたのであって、堀田にとってはやむを得ない決断だったのではないでしょうか。

このあとで直面するべき問題は、将軍継嗣問題とアメリカとの条約問題です。

1853年の日米和親条約に続く、日米通商修好条約。
その詳細について、アメリカ側のハリスと交渉をまとめた堀田でしたが、諸大名からこんな意見が出てきました。

「そういう大事なことは、ちゃんと京都の朝廷の意見も聞かないといかんよ」

それもそのはず、幕府は朝廷丸無視で開国しようとしていたのです。

 

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6万両の工作資金を持って

安政5年(1858年)ざっくりと条約案をまとめた堀田は、岩瀬忠震・川路聖謨らちともに、勅許をもらうため京都へ向かいます。

これぞ堀田追い落としのチャンスだとほくそ笑む人がいました。
徳川斉昭です。
そして、貧困にあえぐ公家たちでした。

当時の京都の公家というのは、ともかく貧乏。
二百年以上幕府に推されっぱなしで、生活は苦しいものでした。

未来の明治天皇すら、出産時に費用が不足しており、食費を切り詰めてまで工面した……等という話すらあるほどです。

そんな中、東から徳川家が頭を下げて意見を聞きに来るわけですから、そりゃまあ、盛り上がりますね。
盛り上がるだけではなく、徳川斉昭が朝廷工作もしていました。

斉昭は、前関白・鷹司政道相手に、働きかけておりました。
「腰抜け幕府に、条約には断固反対だと言ってやりましょう! 汚らわしい異人どもに踏み荒らされてよいものか!」

鷹司政道の正室・徳川清子は斉昭の姉にあたります。
親戚ですから話は通じやすい……と、同時に袖の下も握らせれば尚更でしょう。

もちろん、堀田とて無策ではありません。
6万両という工作資金を握って京都に向かっています。

 

カネで動かない人もいるわけで

幕末の公家というと、いろいろと動いています。
もちろんポリシーがあって動いている愛国心が強い人もいたでしょうが、実のところものを言うのはマネー&マネー。袖の下です。

国のためを思う心が維新を成し遂げた、という物語は確かに美しいです。
しかし、実際には金が乱れ飛ぶ、贈賄収賄工作の応酬であったのです。
金がなければ敗北あるのみでした。

薩摩藩や長州藩が会津藩に対して優れていた点は何か、といいますと。
人材や精神論で語られがちです。

しかし、重要な点を見落としています。

借金を踏み倒し、貿易で金を貯め込めた薩摩藩。
撫育局資金や宝蔵金があった長州藩。
一方で、京都守護職で金が出て行く一方の会津藩。
これでは、そもそも相手になるわけもありません。

藩財政を建て直した調所広郷(薩摩)や村田清風(長州)は本当に偉いと思います。

話を戻しまして。

当時、金では絶対に動かない人もいました。

その代表が孝明天皇です。

ともかく強烈、日本一とも言えるほどの攘夷論者である孝明天皇が首を縦に振らなければ、いくら大金を持参したってどうにもなりません。
堀田は朝廷工作を二ヶ月間がんばりました。そして失敗しました。

堀田は心が折れてしまいます。
「もう公家の連中はマトモじゃない……。話が全然通じないって……」

そんな本音すら、吐露していました。

 

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わかってくれとは言わないが そんなに堀田が悪いのか

失意のまま江戸に戻った堀田。
そこで井伊直弼は、強行突破します。

「もう勅許とかいらんわ」
かくして幕府は、無勅許での調印を断行(1858年 日米修好通商条約)。
堀田は老中を辞任させられました。

その後は【安政の大獄】→【桜田門外の変】という幕末定番の重大事件が勃発。
様々な理由あって一橋派だった堀田は、安政の大獄では隠居に追いやられてます。

しかし、井伊直弼が暗殺された翌1860年、堀田は藩政に復職し、再び改革に着手します。
それもつかの間、文久2年(1862年)、今度は、老中在職中の不届のかどで蟄居を命ぜられてしまうのでした。

老中って、すでに過ぎたことを掘り返して、今さら何なのか?
これは実質的に「安政の大獄」に対する報復人事だとされています。

そもそも堀田は、井伊直弼に嫌われてはおらず、したがって安政の大獄での隠居処分も軽いほうで、いずれは復帰させる予定だったとのこと。
それを受けて、反直弼派となった幕府から、「おまえ、やっぱ辞めろや」と報復されたのです。

ったく、ややこしいです。感情のもつれって、幕府でも大変なんですね。

元治元年(1864年)、堀田は佐倉城内で死去しました。
享年55。
蟄居処分が解かれたのは、死後のことでした。

 

斉昭はじめ一橋派がやりすぎでは?

堀田の苦闘を見ていると、
「英雄が国のためを思っていた幕末史」
とは正反対、自分たちに有利にことを運ぶためにうごめいていた、各勢力の姿が浮かび上がってきます。

さすがの阿部であっても、その全てに調整をはかりながら、難局を乗り切るのは難しかったのではないでしょうか。

ぶっちゃけて言えば、
「堀田が無能ではなく、徳川斉昭はじめ一橋派が足を引っ張りすぎ……」
という思いが湧いてきます。

幕府にも優秀な開明派がいた。
堀田正睦もその一人でした。

文:小檜山青




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【参考文献】
幕末維新人物事典』泉秀樹
別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯
国史大辞典

 




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