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吉田松陰/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

吉田松陰30年の生涯をスッキリ解説!長州・萩の天才児が処刑された真の理由は?

更新日:

吉田松陰について、どんなイメージをお持ちでしょう?

松下村塾とキレッキレの生徒たち。理不尽な処刑をされ、幕末の志士たちに神のごとく崇敬される――漠然とそんな印象をお持ちかもしれません。

実際「吉田松陰」で検索をかけますと、候補検索でトップに上がってくるのが
【吉田松陰 名言】
です。
今なお彼に学びたい――そんな現代人の姿勢が見受けられます。

しかし名言とは、必ずしもその本人の人となりを説明するものとは限らないもので。
実際の松陰はどんな人物だったのか?

熱血指導者という反面、危険思想の持ち主だった――なんてことも囁かれたりしますが、結論から言うと、ある意味どちらも正解です。

彼は、多くの弟子から慕われ、精神的支柱となった。
その一方で、「安政の大獄」では【老中の暗殺未遂】という危険すぎる計画を自らバラして、結果、処刑されてしまいます。

振り幅が広いのか。
それとも二面性の為せる業なのか。

吉田松陰の人物像に迫ってみましょう。

 

天保元年 杉家に誕生する

吉田松陰は天保元年(1830年)、長門国の萩で生まれました。

父は、長州藩士・杉百合之助常道で、母は滝。
元は、家禄26石の杉家二男であり、その妹には久坂玄瑞に嫁いだ杉文(すぎ ふみ)がおりました。大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公ですのでご存知の方もおられるでしょう。

松陰は5才の時、叔父・吉田大助賢良の仮養子となり、翌年、大助の死によって吉田家を継ぐことになります。
叔父の大助とは、山鹿流兵学師範として毛利家に仕えた藩士でした。

家督を継いだ吉田家は、杉家よりも収入が多く家禄は57石6斗。
松陰はそのまま杉家に暮らしましたが、そこはなかなか大所帯でもありまして。

父:百合之助
母:滝
長男:梅太郎
二男:寅次郎(吉田松陰)
長女:千代(児玉祐之の妻、改名して芳子)
二女:寿(楫取素彦最初の妻)
三女:艶(夭折したため、文を三女とする場合も)
四女:文(久坂玄瑞の妻、のちに楫取素彦2番目の妻・美和子)
三男:敏三郎

杉家は貧しい武家のため自給自足で畑を耕やさねばならず、松陰も農作業に従事しながら『四書五経』を暗唱していたと伝わります。
父・百合之助が生真面目な人で、一方、母・滝は明るく冗談が好きな性格でした。

 

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叔父・玉木文之進による厳しい教育

松陰といえば、やはり幕末長州藩の思想をリードした強烈なキャラクターでしょう。
いわば日本全体に影響を与えた、そのエネルギーはどこから来たものなのか。

生真面目な父と、明るい母からの由来ではなく、彼の教育を担当した叔父・玉木文之進による猛烈な教育ではないか?と思われます。

叔父・吉田大助が没した時、松陰は兵学師範の家を継がねばならない運命が決まりました。

そこで
「お前は兵学師範として、恥じん学問を身につけにゃあならん」
と考えた玉木が、まだ5才の甥に学問を叩き込むことにしたのです。

5才と言えば、まだまだ就学には早い年齢であり、いくら江戸時代といえども初歩的な教育を受ける程度の頃。
同年代の子供なら凧揚げや竹馬に興じているときに、玉木はビシバシと容赦なく、恐ろしいほどのスパルタ教育を行ったのです。

松陰の少年時代は、5才にして終わりました。
その日から、彼に許されたのは漢書を読むか、何かを書くか。

あるとき、松陰は勉強中、頰に虫が止まったため払いのけました。
すると玉木は血相を変えて折檻したのです。

「虫が止まって痒いというのは“私”の感情であり、学問は“公”のものじゃ。公私混同をするな。許せば長じて世の中に出た時に、私利私欲を図る者になる!」

教育方針はさておき、その方法は子供には極めて厳しいもの。
それが吉と出たのでしょうか。
成長してからの松陰は、小さなルールよりも大きな利益を気にする人物となりました。

