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大久保利通/国立国会図書館蔵

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

精忠組(誠忠組)とは?西郷隆盛や大久保利通ら主要メンバーが薩摩を動かす原動力に

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幕末の薩摩藩において、大きな影響力を有した「精忠組(誠忠組)」。

西郷隆盛大久保利通をはじめ有馬新七村田新八大山格之助(大山綱良)ら、大河ドラマ『西郷どん』の郷中仲間も名を連ねたことで知られ、薩摩における維新の原動力とされています。

ただ、ややこしいことに彼ら自身がそう名乗ったわけではありません。
後世、命名されたもので、長州・土佐で言えば「松下村塾(長州藩)」や「土佐勤王党(土佐藩)」に該当するでしょうか。

一体、精忠組とは何なのか?

 

島津斉宜が隠居となった「近思録崩れ」から

話は少し遡りまして。

『西郷どん』ではロシアンルーレットで藩主の座を譲った島津斉興(鹿賀丈史さん)。
彼はかなり特異な経歴の持ち主でした。

島津斉興/Wikipediaより引用

藩主就任も御家騒動。
藩主を辞める際も御家騒動を引き起こします。

彼の父・斉宜が、強制的に隠居させられるキッカケとなった事件が「近思録崩れ」と言われるものです。
斉宜に共鳴し、藩政改革の中心となった薩摩藩士たちが『近思録』を愛読していたことから、こう呼ばれました。

『近思録』とは、儒教でも朱子学派のテキストです。

とはいえただの教科書ではなく、薩摩藩士であれば誰もが「近思録と言えばアノ事件でごわすな……」と連想してしまうものでして。
「精忠組」も、当初はこの『近思録』を読むサークル活動から始まりました。

 

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斉彬派の読書サークル

ただし、集まって本を読むだけの集団でないことは、『近思録』であることからわかります。

かつて「近思録崩れ」に巻き込まれた藩士のようなリスクを冒しながらも、藩政を改革したい、そんな熱い薩摩隼人が集まっているのだな、と思われたわけです。

では、このとき、彼らは何を改革するために集まっていたのでしょうか?

それは「お由羅騒動」にも絡んでくる藩の後継者問題でした。
島津斉彬を支持し、藩主交替すべきだと考える人々が集まっていたのです。

つまり、ベースは【斉彬派の読書サークル】ということですね。

ちなみに薩摩藩では、皆で集まって読書することで、団結を固めることがありました。
郷中三大行事には『赤穂義士伝』を読む――というものがあるほどです。

この行事は、薩摩藩士が幕末に京都で活動するようになってからも行われていました。
ただ本を読むだけではなく、途中は食事や間食をとり、内容を皆で語り合います。

中身をディスカッションし、義士の心を想像することで、自分たちの精神も高揚させていたのです。
現在の読書サークルとは種類の異なる、熱い集いだったことでしょう。

 

斉彬後の活動内容は?

「お由羅騒動」も斉彬の藩主就任で半ば収束。
次にサークルの面々は何を目的にしたのか?

それは、志半ばにして亡くなった斉彬の遺志尊重でした。
生前、将軍・徳川家定の後継者として、一橋慶喜の擁立を目指していた斉彬。
その願いは、大老・井伊直弼によって頓挫しました。

開国したことにさせられた井伊直弼がガチギレ! 安政の大獄はじまる

そこで、精忠組の面々は考えるワケです。

「憎き井伊直弼を殺さねばならん!」
これに待ったをかけたのが、新たな藩主・島津忠義の父であり「国父」と呼ばれた島津久光です。

同じく一橋派であった水戸藩に引きずられて、まずい方向へ向かわぬよう、自らが手綱を執らねばならない――そう痛感していたのでした。

 

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突出する精忠組VSキレる久光

島津久光は、精忠組のリーダーである大久保正助(利通)に働きかけます(西郷吉之助は島送り中)。

「時機が来れば島津家中をあげて協力するから、それまで絶対に暴発はしないように!」

当初、久光に対して好印象を抱いてなかった大久保ですが、実際に話し合ってみると、彼が有能であることはスグにピンときて、両者はスッカリ意気投合しました。
井伊直弼への復讐心を秘めて活動していた精忠組は、説得されて薩摩に引き揚げます。

島津久光/wikipediaより引用

ただし、例外はいました。有村雄助・次左衛門兄弟です。

あろうことか、次左衛門は「桜田門外の変」に参加するばかりでなく、井伊直弼の首まで取っておりまして。

これに久光は激怒、激怒、激怒!
残る雄助を捕縛させ、切腹に追い込みました。

しかし久光は、意外に度量の大きな男です。

桜田門外の変への参加を強行した有村兄弟。
その長兄である有村俊斎(後の海江田信義)まで、弟に連座させるようなことはしておりません。

 

寺田屋の一件で事実上の終焉を迎える

そんな「精忠組」は「寺田屋事件」で実質的に消滅したことになっています。

寺田屋事件とは、京都での挙兵を目論む有馬新七らの過激派を、島津久光が送り込んだ部隊で鎮圧した事件です。

送られた藩士の中には薬丸自顕流の達人・大山格之助(大山綱良)らがおり、一方、寺田屋には西郷隆盛の弟・西郷従道(西郷信吾)やイトコ・大山巌らもいて、殺されずに投降しております。
※詳細は以下の記事を

薩摩の惨劇・寺田屋事件(騒動)とは?1862年島津久光が有馬新七らに下した非情な決断

「桜田門外の変」後に逮捕→切腹に処された有村雄助や、寺田屋事件での強行突破。

こうした事件を巡る島津久光の対応は、時に冷酷とされることがあります。

しかし「精忠組」を持て余していたのは、実のところ久光だけではありませんでして。
孝明天皇の周辺でも、彼らが京都を火の海にしかねず、無謀な倒幕などいい加減にしろ!という思いを抱いていました。

「精忠組」は「尊皇=天皇尊重」を掲げていました。
彼らはそれを阻む敵が幕府だとみなしていたのですが、孝明天皇自身が幕府と歩調をあわせる方向へ考えを変えていたのです。

久光からすれば、
「本当に天皇や朝廷の意志が大切ならば、無謀な倒幕はやめなさい」
ということになるわけですね。

確かに「寺田屋事件」は、薩摩藩に大打撃を与えました。

ただし、仮にこの事件がなかったとしても、久光や朝廷の唱える公武合体政策と、「精忠組」の尊皇攘夷思想は遠からずぶつかり合い、そして消えていったことでしょう。

過激な攘夷思想は、明治維新へと時代が動く中で次第に終息していきます。
ゆえに「精忠組」も発足当初のまま残るとは考えにくいのです。

明治維新の原動力となった人材を多数輩出した「精忠組」。
そんな彼らに厳しい態度でのぞんだ島津久光は何かと評価が下げられておりますが、彼が手綱を握り暴発を防いだからこそ、薩摩藩が幕末の政局において常にリードを保てた部分があることも考慮しなくてはならないでしょう。

幕末の政局において、精忠組出身者がアクセルだとすれば、久光はギアやブレーキのようなものです。
両者あっての薩摩藩だということは、もっと認識されてもよい点であると思います。

文:小檜山青




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【参考文献】
国史大辞典
さつま人国誌幕末・明治編3』桐野作人

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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