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岩瀬忠震/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

日米修好通商条約の真実と岩瀬忠震~ハリスを圧倒した凄腕の交渉人が幕臣にいた!?

更新日:

幕末の外国奉行・岩瀬忠震(いわせ ただなり)

岩瀬が交渉に臨んだのは歴史の授業でもお馴染みの「日米修好通商条約」です。

この条約は
【アメリカの要求を一方的に受け入れた、屈辱的な不平等条約
として語られますが、これがどうして冷静に見てみれば、十分理に適った、日本にとっては当時最高の取り組みだったことがわかります。

本稿では、岩瀬の生涯と日米修好通商条約、特にタウンゼント・ハリスとの交渉を中心に見て参りたいと思います。

 

西郷が心酔した左内の認めた人物

まず岩瀬本人の軌跡の前に……。
2018年大河ドラマ『西郷どん』で、橋本左内はこう断言しておりました。

「幕府は無能」

確かに、幕末ドラマ等では、度々こんな風に描かれますよね。
江戸末期の幕府が無能だったからこそ、不平等条約に調印してしまい、明治以降も何十年も苦しむことになった。

多かれ少なかれ、歴史の授業ではそう習うハズです。

が、果たしてそう言い切れるでしょうか?
ここで見てみたいのが、“史実”の橋本左内が構想していた一橋派のメンバーです。

将軍:一橋慶喜
国内事務宰相:松平春嶽島津斉彬徳川斉昭
外国事務宰相:鍋島閑叟
その他官僚:川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震

有力大名(幕末の四賢侯)を中心に、デキる人物を登用したもので、
・川路聖謨(かわじとしあきら)
・永井尚志(ながいなおゆき)
・岩瀬忠震←本日の主役
ら三人は全員が幕臣(幕府の家臣・旗本と御家人)です。

しかも、ドラマではなく、史実の西郷隆盛が、その見識の深さに心酔したという橋本左内のアイデアです。
明治維新のメンバーから見ても、彼らが十分に有能な人物たちであったことは間違いないでしょう。

橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用

というよりも……。
日米修好通商条約の締結については、以下のことを考慮する必要があるのではないでしょうか?

1.そもそも幕臣以外に交渉可能な人物がいたか?
2.領事裁判権(外国人犯罪者を日本で裁く権利)を得たとしても、当時、諸外国の法律や慣例を知らない日本人が、適切に裁くことができたのか?
3.外国との貿易を始めるにあたり、適切な関税自主権を日本で判断できるのか?

明治政府の元勲となる人物たちも、嘉永6年(1853年)の黒船来航当時は、
「穢らわしい異人どもに、この国を好きにさせてよいものか!」
とイキリ立っていたに過ぎません。

自分たちが本気で条約交渉に臨む責務もないので、ある意味、無責任に攘夷などを掲げられた一面もあったでしょう。

他の大半の大名たちも「なんとか先延ばしにできませんかね~」と現実逃避したり、朝廷の人々は、そもそも開国の意味すらわかっていない。

要するに、幕府官僚しかマトモに外交を担えなかった状況です。
そして、そんな中で彼らはベストを尽くしました。

明治維新が成し遂げられなかったら、日本も植民地にされていたかもしれない――ではなく、もしも幕府官僚が本当に無能だったら、植民地にされていた可能性がある――とも考えられるハズです。

岩瀬は、そんな幕臣の中でもトップクラスの交渉センスを持ち、相手の外国人からは、
「彼こそが日本で出会った中でも最も愛想の良い、教養にあふれた人物」
と言われたのでした。

前置きが長くなり申し訳ありません。岩瀬本人の軌跡を見て参りましょう。

岩瀬忠震/wikipediaより引用

 

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旗本、部屋住みの身だった

岩瀬は文政元年(1818年)、江戸で生まれました。

父は旗本の設楽貞丈。
母は林述斎の娘。
岩瀬はその三男でした。

「設楽」という姓にピンと来た方もおられるでしょうか。
彼の先祖は「長篠の戦い」が行われた「設楽原」に居住しており、この戦いにも参加していました。

岩瀬は天保5年(1834年)、旗本・岩瀬忠正の養子となり、終生部屋住の身分となります。

当時の旗本というのは、実際、あまりやることがありません。
「無為の日々」といってもよいような、ノンビリとした青年時代。
しかし学業には秀でており、当時トップクラスの教育機関「昌平黌(しょうへいこう/別名・昌平坂学問所)」で学問を続けていました。

昌平黌は、外国奉行と関係の深そうな蘭学のカリキュラムとは無縁です。
岩瀬も伝統的な儒学を学んでおり、勝海舟福沢諭吉のように西洋の学問に通じていたワケではありません。

確かに、学業は優秀で、ユーモアに富み、頭の回転は抜群。
ただ、それでも当時の日本人としては、ちょっとデキる程度であり、勝海舟のように早くから注目されてもいない。

そんな彼も、黒船来航で運命が激変するのでした。

 

老中・阿部に抜擢される

嘉永6年(1853年)、ついに黒船が来航します。

ペリー来航/wikipediaより引用

そこで老中首座・阿部正弘が行ったのは、適材適所の人材登用。
そのお眼鏡にかない「海防掛目付」に抜擢されたのが、岩瀬でした。

無為の日々から抜け出した岩瀬は、阿部の期待に応えるべく張り切ります。

外国奉行、つまり外交官としてデビューを飾った岩瀬の胸には、使命感だけではなく、ドキドキワクワクした好奇心が湧いてきました。

元々柔軟性が高く、知識の吸収に貪欲な人物です。
日本の多くの人がイライラとした思いを攘夷にぶつけようとする中、岩瀬の心は弾んでいたのです。

 