 

明倫館へ通う しかし生徒ではなく……

天保9年(1838年)、こうした相当厳しい教育の成果が実り、まだ寅次郎と呼ばれていた彼は、なんと9才にして「明倫館」に出仕することになります。

驚くことに、生徒として何かを習うためではありません。
彼は山鹿流兵学の教授見習いとして藩校に出向き、翌年には、叔父の後見のもと教授になるのです。

明倫館の跡地に建つ明倫小学校

天保11年(1840年)のこと。
第13代藩主・毛利敬親は、11才の松陰が『武教全書』の講義を行っているところを見て、驚きを隠せませんでした。

「そなたの師は誰だ?」
「玉木文之進であります」

敬親はこのあと、しばしば松陰を講義に呼びつけました。
神童の成長を見守りながら、微笑む様が目に浮かぶようではありませんか。

長州藩といえば、松下村塾の麒麟児・高杉晋作と久坂玄瑞が龍虎として知られ、その才覚を松陰に認められていたことは有名ですが、やはり師匠の方が何枚も上手だったようです。

ただ……。
裃をつけて講義を行う少年時代の松陰を想像すると、現代人の勝手な感覚ながら、痛々しい思いも抱いてしまいます。

日本産の厳しい幼年期教育といえば薩摩藩の「郷中教育」や会津藩の「什」による教育があります。あれは同年代の子供同士で、じゃれあい遊びながら、社会性を徐々に身につけるものです。
厳しい内容であっても、仲間と競い合い、のびのびと楽しむこともできました。

【参考記事】郷中教育が西郷や大久保ら薩摩藩士を育てた!「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ!」

カリキュラムは、あくまで子供向け。
薩摩藩の「日新公いろは歌」にせよ、会津藩の「什の掟」にせよ、子供向けのやさしい内容から、集団生活のルールや、基本的な道徳を教えるものです。

 

それと比較すると、松陰の受けた教育は、どう見たって特異なものでしょう。

時にエキセントリックな松陰の性格。
バランスを欠いたような塾生との距離感。

独自する歩みが彼の性格に影響を与えた可能性は否めないハズです。

 

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萩の外を見たい

天保14年(1843年)は、杉家にとって嬉しい年であったことでしょう。

杉家にとって四女となる文が誕生。
父の百合之助は「百人中間頭兼盗賊改方」という、治安維持担当、今でいうところの警察署長となったのです。

貧しい同家に、ようやく経済的な余裕が生まれ、下女を雇うことすらできるようになったのです。

生活レベルに余裕が出来るようになってから数年経た、嘉永3年(1850年)。
19才になった松陰は、九州遊学を思い立ちます。外国との玄関口・長崎があったからです。

シーボルト来日時の長崎出島(異国叢書より)/国立国会図書館蔵

萩しか知らなかった松陰は、このとき世界の大きさを痛感します。

阿片戦争から8年後。
列強の脅威をひしひしと感じ、強い危機感を抱きました。

よくフィクション作品では、松陰のような若者が危機感を抱く一方、幕府は能天気であったという描写をされます。
残念ながらそれは間違いです。
むしろ、幕府は国際情勢を徹底的に分析し、結論に至っていました。

「今、異国の船が来たら、開国でしか対応できない。武力による追い払いを検討する時期は、既に過ぎている」

幕府は水面下で英語通訳を養成して準備を整えながら、できる限りXデーが遠くなることを祈るような状態でした。

これは例えば薩摩藩主・島津斉興もそうでして。
異国との接点が多い薩摩では、外国船の強靭さ、そしてそれを支える経済力などに通じており、自らの経済的限界点を知っているがゆえに武備は無駄だと考えました。

息子の島津斉彬にしても明治維新後の富国強兵に似た志向を持っていながら、父・斉興と知識はさほど変わらずの知見でした。

しかし、当時はなかなかそこまで知るに至りません。

そのため、
「なんで国難が迫っているのにボケッとしているんだ!」
と、イライラしてしまうわけです。それが無謀な攘夷派へと繋がるのですね。

 

