幕末・維新

最期はピストル自決した川路聖謨|ロシアから日本を守るため奔走した幕臣

2025/03/14

慶応4年(1868年)3月15日――西軍による江戸城総攻撃が迫るその日、一人の年老いた幕臣が拳銃で命を絶ちました。

無血のうち開城と知らずに、彼は亡くなったのです。

江戸城無血開城とはいうものの、誰もが命を落とさなかったわけではありません。

上野戦争に散った彰義隊のみならず、この日、自ら徳川幕府に殉じた彼の名を川路聖謨(かわじとしあきら)といいます。

68歳という高齢で命を絶ったこの川路こそ、ペリー来航より前に迫っていたロシアと交渉した人物でもあり、非常に有能な幕臣として知られていました。

大河ドラマ『青天を衝け』では平田満さんが演じ、平岡円四郎と徳川慶喜を引き合わせたことが重視される姿が見られました。

しかし、彼の活躍はそれだけではありません。外交の要であり、誠実で心優しい人でした。

そんな彼が、史実においてはどんな感情を抱き、江戸幕府崩壊を見ていたのか?

川路聖謨の生涯と共に振り返ってみましょう。

川路聖謨/wikipediaより引用

 


豊後から江戸へ出、累進を重ねる

享和元年(1801年)――豊後国日田代官所にて、内藤吉兵衛に男子・八十吉、改名して弥吉が生まれました。

物心つくかつかないか、この三年後に母とともに彼は江戸に向かいます。

吉兵衛は代官所手代で終わるつもりはなかったのか、はたまた我が子を出世させたかったのか、一念発起して江戸まで家族を呼び寄せたのです。

江戸で一家は清貧の中穏やかに暮らしていました。

そこで聡明さを発揮し始めるようになった弥吉に目をつけたのが、小普請組の川路三左衛門光房でした。

川路家は幕臣といえどもさしたる名門でもありません。それでも内藤家からすれば念願が叶うものでもある。川路家も熱心に頼み込んできましたから、話はまとまりました。

13歳で元服。『書経』由来の聖謨という諱を名乗り、ついに川路聖謨は幕府に出仕を果たしました。

江戸城/wikipediaより引用

このとき聖謨は18歳。

彼には様々な才能と情熱がありました。

実の親、川路家の期待。

豊かな教養と諧謔のセンス。

猛烈な出世願望。

まさしく彼は嚢中の錐(きり)であり、幕臣の中でメキメキと才智を発揮します。

下級武士の出身でありながら初めて支配勘定出役になると、その後も累進を重ね、小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行を歴任するのです。

聖謨が歴任した土地には、彼の行政手腕を物語るものが残されております。

例えば落語の『鹿政談』がそうです。この噺に登場する奈良奉行を三代目・桂米朝は川路聖謨にしました。

落語に似合うユーモアセンス、軽妙さがある実在の人物として、聖謨はピッタリ! 米朝のセンスと聖謨の個性が重なる、素晴らしいアレンジといえます。

川路聖謨は日記を残しています。

こんなにもお茶目で、ユーモアがあって、やさしい人がいたのかと思うと笑みが浮かぶような、素晴らしい記述があふれています。

結婚生活についてはなかなかうまくゆかず、四度目の結婚で理想の妻・やすとめぐりあった聖謨。

この頃までは穏やかな人生が続いていました。

 