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外交官デビューはプチャーチンとの交渉

アメリカのペリー艦隊が日本に訪れると、他の諸国も沸き立ちました。
ロシアはじめ、多くの国が日本の開国を待っており、このチャンスを逃したらいかんと派遣してきたわけです。

ここで誤解されがちなのが、
『欧米列強は、日本を植民地にしたかったのでしょう?』
という勘違いです。

そうではありません。
彼らの目的は、あくまで交渉や貿易です。

当時のヨーロッパも、植民地経営の【メリット】【デメリット】を事前によく検討しておりまして。
『ともかく何がなんでも欲しい――』と暴れていたのは、出遅れたベルギーのレオポルド2世ぐらいです。

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そしてロシアから日本にやって来たのがプチャーチンでした。

プチャーチン/wikipediaより引用

【関連記事】親日家プチャーチン

彼には過去、長崎を訪れ、通商交渉の末に退去を命じられた苦い体験があります。
にもかかわらずアメリカが日米和親条約を結んだのですから、黙って見過ごすわけにはいきません。

再び来日したプチャーチンは、幕府に頼み込みました。
「下田で船を作りたいのだが、どうにかならないだろうか?」

船が故障してしまい、乗組員を含めて妻子を滞在させねばならない――という見過ごせない状況ではあるのですが、幕府としてもロシアの敵国を刺激したらまずいとグズグズ。
そこで岩瀬は、進言します。

「軍艦じゃなくて、民間船なら大丈夫じゃないすかね。だいたい、日本から出て行け、けど船を修繕しちゃいけないって、無茶じゃないですか。幕府はそこまで冷たくないでしょう」

幕府も、確かに有能な者ばかりではありません。
硬直しがちな幕閣の中で、岩瀬の英断は光るものがありました。

 

親切なオランダの皆さん

そしていよいよ大本命、アメリカからハリスがやって来ることになりました。

ペリー来航による日米和親条約は、軽いジャブでして。
本格的な細かい条件は別の使節を送るから準備しておいてね♪
というのがアメリカ側の態度でした。

それが本気であったのは、幕府との交渉を円滑にすすめるためヒュースケンを連れて来たことからも明らか。彼はオランダ語のできる通訳でした。

幕府としても、いよいよ「本気でやらんとな……」と焦ります。

もちろん相応の準備(下調べ)もしておりました。

直前の安政3年(1856年)。
岩瀬は、オランダ人ファビウス船将から非常に貴重なアドバイスをもらっております。
長崎出張の際に夕食を採りながら、心ゆくまで語り合ったのです。

「岩瀬さん。これからは、開国して貿易しなきゃ駄目ですよ。あと踏み絵のような屈辱的な慣習も、やめるべきです」
「そうなんですか。でも、日本には輸出できるものなんてありませんからね。鉱山を掘り尽くされて、南米みたいになると困りますから」

岩瀬は、南米の国々がスペインによって収奪された、その轍は踏むまいと警戒していました。

「それは鉱山技師の問題ですね。よい技師がいれば、疲弊はしないものです。なんならオランダから技師を派遣しますよ」
「それはありがたい。銅の輸出を望んではおられますか?」
「そうですねえ、それは比較的産出量が多いから、そう思えるのかもしれませんね。これからは、鉱物資源に頼るのではなくて、蝋燭、麻、樟脳を生産すれば、いい輸出品になりますよ。漆器なんかも、まあ上流階級では人気ですが、買える人は限られているので、イマイチですね」
「よくわかりました。ところで、オランダ以外、英米あたりとも貿易はできるものでしょうか?」
「貿易とは距離じゃない。企業精神の問題です。オランダ国王は、自国の利益よりも日本のよりよい今後を考えて、鎖国を続けるよりも、様々な国と貿易すべきだと勧告しているのです」
「ほほう……」

ファビウスの親切で丁寧な言葉に、岩瀬は感銘を受けました。
貿易が国を豊かにするという可能性に、心がワクワクしてきたのです。

実は幕臣たちも、ペリーから既に珍しいものをもらっておりまして。

例えば蒸気機関車の模型。
これにまたがって大喜びでした。
彼らは警戒感や攘夷の気持ちもありましたが、それ以上に、新しい文物に対するワクワクがあったのです。

ペリーが持ち込んだ蒸気機関車の模型/wikipediaより引用

親切だったのはファビウスだけではありません。
長崎在住オランダ領事ドンクル・キュルチュスは、幕府に対して警告書を送ってきました。

ざっと意訳しますと、こんな感じです。

【安政2年(1856年)から始まったアロー号事件(第二次阿片戦争)。
なぜ、このような悲劇が起こったのでか?
この事件から、日本はどうふるまうべきか考えてみてはいかがでしょうか。

これは、清国が何でも一旦は拒絶してから、押し切られて許可する――という悪癖を持っていたからなのです。
このせいで、相手は「力推しすれば無茶も通る」と思ってしまうわけなんですね。

条約を結ぶことに警戒心はあるでしょう。まず、結んでしまいましょう。
細かい条件は、あとで修正していけばよいのです。
うるさく言わないで、ともかく受け入れる。これが大事です。寛大さこそが、身を守るのです。

ともかく、戦争とは些細なきっかけで起こります。
自分の力のほどを知りましょう!
日本は長らく戦争の機会がなく、しかも四方が海に囲まれていますから、一旦戦争になったら大変なことになります。
清国のことを他山の石として、もう一度日本のこれからを考えてはみませんか。】

マトメますと、
・条約をともかく拒否すると、相手が力づくで来るキッカケになる
・条約内容が気に入らなければ、交渉すれば変えられる
・軽挙妄動が戦争を招きかねない、ともかく慎重に!
といったところでしょう。

幕府にとっては耳に痛い話ではありますが、確かにその通りです。
ここまで厳しくも実用的なアドバイスをしてくれたオランダ人。

なんだか裏がありそうなようでいて、実際、親切でした。

 

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迫られる転換点、岩瀬の雄大な構想

なぜ日本が植民地にされなかったか?
破滅的な目にあわなかったか?