記念すべき初「猛挙」は脱藩だった

長崎で外国を知った青年松陰は、その胸にカッと炎をを燃やしました。

「こねえな大変な時代だ。ぼくは様々な場所を訪れ、見聞を広めたい。この国のために何ができるのか、考えにゃあいけんのじゃ!」

思い立った松陰は、嘉永4年(1851年)に江戸で遊学。
しかし、考えていたような指導は受けられず、物足りなさを感じてしまいます。

そんな中、日本をしばしば来航するロシアの存在を知った松陰は、東北旅行をしてみたいと熱望します。

あまり着目されませんが、当時、日本には何度も異国船が来ていました。
危険度ランキングは、ザッとこんな感じでしょう。

S:イギリス フェートン号事件、宝島事件を行った。阿片戦争後に日本を狙う可能性があり、極めて危険。最も警戒すべきである
A:ロシア 度々通商を求めて来航してくる
B:アメリカ たまに来航するが、目的は漂流者の返還等であり、さしたる敵意は感じない
F:オランダ オランダとは長い付き合いのある、信頼と安心の交易国。ただし、情報の漏洩等には注意を要さねばならない

松陰は早速、東北旅行をしようとして、熊本藩士・宮部鼎蔵に誘いをかけます。

しかし、ここでトラブルが発生するのです。

 

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藩主・敬親もホトホト困り果てながら

当時、藩では通行許可証、つまりパスポートのような「過書」という書類を発行しておりまして。
これを持ち歩かずに旅行をするのは、脱藩行為とみなされても仕方ないものでした。

江戸の松陰は、この「過書」発行を依頼するのですが……。
「発行を待っちょったら、宮部君との約束に間に合わんじゃないか!」
と、「過書」を持たずに旅行に出立します。

「宮部君、すまんが発行があるけぇちいと延期できんじゃろうか」
「宮部君、すまんが先に出立してくれ」
という選択肢があるにもかかわらず出発してしまう。

このあたり非常に不可解なのですが、私なりに考えてみますと……。

「“過書”という手続きは、所詮藩なり幕府の都合じゃ。自分は見聞を深めて、日本をよりようするために旅に出るんじゃ。日本>>>>>藩or幕府じゃ!」
なんてあたりかなあ、と思ったりします。
まぁ、松陰という人物は、常識で考えてしまうとワケがわからなくなってしまうのですが。

ともかく、動機はどうあれ、あまりにカジュアルに脱藩してしまった松陰。
藩主の敬親も、これにはホトホト困ったようです。

毛利敬親/Wikipediaより引用

部下の言うことに対して何でも「そうせい、そうせい」とGOサインを出すがゆえに「そうせい侯」なんてアダ名もある敬親ですが、松陰への甘さを見ていると、幼い頃から成長を見守ってきたという思いがあるのかもしれません。

現代でも、ジュニア時代から応援してきたアスリートや、子役から見てきた俳優を見て、
「おっ、泣き虫だったこの選手が、こんなに立派になっちゃって」
なんて思ったりしますよね。そういう気持ちがあるのかもしれません。

なにせ長州藩における藩主と松下村塾出身藩士の関係は、なかなか独特というか、甘さを感じます。
薩摩藩の島津久光が、精忠組出身者をコントロール下に置こうとしたものとは対称的。
どちらがよいのか、悪いものか、一概には言えませんが。

敬親としても、いくらなんでも松陰だけお目こぼしするわけにもいけません。
家禄を没収し、父親の監視下における「育(はぐくみ)」という処分を受けました。
しかも10年間は遊歴してもいいよ、見聞を広めておいで、と許可を与えてくれたのです。海よりも深い優しさじゃないですか。

ちなみに「松陰」とは号なのですが、彼にはもうひとつ号があります。
それは、
「二十一回猛士」
です。

どういう意味かというと、
「二十一回猛挙(すごい行為、ルール違反、破天荒なこと)を行う」
というものです。

その記念すべき初猛挙が、この脱藩。
やはり常人には計り知れない人物ですね。

毛利敬親(慶親)とは? 激動の幕末で「そうせい候」と揶揄された生き様

 