ロシア南下に立ち向かう

川路聖謨が幕臣となった文政年間は、1810年代末期にあたります。

ここで、世界史のことを考えてみましょう。

ロシアは内政を安定させたころから、東に目を向けるようになります。

エカチェリーナ2世と大黒屋光太夫の邂逅は、日本とロシアの関係性の象徴ともいえました。

大黒屋光太夫

幕府はロシアの脅威を認識しており、五稜郭のような西洋型城郭を蝦夷地に建築しました。

さらに東北諸藩に蝦夷地および樺太警備を任せたものの、ロシアの脅威は一時期沈静化するのです。

19世紀初頭となるとロシアはある脅威に直面しておりました。

フランス革命と、そのあとに続くナポレオン戦争です。もはや西側からに脅威対処をせねばならず、一時的に日本のことなど優先順位が低くなります。

ナポレオン/wikipediaより引用

その脅威が去ると、ロシアは再度、日本に目を向けるようになります。彼らから見て垂涎の的がありました。

そう、それは不凍港です。

幕末の定番といえば、ペリーの黒船来航ですよね。

もくもくと煙をあげてやってきた黒船を見て、江戸っ子たちはびっくり仰天!……と、このシーンをあたかも諸外国との初接触のように描くのは正しいのかどうか。

幕府は、そのずっと以前から海外の圧力や脅威を把握していました。

松前藩をはじめ東北諸藩ではロシアからのプレッシャーをひしひしと感じていたものです。

異国船の脅威を感じていたのは、西南の藩にとどまらず、松前藩やアイヌの人々もそうです。

日本は単一民族国家であるという誤認はいまだにあるようですが、それは違います。和人と蝦夷(えみし)は異なると理解されてきました。

それが「日本人」に組み込まれていくのは、江戸時代半ばころからのことでした。

蝦夷地や樺太に来たロシア人に対し「我が国の民が住んでいるのだから、ここは日本である」と主張するためにそうなっていったのです。

徳川幕府の外交を軽視することは、アイヌへの無理解につながりますので、改まることを願ってなりません。

 

ロシア交渉の糸口となる海防掛に

嘉永5年(1852年)、オランダ商館長・キュルシウスが翌年アメリカ艦隊が来航する旨を伝えてきました。

阿部正弘はこれを踏まえ、川路聖謨を海防掛に任命します。

阿部正弘/wikipediaより引用

果たしてペリー来航は現実となり、幕府は大騒ぎとなります。

しかも、アメリカだけに終わりません。

ペリーの一ヶ月後にはロシアからプチャーチン一行が軍艦に乗り、親書を携えて来日したのです。

応接として任命されたのが、勘定奉行でもある川路聖謨であり、海防掛との兼任になりました。

彼は知識人とはいえ、勝海舟や福沢諭吉とは異なる思考の持ち主でした。

幼い頃から漢籍を教養として叩き込んできた彼は、その知識を元に理論を組み立てるのです。

聖謨はこう主張していました。

日本は開闢以来、四方を海で囲まれている。ゆえに中国のように国境を侵されたためしがない。

しかし事態は変わった。ロシアがかくも南下を目指すからには、対策が必要である。

漢皇祖・劉邦のころには、夷狄と縁者となってまずは友好につとめた。

それが武帝ともなれば、討伐している。

唐・太宗も、然り。

今、日本の武力は低い。だからこそ友好関係を結ぶ。そして国力を高め、そのときこそ、ロシアと堂々と対峙すべきである。

そう外交方針を定めたのです。極めて現実的な答えでした。

そしてこの方針が間違っていなかったことは、歴史が証明しています。こうした問答からおよそ半世紀ののち、日本は日露戦争において薄氷の勝利をおさめたのです。

ところが、この話がまるで通じない相手がいます。

徳川斉昭です。

徳川斉昭/wikipediaより引用

将軍家に対抗心を燃やし、水戸学で理論武装した斉昭は、樺太にロシア人が上陸していることを厳しく問い詰めるべきだと幕府に迫ったのです。

斉昭は一事が万事この調子で、「ペリーを宴会に招き、酒に酔わせて殺す!」と献策したこともあります。甚だ迷惑な人物なのです。

御三家からこんな人物が出てしまったことが、徳川幕府の不運でした。

こうした斉昭と、そこから広がる攘夷のガス抜きが幕府の課題となります。

それでも二人は「国を思う気持ちは同じ」ということで、ひとまずは一致。

かくして聖謨は長崎へ向かうのでした。

 


ロシア人を魅了し、日露和親条約を締結する

長崎についた川路聖謨は、交渉の席に登場しました。

嘉永6年から安政2年(1853年から1855年)かけて、彼はプチャーチンらと交渉にあたることになります。

大きな褐色の目をした、聡明機敏な面構えの男――ロシア側はそう記録していました。

初対面から、聖謨のことを「切れ者の外交官だ」と認識していたのです。

このときロシア側には、文才に富み、小説を執筆したこともあるゴンチャロフがいました。

イワン・ゴンチャロフ/wikipediaより引用

彼は持ち前の筆力を用いて、川路聖謨を絶賛しています。

「川路の人柄は素晴らしい。聡明で、語句ははっきりとしており、論理は明瞭。

ありとあらゆる言葉、主張、風采や態度までもが、彼の理解力、眼力、直感がいかに老成しているか示している!