理由は色々あるでしょうが、清の失敗を反面教師としたことや、オランダのアドバイスのおかげもあるでしょう。
老中・堀田正睦は「こりゃ開国しかないな」と決めます。

堀田正睦/wikipediaより引用

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しかもプラス方向に考えたのでした。

「外国人を嫌い、やたらと攻撃的になるのは、時勢としても、道徳的にも、間違っている。交易をして、新しい知識を吸収すれば、日本人には優れた可能性もあるんだし、強くなって世界でも羽ばたけるかもしれないぞ!」

そんな堀田に対して、岩瀬は具体的な提案をします。

・西洋事情を探索させるべく、人を派遣する
・国内の港の法令を整備して、関税を決める
・外国と貿易を始めて、各地の大名にも特産品を作らせ輸出し、利益を出す
・外国人の出府(江戸へ行くこと)を許して見聞を広める
・条約を結んだ国に大使を派遣し駐在させ、留学生も派遣する
・日本から世界各地に向かって、輸出の利益を高める
・世界でも信義ある国と同盟し、孤立していて弱い国は助ける
・国民をより一層鍛錬し、北海道を開拓し、我が国の道徳心で西洋の貪欲な植民地支配を改めさせ、五大洲中の一帝国を目指す

どうでしょう?
海外から見ても恥じない国作りを目指す――そんな気概に溢れていませんか?

このあたり、実は明治新政府の方針と同じなんですよね。
後に明治新政府を作る人々が
「攘夷だ! 外国人ぶっ殺す!」
と湧き上がっている頃、岩瀬はここまで認識していたのです。

しかし、国内においては彼のような人物は少数派。
「異人の言いなりになる幕府め!」
と、憎悪を募らせる人々であふれていたから、大変なのです。

 

あの斉昭すら納得させた岩瀬の開国論

岩瀬にとって邪魔になったのは、他でもない水戸藩の強硬な攘夷論者・徳川斉昭です。

「絶対に開国なんてありえん!」
幕閣でも発言力があるこの人が、本当に困りものでした。

ここで阿部は、妙案を思いつきます。
「暴れる獅子には、ボールを与えてパワーを発散してもらおう。悪いけど、ここで彼に造船業というボールを与えて、遊んで貰うのだ」

阿部は斉昭に、
「軍艦旭日丸を建造してね」
と頼んだのです。

旭日丸/wikipediaより引用

この時、実は岩瀬も、斉昭とそのブレーンである藤田東湖を説得しております。
岩瀬の話を聞いていた二人は、ガチガチの攘夷に凝り固まっていた考えを、なんと変えているのです。

「今日の外国は、ちゃんと話が通じます。いわゆる夷狄とは違いますよ」
「うむぅ……そうかもしれん。たとえば良家の美女が、べっ別に私はアンタなんかと結婚したくないからね、とツンツンと何度も突っぱねたりする。そういう美女に限って、いざ結婚するとデレデレになってイチャイチャになるとか。我が国も、二百年間ツンツンしていた。そのあとで開国したら、デレデレのイチャイチャになるかもしれんな!」
「そうですよ、その通りなんです!」

何の比喩だよと思いますが、ともかくこの二人も納得しまして。
藤田は、斉昭団長とするアメリカ使節団派遣まで計画し、斉昭自身も了解したそうです。

ただし!
ここで非常に間の悪いことに「安政の大地震」で藤田が圧死、計画は流れてしまいます。
もし藤田が生きて、斉昭がアメリカに渡って、そこでエンジョイしてれば(おそらくハチャメチャに楽しまれたことでしょう)、日本は……少なくとも水戸藩はもっとまとまりがあったことでしょう。

このとき政治力バツグンの阿部も、朝廷工作を行っていたのですが、藤田と同時期に亡くなってしまい、旭日丸が完成してボール遊びが終わってしまうと……またもや狂犬・斉昭が猛然と暴れ出します。

「やっぱり、開国なんてありえん! 貿易なんかしたら日本の富が吸い尽くされるだけだろ! 開国ありえない! 絶対ありえん、ありえんからなーッ!」

さしもの岩瀬も、こんな状況をどうにかできるほどの権限はありません。

日本屈指の外交のエキスパートとして、各国の外交官と交渉するほかありませんでした。

 

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ハリスのスピーチ

安政4年(1857年)。
ついにハリスが米国大統領の書簡を携えやって来ました。

沿道には、実に9万5千人もの見物人が集まり、注目を浴びたハリスも満足げです。

タウンゼント・ハリス/wikipediaより引用

ハリスは堀田正睦邸に来ると、堂々たる演説を始めました。

長くなりますけど意訳させていただきますね。

【日本の皆さん、こんにちは!
今、世界はかつてないほど狭くなっています。
交易は盛んになり、グローバル化しているのです。ここでその流れに背いても、どの国からも敵視されてしまいます。

我々の望みはあくまで交易であり、かつてのスペインやポルトガルのように、布教をしたいとも考えておりません。

日本は今、危機に瀕しています。
我々の大統領は、日本が阿片で汚染されないか心配しています。
阿片は金銭だけではなく、健全な肉体を蝕み、犯罪を増加させ、社会を根底から腐らせてしまう。このような阿片禍は、イギリスが清国に武力でもって売りつけたためです。

我々アメリカ合衆国はイギリスとは違います。
我々は東洋に植民地を持っていません。ハワイがそうなりたいと思っても、断ったほどです(※このへんは事実とは異なりますが、はったりでしょう)。
このままでは、台湾はイギリス、朝鮮はフランス領にされるかもしれません。

なぜこのようなことが?
それは、条約を結び駐在使を置こうとしなかったからなのです!