黒船来航と、さらなる「猛挙」

嘉永6年(1854年)、黒船が来航します。
当時、江戸遊学中だった松陰は、当然ながらショックを受けます。

ペリー来航/wikipediaより引用

そして浪人という立場ながら、
『将及私言』
『急務状議』
という意見書を藩に提出したのです。
中身は、幕府批判。攘夷しろ(=外国船を武力で打ち払え)という内容でした。

取り次ぎを願った者の配慮で、匿名で差しだされましたが、すぐに松陰の仕業だと判明。
「浪人の分際でけしからん奴じゃ!」

藩内から批判された松陰は、江戸の藩邸に出入り禁止とされてしまいます。
これが二度目の「猛挙」です。

松陰が一生懸命なのはよくわかります。
しかし、このあたりの話は、すでに幕府で何度も揉まれて終わったもの。
トップクラスの閣僚で議論を重ね、国際情勢やオランダ人の助言を分析、無謀な攘夷こそが国を危険に導くという結論だったのです。

萩から出てきた若年の松陰と、閣僚や西洋の知識がある幕僚の集団では、差があるのは当然といえましょう。

 

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ポータハン号に「どうか連れて行きなさんせ!」

一方そのころ、松陰の師匠である佐久間象山はある計画を練っていました。

佐久間象山/wikipediaより引用

これからの時代、西洋について学ばねばならない。
そのためには留学生を派遣したが、許可が下りない。
そうだ、弟子の吉田松陰を密航させよう――というものです。

松陰は江戸を発つと、長崎に停泊中のロシア艦を目指しました。
しかし時既に遅く、出立したあと。

仕方なく宮部鼎蔵と共にペリーを暗殺計画を練ったものの断念。
それが可能であったかはさておき、もしも成功したら日米関係は最悪の方向に進んだ可能性があります。

そして安政元年(1854年)。
松陰は長州藩の下級武士である金子重之助とともに、小舟に乗ってポーハタン号へと近づきました。

1854年にペリーが再訪したときにやってきたポータハン号/wikipediaより引用

「あんたたちの国で学びたい、どうか連れて行きなさんせ!」

熱意を込めて語るものの、アメリカ側に断られてしまいます。
しかし、松陰ら二人の熱意と知識欲に対し、彼らも大いに感銘を受けたのでした。

望みを断たれて戻った松陰らは、北町奉行で取り調べを受け、伝馬町の牢獄に送られてしまうのです。
これが、三度目の「猛挙」。

このとき、松陰はこう詠んでいます。

かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂
【意訳】こねえなんをすりゃあ、こねえな結果になると知ってはいるのだが、ぼくの大和魂は止められんのじゃ

 

野山獄から「松下村塾」へ

松陰は、連坐して捕縛された佐久間象山と共に、自藩幽閉の処分となり萩へ移され、野山獄に収容されます。

安政元年(1855年)11月からの獄中生活では、読書と思索に没頭。
入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会が組織されました。

このときの『孟子』講義をもとに、主著『講孟余話』が生まれたのです。
講義を通して獄内の風紀は向上し、藩側としてはこのことに驚きました。約一年に及ぶ獄囚生活は、決して無駄にはなりませんでした。

藩は松陰の才能を認め、安政2年(1856年)末、病気保養を理由として、実家の杉家に戻すことにします。

松陰は自宅の狭い一室に閉じこもり、ここでおとなしく自学自習に励もうとしました。
そこへ父と兄がやって来ます。

「お前が獄中で行った『孟子』の講義録を読んだ。たいしたもんじゃ。これを完成させんのは惜しい。どうだ、自宅でも講義を続けてみんか?」

二人はそう言って、松陰に『孟子』の講義を委託。
吉田松陰による「松下村塾」が始まりました

松下村塾

以後、幕命により江戸に召喚されるまでの2年半、松陰は実質的な主宰者として後輩の育成指導に当たります。

ここで注意したいのは、松下村塾を始めたのは彼ではない、ということでしょう。
創始者は玉木文之進です。

「あれっ?」と思った方、おりませんか。
もっと長期間じゃないの? そんなに短いの? という印象ですよね。

実は、松陰の弟子たちはそれだけの短期間しか、指導を受けていないのです。

確かに彼は教育者でありますし、現在においてもその部分が大きくクローズアップされます。
が、実際には遊学、活動家としての歳月の方が長いのでした。

 