極めて正直で、微笑みを浮かべ、目は鋭い。厳しく話していたと思うとふっと笑う。」

ロシア側は皆、川路聖謨のことを好きになってしまったのです。

実際、彼はユーモアに富んでいました。こんな情報が聖謨の耳に入ります。

「異人とは、残してきた妻を思い恋しがっているという。妻のことを話すと泣いて喜ぶ」

これをふまえ、こう語るのです。

「我が妻さとは、江戸でも一二を争う美女でして。その妻を思うと寂しくて仕方ありません。いやあ、身はこちらでも、心だけでも江戸にあるようなものでしてね」

教養のある者であれば妻のことを「愚妻」や「荊妻」と呼ぶ。その辺の町人ならば「カカア」と呼ぶ。

それが当然であった幕末の日本人でありながら、これほどまでに柔軟にのろけてみせるのです。

聖謨の妻が美女であるという噂は、ロシア人の口からあっという間に長崎に広まったとか。

ロシア側はこの褐色の目をした外交官の姿を残したいと思い、こう持ちかけました。

「あなたは素晴らしい方だ。肖像画をぜひとも残させていただきたい」

すると聖謨はこう返したのです。

「いやあ、私みたいな醜男が日本人代表だと思われたら困りますよ」

聖謨は何もユーモアセンスと洒脱さだけがあったのではありません。誠実さと人道主義を示しています。

彼からすれば、ロシア人は夷狄ではない。プチャーチンは豪傑だと日記に記しています。人と人が、偏見なく話しあう姿勢がありました。

プチャーチン/wikipediaより引用

といっても、北方領土問題では油断せずに交渉すべく、気を引き締めています。

交渉の最中、安政の大地震で、下田沖のロシア艦・ディアナ号が津波に遭い破壊されてしまいます。

これには徳川斉昭が天罰だと大興奮。斉昭は阿部正弘にこんな恐ろしい主張をしていました。

「上陸したロシア人を皆殺しにすれば解決ではないか!」

「いや、それは流石に……」

そう却下されておりますが……ともかく、沈没船に代わる新船の建造に際して聖謨は極めて丁寧な応対をし、人道的でありました。ロシアの使節側は、誠心誠意に感動。

安政2年(1855年)、伊豆下田において締結された日露和親条約とは、そんな交渉の末に結ばれたものでした。

この日本とロシアの交渉が記録に残されているのは、川路聖謨が几帳面であり、筆まめであったこともあります。魅力的な人柄は、彼がともかく記録する性格であればこそ残されていたのです。

興味深い例として、アメリカ商船に乗っていた若妻への見方もあります。

白い肌、蜂のようにくびれた腰、花びらのような唇……むむむ、これは美女である! そんな率直な当時の人々の見解がわかります。コルセットで締め付けたウェストは驚異的なものであったようです。