かつて、インドもイギリスとの条約を拒み、植民地とされてしまいました。
イギリスは今、ロシアと戦っています。このままでは、満州や樺太を支配し、そこに海軍基地を置こうとするでしょう。
この前、イギリスの将軍と話しました。
清国の次は蒸気船50艘を連れて日本に自由貿易を迫りに行くと、彼は語りました……。

考えてみてもください。
イギリスや他国の野蛮さを。
たくさんの戦艦を連れてきて、開国を迫ります。

しかし、我々アメリカは、このハリスがたった一人で、交渉に来ました。
こんなフェアプレー精神の私と交渉するほうが、名誉あることだとは思いませんか?
先に私と条約を結びましょう。そうすれば、英仏にも連絡を取ります。

自由貿易は素晴らしいのです。
もしあなたの国で飢饉が起これば、外国から食料を輸入できます。
交易すれば、素晴らしい発明品も手に入るんですよ!
しかも輸入品からは関税が取れます。WIN-WINではないですか!

日本は平和が続きました。素晴らしいことです。
しかし、そのため現在では武力で劣ります。無謀な勇気にかられたら、危険なことになります。
我がアメリカと条約を結んだら、日本が危機に陥ったら武器弾薬、訓練のための仕官も派遣します。

日本の皆さん!
アメリカと仲良くしましょう!!】

ハリスに代わってご静聴ありがとうございます。
本演説を要約します。

・イギリスは最低最悪です。逆らうと危険です
・でも我々アメリカは善良で味方です。条約を結んで、仲良くしましょう。きちんと条約を結んで、イギリスの脅威を退けたいですね!
・貿易をきっちりすればむしろお得ですよ! さあ、怖がらないでやってみよう

いかにも怪しげな申し出ではありますが、実は、幕府側でもイギリスを最も警戒してましたので、納得できる話ではありました。

むろん、ハリスの言葉はすべてが事実ではなく、ハッタリや駆け引きもあります。
しかし、居並ぶ幕府閣僚は、その弁舌に圧倒されました。

岩瀬もまた、ハリスの言うことに納得ができました。
彼の頭の中は、交易によって利益を得ることで一杯です。

岩瀬は渋る幕閣を説得し、下田奉行・井上清直と共に、ハリスとの交渉に入ることを決めたのでした。

 

我々は皆同じ、天地の間の人

後年、ハリスは、岩瀬・井上との交渉をこんな風に振り返っております。

「私はアメリカの利益も計ったが、一方で日本の利益も損じないように努力した。治外法権に関してはあの時点では仕方なかったが、自分も岩瀬も意図的に不平等にしたのではない。
関税は、私は自由貿易主義者だが、日本のためを思い、平均20パーセントとした。酒・煙草は35パーセントと重くした。
(中略)
議論のために、私の草案や原稿は真っ黒になるほど訂正させられ、主立った部分まで変えることすらあった。このような全権委員(岩瀬と井上清直)を持った日本は幸福である。彼らは日本にとって恩人である

あれっ??? と思いません?

ハリスらアメリカ人は、強引に、自分たちに都合のいい条件を押しつけ、幕府がハイハイ黙って頷いていた――わけではありませんでした。

むしろ真逆。

ハリスはしばしば、岩瀬に反論され、答えに窮することすらありました。
岩瀬に堂々と論破説得され、条文を何度も改めることになったのです。

日米修好通商条約/photo by World Imaging wikipediaより引用

岩瀬にしても、ハリスや外国人に対して気遣うようになりました。

ハリスは、攘夷のために日本の治安が悪いことを理解しておらず、しきりに旅行をしたがっていました。
それをうまく説得し、身柄の安全確保に気を遣っています。

続発する攘夷事件。
それを見聞きし、ハリスはようやく日本の危険性に気づくことになるのでした。

岩瀬とハリスの間には、偏見や敵意のかわりに、敬意がわいていました。
ハリスはじめ様々な外国人と接するうちに、こう確信するようになっていたのです。

「国は違えど、同じ人間だ。わかりあえないことはない」

時にハリスがヨーロッパ各国のことを悪く言うと、岩瀬がたしなめたほどです。

「ヨーロッパ人も同じ天地の間の人。我々と変わりはないでしょう」

ここまでの国際性を、数年間のうちに身につけた岩瀬。
その成長性は驚異的でした。

 

ユーモアと才知溢れる外交官

同時代、岩瀬と知り合った人はその才知に舌を巻き、絶賛していました。

橋本左内「急激激泉の如く、才に応じて気力も盛んに見えて、決断力もあり、知識もあったえ、断あり、識あり」
木村芥舟(摂津守)「資性明敏、才学超絶、書画文芸一として妙所至らざるなし」