気鋭の「松下村塾」若者たち

松陰の主宰する「松下村塾」には、続々と優秀な若者が集まり始めました。

神童の誉れ高く、元は「明倫館」の教授です。
しかも、アメリカ船相手に密航を失敗した松陰は、萩ではちょっとした有名人であったのでしょう。

これが錚々たるメンバーでして。

・高杉晋作
・久坂玄瑞
吉田稔麿
・入江杉蔵
・野村靖
・久保清太郎
・前原一誠
・伊藤博文

「松下村塾」は、表向き『孟子』を講義する漢学塾ですが、この時勢で昔ながらの学問だけでは追いつけません。

そこで、国の行く末に危機感を抱く、松陰自身の強い実学指向のもと、当時の世界情勢や国の実情について考え、討論する、熱血トークが特徴の場でした。

そういう意味では政治結社的な部分もあったわけです。
薩摩で言えば、大久保利通が主導した精忠組が近い存在でしょうか。

「松下村塾」の指導は、もはや伝説的とも言えます。

塾生たちも、松陰のひたむきさに感銘を受けるばかりでした。

手を洗っても拭くのは服の袖。
髪を結うのは二ヶ月に一度。
学問の情熱に賭けていて、眠気が襲えば夏ならば袖まくりして蚊に刺され、冬ならば裸足で庭に降りて走りました。

口調は激しく言葉が激烈なものの、仕草は優しく、ある時は塾生を驚かせ、ある時は塾生を大いに笑わせました。

エピソードにも事欠きません。

・自分に論戦を挑んできた久坂を諭し、入門させた話
・龍虎と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞を競わせ、互いに切磋琢磨させたこと
・松陰が喫煙をたしなめたところ、塾生が次から次へと煙管をヘシ折り、山になったという話
・「毒のある河豚を食べること」の可否について論じた話
・身分を問わず広く門戸を開いたこと……

ただし、身分についての話には注意が必要です。
確かに士分以外も塾生はいましたが、割合としては2割以下。8割以上が士分です。

松陰はじめ、弟子である高杉や久坂も、武士階級こそが民を率いて国難に立ち向かうべき、という考え型でした。
奇兵隊」には武士階級以外も参加していますが、人数不足を補うためであり、平等思想に基づくものではありません。

未来を憂い、国を率いる士分の若者を育てる場。
それが「松下村塾」でした。

 

安政5年、政治改革への期待感と挫折

前述の通り、松陰の目指した目標は「二十一回猛士」です。

人生で「二十一回の猛挙(すごい行為、ルール違反、破天荒なこと)」を行うこと。
そんな過激な師の言動に、次第に塾生たちも困惑するようになりました。

安政5年(1858年)、幕府はとんでもない失策を犯しました。
日米修好通商条約」の勅許を得るため調停工作を行い、失敗していたのです。

尊王攘夷派と呼ばれる人々は、幕府の要求が突っぱねられたことに快哉を叫びました。
彼らはこの揉め事が、どういう結果をもたらすのか。
おそらく理解していなかったことでしょう。

勅許を得ることに失敗した老中・堀田正睦は失脚。
代わって幕府の大老・井伊直弼が権勢を握ります。

井伊直弼/Wikipediaより引用

彼はこの困難な難局を乗りきるため、剛腕を発揮します。

まず許せなかったのは、勅許工作の間隙をぬって水戸藩に下された「戊午の密勅」です。
内容は倒幕をそそのかすものであり、井伊とすれば見逃せるワケがありません。

その背後に、一橋慶喜を推していた「一橋派」の暗躍があると睨んだ井伊は、ただですまそうとは思っていません。
一橋派を退け、徳川慶福(のちの徳川家茂)を将軍後継者に指名。
勅許を得ずに開国へと踏み切ります。