来日外国人は日本人女性の涼しげな目元にポーッとなったそうですが、日本人側も来日外国人女性にドキドキしていました。

こうした状況が今も蘇ってくるのは、聖謨の記録のおかげ。

岩瀬忠震と並ぶ魅力的な外交官たちが、幕末にはいたのです。

『逆賊の幕臣』主人公である小栗忠順は、川路聖謨とは異なるタイプ。

解決へ最短距離で到達することを重視し、穏やかなコミュニケーションを図るタイプとは異なります。対比を楽しみにしておきましょう。

岩瀬忠震/wikipediaより引用

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変転する世、将軍継嗣問題に巻き込まれ

川路聖謨は時代の激動に巻き込まれてゆきます。

吉田松陰の密航未遂。

『海国図志』のような書物の出版。

海軍創設、講武所創設、種痘所開所に始まり、相次ぐ天災、疫病の発生。

ハリスの応対――このハリスとの交渉は、外国奉行である弟・井上清直とともにあたりました。

徳川斉昭は、まさに馬鹿の一つ覚えで「上陸したハリスを殺したらどうか」と提案してきます。

聖謨はこう返しました。

「それはできかねます。何か他の案は?」

「なら勝手にせい!」

「はい、勝手にします」

こんなにやたらと殺人願望を口にする、しかも幕政重鎮となれば斉昭くらいしかいませんが、聖謨の対応は、実に手慣れたもの。

幕府は無策どころか、めまぐるしくフル回転で対応に追われています。

まさに猫の手でも借りたい状況の最中、将軍の世継ぎ問題で政治的闘争が引き起こされます。

その嵐の中心にいたのが、またもや徳川斉昭でした。十三代将軍・徳川家定の世継ぎとして、斉昭が徳川慶喜を推してきたのです。

徳川家定/wikipediaより引用

川路聖謨も、この騒動に巻き込まれます。

聖謨はその人柄もあり、交友関係は広かった。渡辺崋山、江川英龍、間宮林蔵、藤田東湖……と、時代の先端を担う知識人と交流がありました。

かねてより東湖から「慶喜は英邁である」と聞かされていた聖謨は、関心と期待を寄せ、好意を抱いていたのです。

そんな慶喜を支えるべく、聖謨は一計を講じます。

平岡円四郎を一橋家の小姓として推挙したのです。ぶっきらぼうさが気に入られたという逸話がクローズアップされがちですが、人脈や政治的な意図も背景にはあります。

この円四郎の実父・岡本花亭は聖謨の友人でした。岡本家の四男坊として生まれ、平岡家に養子入りしていた円四郎の優秀さを認め、側に置いたのです。

円四郎から慶喜の人となりを聞かされ、聖謨が支持してもおかしくはありません。

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同じく一橋派の才人である橋本左内とも交流しています。

あまりに鋭い弁舌にはじめこそ戸惑ったものの、やがて意見が一致。

そんな一橋派の面々は、果たして嵐の中心にいた斉昭がどれほど危険であるか、認識できていたのかどうか……。

ブレーンであった藤田東湖の死後、斉昭は執拗な熱狂性が増してゆき、一方で斉昭以下、水戸藩士はタガが外れてゆきます。

水戸藩は、とてつもない思想を幕末の世に振りまきました。

尊王攘夷を掲げた水戸学です。

『青天を衝け』では栄一ら主人公周辺の青年たちが、ともかく幕府は悪いから倒すべきだと熱くなる姿がありました。

彼らが尊王攘夷を掲げて外国人を殺傷すれば、ますます事態は悪化するばかり。

聖謨も、尊王攘夷思想に振り回されてしまいます。

堀田正睦と上洛して、朝廷に条約の意図を説明しても、相手にはまるで通じない。

堀田正睦/wikipediaより引用

内陸部の京都で、政治からも外交からも遠ざかっていた朝廷ですから、状況の把握ができるわけもありません。

そんな彼らであるのに、なまじ尊王攘夷思想が荒れ狂っているからには、無下にも扱えない。

不吉な兆候が生じていました。

 

倒幕→徳川幕府の斜陽

川路聖謨を含めた堀田一行が江戸に戻ると、井伊直弼が大老に就任していました。

井伊直弼は将軍継嗣問題に大鉈をふるい、関係者を処罰します。

安政の大獄】です。

井伊直弼/wikipediaより引用

聖謨もここに連座し、職を追われます。

蟄居しながら世の動乱を耳にしつつ、子孫の行く末を見守る日々が訪れました。

文久3年(1863年)に【生麦事件】が発生すると外国奉行に任じられるも、老齢のため僅か数ヶ月で職を辞するのです。

彼ほどの人物でも寄る年波には勝てぬと思いたいところですが、原因は加齢だけでもありません。

63歳にして隠居した後、その日課は超人的でした。

漢籍を読む。馬術、槍術、棒術、居合、甲冑を着て歩く。詩歌を嗜む。

そうして身体鍛錬を欠かさぬ江戸の聖謨のもとに、世間の不穏な時勢について耳に入ってきます。

円四郎暗殺、天狗党の乱禁門の変……しかし、聖謨は病床からそうした知らせを聞き、もはや嘆息するしかできないのです。

元治元年(1864年)8月、槍の稽古をしている際に中風で倒れ、半身不随となってしまいます。

失意の川路聖謨を慰めるニュースは、孫・太郎の海外留学ぐらい。

幕府権威の低下は治安を悪化させ、聖謨も万が一に備えて護衛用のピストルを購入しました。

 

ピストルで喉を撃ち抜き

慶応3年(1867年)。

この年は川路聖謨にとって、いよいよ最期の崩壊を迎える辛い月日の始まりでした。

三度目の中風の発作が起き、ますます体調が悪化。年末には弟の井上信濃守清直を亡くします。

外国奉行を務めたこの弟は、ハリスの応接に当たった名外交官でした。清直は治安悪化する江戸の対応にあたり、寒い中激務をこなしたために風邪で寝込み、命を落としたのです。

