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ハリー・パークス/Wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

ハリー・パークスの手腕がCOOL!激動の幕末維新で18年間も駐日英国公使を務めた実力

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大河ドラマ『西郷どん』を見ておりますと、
【列強からこの国を守らねばならない!】
なんてセリフが頻繁に出てきますよね。

列強とは、アメリカやイギリス、フランス、ロシアなどの諸外国。
彼らにより中国が無残に侵食されていく話を聞き、危機感を抱いた志士たちが倒幕を果たして日本を守る――そんなストーリーがアタマに浮かんでくるでしょう。

しかし、コトはそう単純でもありません。

例えば、幕末における列強は、本当に日本を植民地化したかったのでしょうか?

植民地化となれば当然、現地の反発もあって戦争に発展するリスクもあり、最終的には【儲かるかどうかの金勘定】まで算定せねばなりません。
日本のように(弱くても)武器を持ってる相手なら、さっさと貿易した方が早くありません?

そもそも薩英戦争を機に、急激に関係を親しくしたのは他ならぬ薩摩とイギリスです。
そこには植民地化への意図があるどころか、両者が手を取り合って権力闘争に打ち勝ったとも見れるわけです(幕府はフランスと組みましたね)。

そこで今回、注目したいのが、英国外交官のハリー・パークスです。

ヴィクトリア朝のイギリスに生まれ、はるばる地球の裏側まで渡ってくるような人物は優秀な方が多いものですが、ハリーもまさしくその一人。

18年間という長きにわたり駐日英国公使を務め、幕末~明治維新の日本に多大なる影響を与えた――その功績を見てみたいと思います。

 

アッパーミドル階級生まれの苦労人

パークスが誕生したのは1828年。
1815年ワーテルローの戦いと、1837年ヴィクトリア女王即位の間ということになります。

イギリスは、ナポレオン戦争に勝利しますが、ヴィクトリア朝の手前となりますと、他のヨーロッパ諸国でも産業革命に追いつきつつあり、その有利さは薄れつつある時代でした。

そんな夜明け前の時代、パークスはアッパーミドルの家庭に生まれます。
アッパーミドルとは、生まれながらの資産家ではないものの、将校、官吏、聖職者、弁護士、実業家といった、社会階層が高い地位に就いている人々のことです。
彼らは総じて勤勉で才知に長け、国を動かす原動力とみなされていました。

パークスの母は彼が4才の時に死亡。
父親はその翌年、馬車の事故で亡くなり、彼は幼くして孤児となってしまいます。
海軍将校の退役軍人である叔父に預けられましたが、その叔父もパークスが9才の時に亡くなりました。

おそらくやその叔父から、ネルソン提督の逸話を語られていたことでしょう。
「ハリー、お前も大きくなったら、ネルソン提督のように我が国に尽くす勇敢な人物になるんだよ」

当時のイギリスの少年はネルソン提督の肖像画を見てあこがれたものです。

夢に胸をふくらませ、身よりをなくしたアッパーミドルのパークス少年。
その後の進路はどうなるのか……。

ネルソン提督(英海軍)こそ世界最強! カリスマ性と勇敢さに男も女も惚れてまうやろ~

 

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若き叩き上げ外交官僚

1841年、パークスは年上の従姉とともに中国へ渡りました。
従姉はドイツ人宣教師の妻として、中国で暮らすつもりだったのです。

パークスは、英国全権ヘンリー・ポティンジャー(のちの初代香港総督)の秘書であり、通訳をつとめるジョン・モリソンの事務所で働くことにしました。

モリソンはマカオ生まれで、語学のエキスパート。
まだ若く、聡明であったパークスは、そのもとで様々な言語をマスターしました。

そのころ彼の目の前では、清王朝が阿片戦争で敗北、列強に侵攻されてゆく様が繰り広げられておりました。
こうした特殊なキャリア形成のため、パークスは古典をサラッと引用するような、典型的な英国紳士らしい教養は身につけられません。

叩き上げの努力の人であり、堅実な実務家というのがふさわしい形容でしょう。

そうした教養の不十分さが、名門校出身の典型的紳士ともいえるアーネスト・サトウからは冷たい目で見られていました。
パークスの荒々しい言葉使いは、その階級にふさわしいものではないと思われたのです。

これはイギリスにありがちな、階級制度の問題と言えますね。
パークスのような叩き上げは、こうした偏見とも闘わねばならなかったのです。

ニッポン大好きな幕末の外交官アーネスト・サトウは「佐藤さん」じゃなかった

それでもパークスは、中国で順調にキャリアを重ねました。
阿片戦争、アロー号事件……そのキャリアは、輝かしいヴィクトリア朝の上昇期と重なっており、イギリスによる中国侵攻とも一致するものです。

パークスの上司には、のちに初代駐日総領事となるラザフォード・オールコックもおりました。

ラザフォード・オールコック/wikipediaより引用

 

