幕末・維新

最期はピストル自決した川路聖謨~知られざる有能な幕臣が残した『述懐』とは

慶応4年(1868年)3月15日――西軍による江戸城総攻撃が迫るその日、一人の年老いた幕臣が拳銃で命を絶ちました。

無血のうち開城と知らずに、彼は亡くなったのです。

江戸城無血開城とはいうものの、誰もが命を落とさなかったわけではありません。

上野戦争に散った彰義隊のみならず、この日、自ら徳川幕府に殉じた彼の名を川路聖謨(かわじとしあきら)といいます。

68歳という高齢で命を絶ったこの川路こそ、ペリー来航より前に迫っていたロシアと交渉した人物でもあり、非常に有能な幕臣として知られていました。

大河ドラマ『青天を衝け』では平田満さんが演じ、平岡円四郎徳川慶喜を引き合わせたことが重視される姿が見られました。

そんな彼が、史実においてはどんな感情を抱き、江戸幕府崩壊を見ていたのか?

川路聖謨の生涯と共に振り返ってみましょう。

 


豊後から江戸へ出、累進を重ねる

享和元年(1801年)――豊後国日田代官所にて、内藤吉兵衛に男子・八十吉、改名して弥吉が生まれました。

物心つくかつかないか、この三年後に母とともに彼は江戸に向かいます。

吉兵衛は代官所手代で終わるつもりはなかったのか、はたまた我が子を出世させたかったのか。一念発起して江戸まで家族を呼び寄せたのです。

江戸で一家は清貧の中穏やかに暮らしていました。

弥吉は聡明さを発揮し始めるようになります。そんな弥吉の聡明さに目をつけたのが、小普請組・川路三左衛門光房でした。

川路家は幕臣といえどもさしたる名門でもありません。それでも内藤家からすれば念願が叶うものでもある。川路家も熱心に頼み込んできましたから、話はまとまりました。

13歳で元服。『書経』由来の聖謨という諱を名乗り、ついに聖謨は幕府に出仕を果たしました。このとき聖謨は18歳でした。

聖謨には様々な才能と情熱がありました。

実の親、川路家の期待。

豊かな教養と諧謔のセンス。

猛烈な出世願望。

まさしく彼は嚢中の錐(きり)、幕臣の中でメキメキと才智を発揮します。

下級武士の出身でありながら初めて支配勘定出役に。それから累進を重ね、小普請奉行 (ぶぎょう)、奈良奉行、大坂町奉行を歴任するのです。

聖謨が歴任した土地には、彼の行政手腕を物語るものが残されております。

落語の『鹿政談』。この噺に登場する奈良奉行を三代目・桂米朝がは川路聖謨にしました。

落語に似合うユーモアセンス、軽妙さがある実在の人物として、聖謨はピッタリ! 米朝のセンスと聖謨の個性が重なる、素晴らしいアレンジといえます。

川路聖謨は日記を残しています。こんなにもお茶目で、ユーモアがあって、やさしい人がいたのかと思うと笑みが浮かぶような、素晴らしい記述があふれています。

結婚生活についてはなかなかうまくゆかず、四度目の結婚で理想の妻・やすとめぐりあった聖謨。

穏やかな人生を過ごしてきた彼ですが、もう一度考えたいことがあります。

 


ロシア南下に立ち向かう

川路聖謨が幕臣となった文政年間とは、1810年代末期にあたります。

ここで、世界史のことを考えてみましょう。

ロシアは内政を安定させたころから、東に目を向けるようになります。エカチェリーナ2世大黒屋光太夫の邂逅は、日本とロシアの関係性の象徴ともいえました。

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幕府はロシアの脅威を認識しており、五稜郭のような西洋型城郭を蝦夷地に建築しました。

さらに東北諸藩に蝦夷地および樺太警備を任せたものの、ロシアの脅威は一時期沈静化するのです。

19世紀初頭となるとロシアはある脅威に直面しておりました。

フランス革命と、そのあとに続くナポレオン戦争です。もはや西側からに脅威対処をせねばならず、日本のことは後回しとなりました。

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その脅威が去ると、ロシアは再度、日本に目を向けるようになります。ロシアから見て垂涎の的となるもの――それは不凍港です。

幕末の歴史の定番といえば、ペリーの黒船来航です。

もくもくと煙をあげてやってきた黒船を見て、江戸っ子たちはびっくり仰天!……これが正確なものかどうか、考えたいところではあります。

幕府は海外からの脅威を把握してはいました。

松前藩、東北諸藩はロシアからの脅威をひしひしと感じていました。

異国船の脅威を感じていたのは、西南の藩にとどまらず、松前藩やアイヌの人々もそうだったのです。

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ロシア交渉の糸口となる海防掛に

嘉永5年(1852年)、オランダ商館長・キュルシウスが翌年アメリカ艦隊が来航する旨を伝えてきました。

阿部正弘はこれを踏まえ、川路聖謨を海防掛に任命したのでした。

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果たしてペリー来航は現実となり、幕府は大騒ぎとなります。

のみならず、ペリーの一ヶ月後にはロシアからプチャーチン一行が軍艦に乗り、親書を携え来日したのです。

その応接として任命されたのが、勘定奉行であった川路聖謨でした。海防掛と兼任することとなったのです。

彼は知識人とはいえ、勝海舟福沢諭吉とは異なる思考の持ち主でした。

幼い頃から漢籍を教養として叩き込んできた彼は、その知識を元に理論を組み立てるのです。

聖謨はこう主張していました。

日本は開闢以来、四方を海で囲まれている。ゆえに中国のように国境を侵されたためしがない。しかし事態は変わった。ロシアがかくも南下を目指すからには、対策が必要である。

漢皇祖・劉邦のころには、夷狄と縁者となってまずは友好につとめた。それが武帝ともなれば、討伐している。

唐・太宗も、然り。

今、日本の武力は低い。だからこそ友好関係を結ぶ。そして国力を高め、そのときこそ、ロシアと堂々と対峙すべきである。そう外交方針を定めたのです。極めて現実的な答えでした。

そしてこの方針が間違っていなかったことは、歴史が証明しています。こうした問答からおよそ半世紀ののち、日本は日露戦争において薄氷の勝利をおさめたのです。

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ところが、この話がまるで通じない相手がいます。

徳川斉昭です。

将軍家に対抗心を燃やし、水戸学で理論武装した斉昭は、樺太にロシア人が上陸していることを厳しく問い詰めるべきだと幕府に迫ったのです。

こうした斉昭と、そこから広がる攘夷のガス抜きが幕府の課題となります。それでも聖謨と斉昭は、国を思う気持ちは同じということでひとまずは一致します。

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かくして聖謨は長崎へ向かうのでした。

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