あけて慶応4年(1868年)――。

鳥羽・伏見の戦い】で幕府軍が敗走した知らせが届きます。

かつて聖謨が期待を寄せていた慶喜は、味方を見捨てるように軍艦で江戸に逃げ帰ったのです。

幕臣、そして江戸の民は慶喜の不甲斐なさに呆れ返りました。

徳川慶喜/wikipediaより引用

そんな中、聖謨は「死」を意識するようになります。

もはや七十に近く、何もできない。

自虐的な思いと悲痛は、慶喜の逃走により頂点に達していました。二月に入ると聖謨は「頑民斎」と号しています。

頑固な民――そう名乗る心境はいかばかりか。

幕府への忠節と絶望が交錯する中、聖謨は『述懐』と題した詩歌を揮毫し、友人知人に贈り始めたのでした。

それはまるで、身辺整理をするような行為――そして江戸城攻撃の日、川路聖謨は武士として腹を切ると、ピストルで喉を撃ち抜き、命を絶ったのでした。

天津神に背くよかり蕨つみ飢えにし人の昔思へは

これが残されていた川路の辞世です。自らを伯夷叔斉になぞらえた悲しい句でした。

妻・さとが銃声を聞きつけ駆けつけ目にしたのは、右手にピストルを握りしめ、鮮血に染まった夫の姿。

愛する夫の後を追いたい。

さとはそう思い詰めるものの、異国で学ぶ太郎を思い、踏みとどまります。

そして淡々と、愛する夫を失った悲しみを日記に描き続けたのでした。

 

忘れられた名外交官とその思い

川路聖謨の凄絶な死は、武士として幕府に殉じたものとみなせます。

少し長くなりますが『述懐』を引用してみましょう。

述懐

生替わり死にかわり来て幾度も

身を致さなん君の御為に

二荒山神(ふたらやまかみ)もあわれと見そなわせ

露の此の身もつくす真心

病床に平臥して既に四年

七旬の衰日に潜然たり

君恩山岳 毫(すこし)も報じ難し

徒(いたず)に茲(こ)の身を致して九天に帰す

廟謀を嗟嘆(さたん)するも禁ずべくも無し

朝昏泣血の七十翁

児孫国の為に身を以て殉じ

汗に愧(は)じず寸忠を尽くせ

慶応四年二月 川路頑民斎聖謨

慶喜が逃げ帰り、世間の嘲笑の的となり、福沢諭吉を歯ぎしりさせた。

そうした不甲斐なさと比べると、高潔な武士道を見せられたような気もします。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用

半身不随であり、もはや還暦を過ぎている。

生き延びたところで、何ができよう? どうせ生きてもたかが数年。そんな思いは感じられます。

前述した『述懐』末尾には、己を伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)になぞらえています。

敬斎を頑民斎と改めて、

天つ神に背くもよかり蕨つみ

飢えし昔の人をおもえ

伯夷・叔斉は、武王が紂王を放伐して天下を制した【殷周革命】を否定し、山に隠棲すると蕨等の山菜だけを食べ続け、餓死しました。

儒教で聖人とされるこの兄弟の心境は、後世さんざん議論されていました。

彼らは己の義を信じ、穏やかに死んでいったのか?

それとも憂悶と怒りのうちに死んだのか?

あえてこの故事を投げかけてきたことを踏まえると、川路聖謨の心境が見えてきます。

若くして即位した明治天皇を讃え、日本はこの新帝のもと新しき国になると書き残しています。

そんな達観と希望のみならず、薩摩への怒りと憎しみも綴られています。

やつらは裏切り、策謀により幕府を朝敵に貶めた。

なまじ将軍継嗣問題で共に慶喜を推していただけに、薩摩藩への憎しみは、ただならぬものがありました。

川路聖謨は樺太を含め、北方領土を守り抜くことを重視していました。

それを明治政府はどうしたか?

イギリスの介入を受け、樺太をロシアに引き渡してしまったのです。

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川路聖謨が奮闘した時代から150年以上を経ても、北方領土はまだ日本とロシアの間で、棘のように刺さったままです。

幕末を扱った作品にせよ、海外の脅威が出てくるタイミングは、ペリー来航が起点とされるものばかり。

幕府がいかにロシアとの外交に力を入れてきたか。

そこまで振り返って、その時の知恵を思い出してこそ、本当の意味での川路聖謨顕彰になるのではないか?

どうしてもそう考えてしまう。

今はただ2027年の大河ドラマ、小栗忠順が主役の『逆賊の幕臣』に期待を抱くばかりです。


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【参考文献】
川田貞夫『川路聖謨』(→amazon
中野好夫「川路聖謨」『ちくま日本文学全集55』(→amazon
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon
岩下哲典『徳川慶喜 その人と時代』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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