こうした政治の動きに、松陰は絶望してしまいます。
彼は開国に反対し、一橋派こそ、幕政を改革する正義の一派であると確信していたのです。

思い詰めた松陰は、だんだんと過激な言動を行うようになります。
周囲の者は、そんな松陰に困惑する他ありませんでした。

 

老中暗殺計画

そんな激動の年の11月。
松陰の耳に、ある噂が飛び込んで来ました。

水戸藩・薩摩藩・越前藩・尾張藩の有志が、井伊直弼暗殺計画を練っているというのです。
この後、井伊が水戸藩・薩摩藩の刺客により殺害されることを考えると、ある程度までは本当の計画です。ただし、越前藩と尾張藩まで加わっていたかどうかは不明。

いずれにせよ松陰は、居ても立ってもいられなくなりました。

当時、井伊と「井伊の赤鬼、間部の青鬼」と並び称されていたのが、老中・間部詮勝。
京都方面で、弾圧の指揮を執っていたこの間部を暗殺しようと考えたのです。

晩年の間部詮勝/wikipediaより引用

「ぼくらが勤王の一番槍とならにゃあならん! 有志が井伊の赤鬼を狙うなら、ぼくらは青鬼じゃ!」

松陰は檄を飛ばし、門下生17名の血盟を得ます。

そして、藩の重役・周布政之介(すふ まさのすけ)に願書案分(要するに暗殺計画書)を提出。
別の重役の前田孫右衛門には、鉄砲を貸して欲しいと頼み込みました。

さらに門下生には、軍資金の調達、一命を捨ててもよい人(少年でもいいとのこと)、武器の扱いに長けた人を集めるよう依頼を出しております。

藩の上層部に、暗殺協力依頼を出すあたりちょっと理解しにくいですよね……。
でも、これが松陰のやり方なのです。
暗殺でも、コソコソとやるのは気に入らない、公明正大でならなければと考えるわけです。

藩上層部も、これには困り果てました。

仕方なく
「学術不純にして人心を動揺す(不純な動機で学問をしていて、人々に悪影響を及ぼす)」
という理由で、自宅「厳囚」処分を命じます。

それでも塾生が押しかけて危険なため、藩は野山獄に投獄することになったのでした。

とはいえこれも相当甘い処分でして。
島津久光あたりなら、もっと厳しい処分を下しそうな気もします。

 

困惑する塾生たち

松陰の暴走に困惑し、政治への介入を煙たがったのは、なにも藩上層部だけではありません。

危険を察知して音信不通となる者。
計画を諫める者。

塾生でも龍虎と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞が止めに入りました。

「天皇陛下が新将軍を承認したんじゃし、このままでは殿に迷惑をかけてしまう。【義旗一挙】は時期が悪い。気持ちはわかるけど、自重しなさんせ」

桂小五郎(のちの木戸孝允)は、松陰の叔父・玉木と兄・梅太郎の了承を得た上で、友人と絶縁させています。
色々語り合うと結局は煮詰まって熱くなりそうですから、クールダウンさせたのでしょう。

しかし、これが逆効果でした。

「桂は無二の親友じゃと思うちょったのに、失望した。がっかりだ。皆、ぼくと意見が違う。ぼくは忠義を成し遂げたいのに、他の奴らは功業を成し遂げたいんじゃ!」
松陰は正義に酔いしれ、「落ち着け」と宥める周囲の声をシャットアウトしてしまいます。

気に入っていた吉田稔麿(当時は栄太郎)のことを「かつての魂を失った」と嘆いたばかりでなく……。

「栄太郎の心はもう死んでしもうたんじゃ。人としてこれほど惨めなこたぁない……」
そう語り、塾内で香を焚き、「死んでしまった栄太郎の心」を悼むというパフォーマンスをしました。