岩瀬に魅了され、感心したのは日本人だけではありません。

ハリスは岩瀬のことを信頼していました。
ハリスだけではなく、他の国の外交官も、岩瀬を絶賛しました。

岩瀬と出会った、イギリスのエルギン伯爵の秘書であった、ローレンス・オリファント(イギリス、エルギン伯秘書)は、彼を絶賛しています。
「日本で出会った中でも最も愛想が良く、教養に富んだ人物だ」

ローレンス・オリファント/wikipediaより引用

英語の勉強を努力していた岩瀬は、オリファントの言うことをすぐさま覚えて、繰り返すことができたそうです。
食事に出た品目をすべて書き留め、覚えようともしていました。

オリファントと交渉する幕臣たちは、西洋料理に慣れており、特にハムとシャンパンには「猛然と襲いかかる」と形容されたほど気に入っていたようです。

「条約には、ハムとシャンパンの味がしないようにしないといけませんね」
岩瀬がそうジョークを飛ばします。
ジョークを飛ばすとき、岩瀬は茶目っ気たっぷりに瞬きするので、オリファントにはすぐにわかりました。

そのユーモアセンスは、オリファント以下相手に大受けで、交渉の場を和ませました。
しかも2人は大変陽気な性格であったようで、お互いジョークを言い合い、楽しく仕事ができたようです。
岩瀬は交渉の際には椅子を準備する等、よく気配りもしていました。

もちろんただジョークが好きなだけではなく、岩瀬はいざ交渉に入るとズバリと要点を衝いてきます。

「彼の観察は常に鋭く、正鵠を射ている。それでいて、行う時は謙遜するのだ」
その頭脳に対し、大いに感心していたのでした。

岩瀬はオリファントたちを案内して、浅草観光に向かい、射的や花屋敷を楽しんでおります。
送別の宴では、将軍・徳川家定ヴィクトリア女王に向かって乾杯し、別れを惜しみました。

岩瀬から脇差まで贈答されたオリファントは、交渉や会食を通じてこう確信したと言います。

「今、日本人は西洋文明の光に接した。これからはきっと取り入れようとするだろう」

 

多くの大名には理解できない条約内容

安政4年(1857年)末。
いよいよ条約締結も見えて来たころ、岩瀬は大名を集め、条約の意図をプレゼンしました。

「なるほど、今は条約締結しかありませんね。開国した上で、今後を考えねばならないでしょう」
「ついにこの時が来たか。我が藩の優れた産品ならば、海外貿易でも十分高評価が得られるだろう」

これが理想の反応ですね。
しかしこういう反応は、賢明で知られ、開国論を理解し人の意見をよく聞いた松平春嶽や、この展開を見据えて輸出用薩摩切子を開発していた島津斉彬のような、ごく一部のデキる人たちだけでして。

「えっ……どういうこと?」
「財政カツカツなのに、輸出品作れって言われても、わからないし。外国人って何が欲しいのか想像つかないし!」

大半の大名にとっては、何がなんだかわからないわけです。

「なぜ異人と取引に応じないといけないのだ! ふざけるな!!」
「条約なんて絶対に駄目だ! 締結するなら切腹する!!」

そう大騒ぎする過激派まで出る始末。
なんとか堀田らが説得したものの、ここで窮地に立たされます。

「まずい。ハリスにはそろそろ締結できそうだと言っているのに、大名がこれではできない」
ここで堀田や岩瀬らは、禁断の手を思いついてしまったのです。

「そうだ、朝廷から勅許をもらえば、大名も黙るはず!」
岩瀬は井上は、残念ながら、京都を甘く見ておりました。

ハリスに向かってこう言いました。
「朝廷なんて貧しくて、坊主や寺社の街で何もないんですよ。ゼロの街です」
とまぁナメきっていたのです。

ハリスはいぶかしく思い、天皇崇拝に関しての知識を語りました。
が、二人とも一笑に付してしまいます。

こうした岩瀬の言動を見ていると、彼は頭の回転が速すぎたのかもしれない、と感じてしまいます。
松平春嶽や堀田正睦など、荒波に飲まれながら結果を出してきた人物にはスグに伝わる話でも、他の凡人にはそう簡単ではない――ことが理解できない。

それが裏目に出てしまいました。

 

朝廷は、もっと理解できなかった……

堀田正睦と岩瀬らが足を踏み入れた京都。
そこに待ち受けていた孝明天皇はじめ皇族と公卿は、開国について全く理解できていませんでした。

孝明天皇/wikipediaより引用

「異人は嫌どす。相手に開国して、異人が都に入り込んで来るようなことがあれば、どないしたらええ?」

この頃の京都は、終始こんな調子でして。
異人は人間というよりも、得体の知れない怪物、それこそ犬猫あるいは鬼や天狗と勘違いしているのでは?というほど怯えているのです。

ただし、攘夷派でも意見は割れておりまして。

穏健派:孝明天皇はじめ皇族や上流貴族・幕府と協調路線、暴力反対(→公武合体派へ)
過激派:鬱憤が溜まっている下流貴族・幕府に反発(→尊皇攘夷過激派へ)

ともかく、朝廷の理解がそこまで酷いと思ってなかった岩瀬は、必死でプレゼンを行います。
「……と、このようにアメリカ、イギリス、フランス、ロシア等が迫っており……貿易は国を豊かにすることができ……」

しかし反応は……
「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにありますのえ?」
と、何もわかっていない人。