百戦錬磨の男、日本へ

1865年(慶応元年)。
連合国と長州藩の間で争われた下関戦争において、イギリスは主導的役割を果たしました。

しかし、イギリス本国としては、行き過ぎた行為であるとして、責任者オールコックを更迭します。

下関戦争/wikipediaより引用

幕末という時代は、日本人がいかにして列強の侵略を避けるか――。
そこに力を注いだ時代と考えられております。

しかし、肝心の列強がどこまで日本を侵略する気であったかは、疑問が残るところです。

植民地支配というのは、いわばビジネスです。
赤字になるか、黒字になるか。
算盤をはじいて決めるわけです。

そういうことを一切合切無視して、ともかく植民地が欲しいと暴走するのは、レオポルド2世のコンゴ自由国のような、稀なケースと言えます。

※レオポルド2世は、「清とか日本が植民地になればいいなあ」と言っていたそうですが……ベルギーは、日本の幕末維新にかすってもおりませんね。

コンゴ自由国は自由どころかガチ地獄! 天然ゴム採取のため住民は酷使され、手首や性器を斬り取られ

えげつない話ではあるのですが、イギリスの場合は、生麦事件の賠償金もありまして。

「下手に植民地にするよりは、賠償金をもらった方がいい。金の卵を産む鶏を肉にするのは愚か者のすることだよ、ハハハ」
ぐらい考えていてもおかしくないわけです。

彼らにとってその状況は
「幕府を脅して、薩摩を脅せば二度取れて、一粒で二度美味しい!」
という状態です。

その薩摩に賠償金をもらいに行ったら薩英戦争になり、そこで思いがけない痛み分けで、方針を転換するのでした。

「薩摩とは、戦うよりも、手を組んだ方が色々と美味しい」
それも尤もな考え方ではないでしょうか。

南北戦争の影響でアメリカ産の綿花が不足している中、薩摩から綿花が買えると知ったイギリスとしては、これはもうラッキーだぞと大喜びです。
いわば薩摩とイギリスは、WIN-WIN、理想的なパートナーシップが成立したのです。

この美味しいパートナーシップをテコにして、イギリスにとって最良の結果を得ること。
それがパークスの使命でした。

 

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「ミカド」と「タイクーン」のゲーム

幕末に来日した外国人たちは、奇妙な点に気づきます。

「この国にはタイクーン(大君=将軍)とミカド(帝=天皇)がいる。どちらが支配者なのだ?」

彼らは自分たちなりに情報を見聞きし、別の結論に至ります。

イギリス「ミカドこそが正統な権力者だ」
フランス「タイクーンがこの国を支配している」

イギリスとフランスというのは、宿命のライバル関係とも言える国同士です。
互いに別の勢力を支持しながら争う――そんな代理戦争を幕末日本でも繰り広げているのです。

彼らには、天皇家に対しても将軍家に対しても、そこまで強い思い入れがあったとは思いません。
チェスで白を選ぶか、黒を選ぶか。
ひょっとしたら、その程度の感覚だったとしてもおかしくはないでしょう。

このとき薩摩と接近していたイギリスが、天皇家を選んだだけかもしれません。

確かに日本は幕末の時期において、植民地支配されるようなことはありませんでした。

しかし、両者との英仏の介入を受けていたということ、英仏両国が自国への利益誘導のために動いていた点は確かです。

 

パークス一行がやってくる

薩英戦争後、薩摩とイギリスは蜜月関係になります。

こう書くと随分とスンナリした話のように思えますが、考えてみてもください。
つい数年前までは、異人は叩き斬る!と息巻いていたはずが一転して、握手する歓迎ムードになるのです。

どうやって関係改善したか?
気になりません?

1866年(慶応2年)、パークスの希望で彼が鹿児島に来ると、薩摩藩は焦りました。

暴発した若い連中が、パークスを襲ったら最悪の事態。
薩摩藩は、イギリス人を絶対に襲撃するな! そんなことがあれば家族にまで累が及ぶ!と、強く布告を出しました。

そしていよいよ、三隻の軍艦が到着し、16人のイギリス人が鹿児島入りを果たします。

鹿児島の人々は一目異人を見ようと、黒山の人だかりを作りました。

「おやはじめて夷人ちゅうものを見たが、生スカン」
そんなふうにあからさまに嫌悪感を示す者もいましたが、幸いにして事件は起こりませんでした。

「おや、美しいレディじゃないか」
美人を見かけて、ネックレスを首からひきちぎって渡すイギリス人もいたとか。

島津久光・忠義親子は、イギリス人が握手を求めて来て驚きました。
しかし、万国共通の礼法と説明されて納得したようです。

フィクション作品次第では、頑固で保守的とされる久光ですが、柔軟性を感じますね。




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パークスは久光を、
「決してハンサムではないが、王者の威厳がある」
「日本でも最も才略のある政治家」
と高い評価を下しました。

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