周囲も困惑し、もはや手の施しようがありません。

ただ、流石にやり過ぎたと思ったのか、2日後には撤回謝罪する書状を吉田に送っています。
吉田稔麿は、松陰から贈られた書物を返すという形で、返事をしました。
師弟関係を解消して欲しい、ということです。

「ぼくはもう血涙を止められん、こねえなんは受け取れん! きみがぼくを絶交してもええけど、ぼくからきみを絶交するこたぁできん!」
と、松陰は受け取り拒否します。
師弟は大変な状況に陥ったのでした。

 

フレイヘイドじゃ! 草莽崛起じゃ!

野山獄で、松陰は書を読みあさりました。
その中の一冊がナポレオンについて記された『那波列翁伝初編』です。

ナポレオンに憧れ『那波列翁伝初編』を耽読した西郷隆盛や吉田松陰 元を辿れば頼山陽とは!?

松陰の心に残ったのは、「フレイヘイド」を掲げたナポレオンが、イタリアを解放する記述でした。

「フレイヘイド」とは、「自由」ということ。
自分と同じ一書生にすぎなかったナポレオンが「フレイヘイド」を掲げてイタリアを解放したように、自分もきっとそうできる――松陰はそう憧れていたのです。

悶々とした思いは、ナポレオンに思いを馳せることで、やわらぎました。

イタリア遠征、アルコレ橋上のナポレオン像/wikipediaより引用

かつて、師として草莽の志士を世に送り出したいと考えていた松陰。
しかし、そうして育てた弟子たちは、彼の教えから顔を背け、離れてゆきました。

「もう、このぼくが、草莽崛起の人となり、死ぬるしかないんじゃ」
松陰の心に、熱い思いが燃えさかっていました。

獄中で、松陰は「伏見要駕策」を考えます。
参勤交代で江戸に向かう藩主の駕籠を伏見で待ち受け、公卿である大原重明を擁して京都に乗り込み、勅を入手後に幕政改革を促すという壮大な目論見でした。

 

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

「安政の大獄」を推し進める幕府は、大勢の逮捕者を出していました。
その中には、吉田松陰の名もありました。

松陰にかけられた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだ うんぴん)との交際に関してのものと、幕府中傷文書の作成についてでした。
どちらも軽微なもので、幕府側も彼をそこまで重視してはおりません。

幕府にとってメインターゲットはあくまで「戊午の密勅」背後にいた水戸藩関係者、橋本左内ら一橋派の中で大きな役割を果たした者たちなのです。

長州藩は、手を焼いていた松陰のことを優しく遇しました。
護送には30名ほどが付き添い、食事も囚人用ではなく、番人用。
これには松陰も感動しています。

松陰は、江戸の長州藩上屋敷に入り、訊問を待ちます。
引き出された松陰は、拍子抜けしました。

「梅田雲浜とつきあいがあったようだな」
「幕府を盛んに中傷する文書の作者が、お前だという話があるが……」

嫌疑は、すぐに晴れました。
このままなら、松陰は再び萩の土を踏むことができたでしょう。

ところが訊問が進むうちに、取り調べ側もだんだんと驚きを隠せなくなっていきます。

松陰の供述の中に【間部詮勝暗殺計画】と【伏見要駕策】が見え始めたからです。

いずれも幕府にとっては言語道断の重罪。
「なんということだ……、こ、この、公儀を憚らぬ不届き者めが!」

かくして松陰は、伝馬町の牢獄に送られてしまうのです。

死刑が決まった時、さしもの松陰も茫然自失。
さらなる二度の取り調べを受け、斬首と決まりました。

安政6年10月27日(1859年11月21日)。
松陰は命を絶たれました。
享年30。

門下生に向けて残した『留魂録』の冒頭には、以下の辞世が記されていました。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
この身が武蔵野に朽ち果てても、その魂は残してゆく――。

門下生に、松陰の魂は残ります。
彼らはその志を実行に移すべく、幕末の動乱に身を投じることとなるのでした。

 