「異人が都に入ってくると思うと、もう怖くて、食事も喉を通らへんし、夜も眠れへん。なんとかしとくれやす」
と、そんなふうにひたすら怯えている人。

「アホくさ。今更公卿に政治のことなんか言われてもしらへん。公家にできるわけあらへんやろ」
と、しらけきってやる気のない人。

「ちょうどええわ。ここいらでうちの力、見せときまひょ」
と、露骨に他の公卿相手に牽制を始める人。

「まっとったで、この時を! 今こそ幕府にとことん反対して、思い知らせてやるさかい!」
と、積年のつもりに積もった鬱憤を、ここぞとばかりに幕府にぶつけてやろうと荒ぶる人……。

いずれにせよ話になりません。絶望的です。
彼らの建白書はこんな調子でして。

・輝かしい神の国である日本が、穢らわしい蛮夷の国と同列に交わるとは国を穢すもの。天照大神以来の先祖に申し訳がたたない
・堂々たる皇国が蛮夷の脅しに屈して頭を下げて対応し、その言い分に屈するとは末代までの恥。条約に反対してこそ、人心はつなぎとめられる
・蛮夷どもは、口では調子のいいことを言いながら強欲で搾取しようとし、我が国が拒めば武力で脅してくるに違いない。彼らの目的は我々を騙してキリスト教徒にすることで、そのうち日本を占領するつもりだ! もし戦争になったら天皇はどこに逃げて、幕臣はどこに住むつもりか

堀田はこうしたやりとりに、愕然として震えました。
「堂上正気の沙汰とは存ぜられず……(朝廷の公卿どもは頭ぶっ壊れてんじゃねえの!?)」

それでも堀田が交渉を続けると、こんな答えすら返ってきました。
「まあいろいろ意見があるやろけど。どうしても決められへんかったら、伊勢神宮でおみくじでも引いて決めまひょ」
「お、お、おみくじ……」

もはや限界。江戸に戻って決めるしかない。
堀田はそう考えたのです。

要するにこれは、堀田や岩瀬らと、朝廷の人々のレベルが違い過ぎでして。
話がかみ合うはずもありません。

こんな調子で、もし朝廷が外国と交渉していたらどうなっていたことでしょう?

そして悲劇的なことに、幕末尊王攘夷派と呼ばれた人々は、大体がこうした公家と同程度の知識と意見しかないところからスタートしたのでした。
しかも、公卿よりずっと暴力的で、血に飢えていて、鬱憤晴らしをしたいと考えている。
危険な存在であったのです。

途中で攘夷の非を悟った者もおりましたが、そうではない人もいたわけです。

 

一橋派は改革の旗印だった

こんな大変な時代こそ、一致団結して国難に当たるべき――。
と、そういう方向へ素直に向かわないのが、幕末という時代のややこしさです。

大名たちの中でも、トップレベルの知能を持つ、島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城ですら、そういう考えには至りませんでした。

「国を一致団結させるため、次の将軍は強い人がいいですね!」
と、開国外交そっちのけで将軍継嗣問題に力を入れてしまったのです。

そしてこのことが、幕末の情勢を極めて悪い方向に押し流してゆきます。

岩瀬も、一橋慶喜を将軍とすることは好意的に見ていました。
一橋派の橋本左内とは、肝胆相照らす仲。岩瀬は彼らに取り込まれていくようになります。

その岩瀬が説得したため、堀田正睦までもがだんだんと消極的な一橋派になりつつありました。
斉昭は自分を幕政から追い出した堀田が大嫌いでしたので、岩瀬としてはこの二人を和解させたかったのかもしれません。

ここで考えていてもよくわからないのが、どうして人々は政治の一致団結を見出してまで、
【一橋派に期待をしたか?】
という点です。

徳川慶喜/wikipediaより引用

このあたりの動機がよくわからないまま、一橋派と南紀派の争いがあった、と言われてしまうのですが。
どうしてそこまで一橋慶喜の擁立を重視したのか。

我が子が将軍になる徳川斉昭。
政権中枢に食い込めることが確実であった島津斉彬、松平春嶽およびその家臣の動機は理解できます。

しかし、中央から遠い吉田松陰ですら一橋派勝利を熱望していたのはナゼでしょうか。

思うにこれは
【期待感】
ではないだろうか?と思うことがあります。

血筋がより家康に近いとかではなく、国内屈指の実力者たちが推薦する人物をトップに据える、これまでとは違った政治のダイナミズム――という理屈です。

一橋派にあるのは「=改革派」というイメージ。

慶喜の方が年長であるとか、聡明であるとか、そういった彼自身の能力ではなく、フレッシュな期待感がむしろ先に来ていたのではないでしょうか。

ただし、冷静に考えると一橋派にはミスがありました。

・徳川斉昭が不人気だった
特に将軍の意志決定に対して力を持つ大奥から嫌われていたことは、大きな障害でした

・徳川斉昭が開国反対で攘夷派であり、その子である慶喜も同じだと考えられていた
そのため「斉昭の子・慶喜が将軍になったら、強引な攘夷をして危険だ」と考えてしまう者もいたのです。斉昭ものちに開国に賛成しており、慶喜は父と違って攘夷とは距離を置いていましたが、このイメージの強さは悪影響をおよぼしました

・正統性の薄さ
血縁的な正統性となると、慶喜の場合はかなり劣っていました。これからの政治は血縁的正統性より資質だ、と言いたかったのかもしれませんが、正統性を重んじる立場からすれば認めるわけにはいきません

・タイミングの悪さ
改革を迫るということは悪くないでしょうが、よりにもよって条約締結をしている最中に政治工作をしてしまったことは、「この大事な時期に、和を見出すような行動をしている」と見られても仕方ないことでした

