長野主膳義言

長野主膳義言/wikipediaより引用

幕末・維新

井伊の懐刀・長野主膳義言48年の生涯~乱世を駆け抜けた和歌の先生

井伊直弼といえば【安政の大獄】と【桜田門外の変】。

斬った斬られたの惨劇だけに「直弼さんって悪人だよね、たぶん友達もいないよね」とマイナスイメージが先行しがちです。

もちろんそんな単純なことではなく、直弼は極めて優秀な政治家でした。

そして、島津斉彬西郷隆盛を、松平慶永(松平春嶽)が橋本左内を抱えていたように、直弼にも有能な懐刀がおります。

長野主膳(しゅぜん)です。

※義言(よしとき)

そもそも主人の井伊直弼が悪人として描かれがちですから、長野もまた同様。

尊王攘夷派に凄まじい恨みを買っており、彼ら二人の寵愛を受けて活動していた女スパイ・村山たかは、目の前で我が子を惨殺され、生きたまま晒し者にされる屈辱に遭っています。

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一体、何をしたというのでしょうか。

文久2年(1862年)8月27日が命日となる、長野の生涯を振り返ってみましょう。

 


長野主膳の謎めいた前半生

幕末において激しい憎悪をぶつけられ、歴史にその名を残した長野主膳――。

その前半生は今もハッキリとしておりません。

生まれたのは、文化12年(1815年)。

後に主君となる井伊直弼と同じ年とされています。

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場所は、最も信憑性のある説で伊勢国飯高郡滝村であり、長野次郎祐の弟と伝わります。

名前の字面からして、戦国ファンの皆さまには何か引っかかるものがあったでしょうか。

彼の先祖は、上州箕輪城主・長野業政とされています。

そうです。

井伊直弼の先祖である井伊直政にも、箕輪城主時代がありました。

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平和な文化人ライフを送っていた

両者の先祖が箕輪城主繋がり――というのは、いかにも面白い歴史エピソードでしょう。

しかし、この出自も真偽のほどは不明。

長野の足跡をたどることができるのは、天保10年(1839年)になってからのことです。

この年、伊勢・川俣滝野村の本陣・滝野次郎左衛門知雄(ともかつ)宅に寓居し、この滝野を師として国学を学びました。

当時は、豪農でも知識人が多く、国学を学ぶ者もいたのです。

例えば「赤報隊」を率いた相楽総三も、こうした豪農出身の草莽志士です。

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さらには勤王おばちゃんこと松尾多勢子もそうですね。

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天保12年(1841年)、長野は滝野の妹で、彼より6歳年上の多紀(瀧・たき)と結婚します。

彼女は32才ですから、当時としてはかなりの晩婚。

夫婦は、このあと各国を遊歴することになりました。

行き先は、伊勢、京都、美濃、尾張、三河など。滞在先で、長野は和歌や国学を教え、『古事記』の講義も行っています。

この頃は平和な文化人といった感じですね。

 


井伊直弼と知り合う

そんな長野に転機が訪れたのは、1842年(天保13年)のことでした。

当時彦根では、井伊家の庶子14男として、井伊直弼が、自己鍛錬の日々を送っていました。

生きてゆくために困窮することはないものの、世に出る機会は絶望的な自身の立場。

文武を磨き、禅に接するしかない毎日です。

あるとき直弼は、噂に聞いた長野を呼び出し、和歌の師としました。

そうです。二人を結びつけたのは意外にも和歌だったのです。直弼は長野に和歌の技巧を質問し、自作の歌の添削を頼んだりしていました。

しかし時代が二人の関係を変えていきます。

期せずして直弼は井伊家の世子(跡継ぎ)となり、井伊家の次期当主となることが決まりました。

長野を通して国学を学んだ直弼は、天皇を中心とした「皇国」を作ることこそが、日本に必要であると考えるようになります。

実際、長野は有能なだけでなく、気も合いました。

絶大な信頼を寄せられた長野は、直弼の藩主就任を機に、共に藩政改革に尽くすこととなります。

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