神格化される吉田松陰像

長州ファンには申し訳ありませんが、ここまで読むと
「松陰のどのへんが偉大なの?」
と感じてしまう人もおられるかもしれません。

確かに多くの若者を育成しました。
が、中途半端な時期で人生が終わったような印象を受けます。

実は今日私たちが知っている松陰像は、死後に弟子が神格化、伝説化したものです。
初めて取り組んだのは、松陰の妹を妻とした、つまりは義弟にあたる久坂玄瑞でした。

久坂玄瑞/wikipediaより引用

【関連記事】久坂玄瑞

さらには久坂が禁門の変に倒れ、しばらくして明治の世になると「松下村塾」出身者が政権トップに君臨します。

だから「松下村塾」が素晴らしかったのか?
それとも権力を手にした者が、自分の箔を付けるために吉田松陰を神格化したのか?

この点は冷静に考えねばならないでしょう。

文字通り、松陰は神となっています。

大正時代の松陰神社/wikipediaより引用

明治時代、松陰が神格化される中、皮肉にも松陰の実像はわかりにくくなってゆくのです。

明治26年(1893年)、徳富蘇峰が伝記『吉田松陰』を刊行し、その中で「革命家」と紹介しました。
フランス革命後出現したナポレオンを崇拝していましたし、確かにその評価は間違っていないでしょう。

ところが、
「松陰先生を革命家とみなすたぁ何事じゃ! こねえなけしからん本を発刊してはならん!」
と、有力な政府関係者から横やりが入り、潰れてしまいました。

松陰の研究は、しばしば権力の介入を受けているのです。

松陰の生き方をたどれば、当時の「国家」であった幕府の倒壊(あるいは改革)を目指し、藩にすら迷惑を掛けていた松陰。
しかし、そんな像を快く思わない人にとって、別の側面を与えられてゆきます。

教育者であり、忠君愛国の像。
『修身』の教科書にも取り入れられ、熱血青年としての像が国民の間に浸透してゆくのです。

このことは、決して遠い過去の話ではありません。
日本史の授業で吉田松陰について習った時、老中暗殺計画について聞かされたことがおありでしょうか。

例えば『日本人名大辞典』には、こんな風に記載されておりまして。

幽閉された生家に、安政4年松下村塾(もとは外叔父玉木文之進の家塾)をひらき、高杉晋作、伊藤博文らにおしえるが、安政の大獄で6年10月27日刑死した。

確かに安政の大獄で死刑に処されたとは記されております。

しかし、本来は自ら「幕府要人の暗殺計画」を漏らしたせいであり、そういったことに触れられないため、倒幕の立役者を育成して死刑になったという読み方が妥当になってしまいます。
漠然と、そう記憶していた方も多いでしょう。

果たして松陰はそれを望んだでしょうか。

過度に人のイメージを守ることが正しいのでしょうか?

松陰自身も、命がけで草莽崛起をして、その結果として老中暗殺にまで思い至ったはずです。
後世、都合が悪いからと、そこを消してしまうのは、かえって惨いことではないかと感じます。

かつて大英博物館は、古代ギリシャの大理石像を磨き、塗装をこそげとり、漂白しました。
当時のイギリス人はじめヨーロッパ人が、本来は極彩色に彩られていた古代ギリシア人のイメージを、真っ白いものと考えていたからです。

【参考書籍】『古代ギリシャのリアル』藤村シシン (著)

イギリス人の行動を聞いて
『なんと不遜な』
と思われる方の方が主流でありましょう。

吉田松陰の人生から、彼の過激な部分を消して検証することは、この像の漂白かに似ているのではないでしょうか。

無垢で都合のよいイメージを求めすぎて、本来あった姿や豊かな色彩、人間らしさを消失。
彼の行動はともかく、志は純粋で慕われるものであったはずです。

大切なのは、そのことではないでしょうか。




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文:小檜山青

【参考文献】
吉田松陰――久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」 (朝日新書)』一坂太郎
吉田稔麿 松陰の志を継いだ男 (角川選書)』一坂太郎
国史大辞典

 




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