・朝廷に工作を仕掛けた
将軍継嗣に納得できない、堀田正睦から幕政から追い出されたことに腹を立てた徳川斉昭は、朝廷に対して工作を仕掛けます。この工作は、天皇以下公卿が将軍継嗣に関してはまったく感心がなかったため不発に終わり、しかも大きなマイナスの影響を与えることになります

一橋派は、国を変えたい大きな志があったのだとは思います。
トップクラスの頭脳も揃っていました。

しかし、彼らはこうしたミスを犯していたのです。

一橋派に賛同していた阿部正弘が急死したことで、風向きは不利な方向に向かいます。
そして彼らの敗北を決定的にする後任者が、老中として就任するのです。

 

井伊直弼との対立

一橋派とアンチ一橋派(南紀派)の暗闘は続いていました。
そんな最中、井伊直弼が老中に就任します。

岩瀬は、井伊直弼のことをさしたる政治家ではないと見なしていました。

この過小評価が失敗だったかもしれません。

井伊は、徳川家の先鋒であることを常に意識する、頑固でパワー溢れる人物でした。
そのことを周囲が知るのは、彼が就任してからのこと。
それまでは、無害な男だと考えられていたのです。

井伊は紀州家の徳川慶福(後の徳川家茂)を跡継ぎとすることを発表。
一橋派の野望は打ち砕かれるのでした。

 

条約締結の覚悟

そんな中、岩瀬は奮闘していました。
ハリスは煮詰めた条約が未だに締結的ないことに、苛立ちを感じています。
引き延ばしは最早できません。

岩瀬が調印しようとすると、井伊の配下・宇津木六之丞景福は懸念を表明しました。

「あなたの政敵は、あなたこそが勅許を取らずに条約を締結したと責め立てるのではないでしょうか? 慎重になられたほうが……」
「構わん。責任は私一人がとる」

この懸念は大当たり。
尊王攘夷派や薩摩藩、長州藩、その流れを汲む明治新政府も、幕府の行動を責め立てました。

「不平等条約を、勅許なしで撮った弱腰幕府! 異人の言いなりになった幕府! 無能な幕府のせいで、不平等条約改正にどれだけ苦労したと思うのだ!」

冒頭で述べた通り、このことについては、もっと冷静に考える必要がありそうです。

井伊にせよ、岩瀬にせよ、こうした糾弾は覚悟の上でした。
そのリスクをわかってないワケじゃない。
それでも締結を進めなければならなかった。

岩瀬は、橋本左内宛ての書状で、
【自分たちは王倫と秦檜だと思われるだろう、この先大変な重罪を問われるかもしれない】
とこぼしています。
※王倫と秦檜:南宋の政治家。異民族相手に屈辱的な和議を結んだ奸臣として、後世糾弾されました。

秦檜と岳飛の評価は変わる? 南宋と金を結んだ政治家は売国奴か、それとも平和主義者か

しかし岩瀬の転落は、条約とは関係ないところで訪れました。
岩瀬は彼を嫌った井伊によって、作事奉行に配置転換されるのです。

要は左遷でした。

 

転落、不遇の死

岩瀬の決定的な破滅は、条約とは関係ないところで訪れます。

井伊は、水戸藩にくだされた「戊午の密勅」に一橋派が関与したことに激怒、処断を決意したのです。
この国難の最中、倒幕のキッカケとなりかねない密勅を、ドサクサに紛れて出したのです。

井伊の怒りは、「安政の大獄」という政治弾圧となって炸裂します。

開国したことにさせられた井伊直弼がガチギレ! 安政の大獄はじまる

その結果……。
橋本左内、斬首。
吉田松陰、斬首。

彼ら無念の若者に隠れて目立ちませんが、岩瀬の処分も、日本にとっては大きな痛手でした。
当時の日本でトップクラスの頭脳を持つ、敏腕外交官・岩瀬忠震は、永蟄居処分となったのです。
いわば政治的な死。

これほどの才人には過酷な措置でした。
一方、井伊としても大いに譲歩したつもりであったのです。

「みだりに将軍の後継者問題に口を挟んだことは、死罪が相応である。ただし、岩瀬は条約交渉に功があるため、一等減じよう」
として、岩瀬は江戸の向島に隠居し、書画を楽しむ日々に入ります。

そして文久元年(1862年)に病死。
享年44。

せめてあと一年、文久2年(1862年)の島津久光上洛に端を発した「文久の改革」まで生きていれば、松平春嶽のように返り咲くチャンスもあったでしょう。

しかし、彼にその時間はありませんでした。
激務の間も、長年にわたって結核と思われる病魔と闘っていたのです。

返り咲くことなく世を去った岩瀬忠震――。
「このような全権委員(岩瀬と井上清直)を持った日本は幸福である。彼らは日本にとって恩人である」
ハリスがそう絶賛した岩瀬の名は、恩人と思われるどころか、忘れ去られているかのようです。

しかも彼の成し遂げた条約締結という大事業は、
「弱腰で無能な幕府の失策」
とすら見なされているのです。

何とも悲しいことではあります。

 

伏魔殿から魔星が飛び出す

確かに岩瀬は優秀でした。
しかし、その優秀さのせいか、物事をちょっと甘く見てしまったのではないか、と思える部分もあります。

誰もが皆自分と同じレベルで物事を見て、理解できるわけではない――。
その想定の欠如が、大名や朝廷から理解を得られない事態に繋がっている気がするのです。

彼の最大のミスにして、幕末の情勢に与えた最悪の影響は、大名を抑えつけるために朝廷を持ち出してしまったことです。

中国の古典文学『水滸伝』の冒頭は、封印された伏魔殿の扉を開けてしまうところから始まります。
それがキッカケで、百八の魔星が飛び出して物語が幕を開けます。

堀田正睦と岩瀬らは、条約勅許を得るために京都へ向かいました。
その行動は、まるで伏魔殿の扉を開けたかのように思えます。

『水滸伝』における魔星は、英雄の象徴です。
このときも、のちに英雄と呼ばれる者も飛び出しました。
一方で、これも『水滸伝』の魔星のように、流血と暴力ももたらすこともありました。

堀田や岩瀬らが、勅許を得るため京都にやってくる。
その背後で、徳川斉昭、井伊直弼、松平春嶽らの派遣した者たちが、政治工作を行いだしたのです。

徳川斉昭/wikipediaより引用

【関連記事】徳川斉昭

その時、不満を抱えた下級貴族たちは、ついにハケ口を見つけてしまいました。
【天皇の権威をかざし、攘夷を断行しろと迫ると、幕府が困る】ことを発見したのです。
彼らは穏健派の孝明天皇が、攘夷よりも幕府との連携を重視するようになっても、止まることはありませんでした。

当時の日本には、暗い鬱屈が渦巻いていました。
度重なる災害でどの地域でも疲弊し、暴力的解決手段を厭わない者が増え、治安は悪化。
何かムシャクシャしていて、暴力的な発散をしたくてたまらない者たちが、そこら中にいたのです。

黒船が来航し、外国人たちがこの国の土を踏んだ時。
彼らの中にはその暴力的衝動を、「小攘夷(=ヘイトクライム)」という形で発散できることに気づきました。

尊皇をかざし、攘夷を唱える。そうすれば、幕府も譲歩せざるを得ない。
そのことに気づいた者たちが続々と京都にのぼります。

二世紀以上政治から忘れ去られていた京都は、さながらスズメバチの巣のような、謀略と流血の渦巻く街と化してゆくのです。

岩瀬が期待を寄せていた一橋慶喜は第15代将軍となりました。
その慶喜は慶長4年(1868年)、錦の御旗に追われるようにして江戸に戻ることになります。

岩瀬と堀田が朝廷工作に失敗して戻った安政5年(1858年)の、ちょうど十年後のこと。
わずか10年の歳月で、幕府と朝廷の力関係は逆転してしまったのです。

 

不平等条約締結は過ちだったのか?

日本史の授業を思い出してください。
だいたい、以下に引くWikipediaのような問題点を習ったはずです。

この条約により、日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。とくに慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降は、輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要とした。
本条約の不平等的な性格は日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となった。裏返せば、自由貿易により外国の物品を安く購入することが可能となり、明治の近代化に寄与したとも考えられる。明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだ。

これを読むと、こういう感想に至るはずです。
「なぜ幕府は、こんな条約を結んだのだろう? 幕府が無責任なことをしたせいで、困ったことになったんじゃないか」

しかし、何度か申し上げましたように、これには注意が必要です。

1. 当時の争点は条約の内容ではなく、勅許を得ていないことでした。異人と交渉したことそのものが屈辱だとみなす意見すらありました
2. 攘夷事件が続発していた当時の事情を考えれば、「外国人居留地」を設定しないことは非現実的です
3. 当時の制度では、治外法権の設定は非現実的です(これはハリス側もそう証言しています)
4. 関税が下げられたのは攘夷事件が続発し、締結国が不快感を示したため。関税に関して悪いのは攘夷を行った者です。オランダはじめ多くの国が攘夷をすれば国益を損なうと警告し、幕府もそう認識していましたが、頑なな尊王攘夷派はそのことを理解しませんでした。そうした情事事件の結果、現代の観点からみても妥当であった20パーセントという関税が、最終的には5パーセントにまで下がっていったのです。
5. 条約とは、締結後修正してゆくものであるというのが、当時の国際的な認識でした。締結しなければ始まらない、締結してから適宜修正するのというのが、当時の国際事情での常識。不利な条約をなかなか改正できなかったとすれば、明治維新後は新政府の外交力の問題です。それを幕府のせいだと言い張るのは、責任転嫁です

当時は条約を結ぶしかない、それが最善の策でした。
そしてそんな難しい交渉が可能であったのは、岩瀬のような幕臣でもトップクラスのエリートだけでした。

それを、当時は攘夷論で煮えたぎっていて、実際に実行に移した人もいる、そんな新政府の皆さんが非難するのは筋違いではないでしょうか。
彼らに必要であったのは隠蔽や責任転嫁ではなく、反省であったはずです。

幕末から明治にかけて、多くの英雄や偉人が登場したとされています。
しかし、その内容には偏りがあり、岩瀬はじめ幕臣はどうにも日が当たらないのは残念なことです。

岩瀬の言動を知ると、この当時、しかも開国からこれだけの時間で、ここまで国際化できた人がいたのかと驚くほかありません。
ハリスが恩人であると言ったのも、理解できます。

これほどの才知溢れる人物がいたからこそ、日本は最悪の事態を免れることができました。
そのことは、忘れてはならないのではないでしょうか。

もし岩瀬がもっと長生きしていたら?
天と地の間の人は皆同じであるという精神は、きっと日本をよりよい方向へと導いたことでしょう。

文:小檜山青




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【参考文献】
『ミネルヴァ日本評伝選 岩瀬忠震』小野寺龍太
国史大辞典

 



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