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孝明天皇/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

意外に戦闘的な幕末の【皇族&公家18名】戦争に参加したバリバリの武闘派もおるよ

更新日:

江戸時代は武士の世。
そのころ公家は何をしていたのか?

そんな問にサクッと答えられる方は少ないでしょう。
歴史ファンだとしても「僅かな禄をもらい、大名家や将軍家に嫁を嫁がせて……」ぐらいの印象しかない気がしますし、実際に語るべき事項が少ないからこそ、教科書などにもほとんど登場しません。

しかし!
長い間、冷遇されてきた彼らにも、ついにスポットライトが当たる時代がやってきます。

【幕末】です。

教科書的には、確かに孝明天皇岩倉具視を押さえればOKです。
が、それだけでは惜しいほど多種多様に富んでいる。

政治に関わった者。
挙兵に担ぎ上げられた者。
中には暗殺された者や、朝敵(天皇の敵)とされた皇族。

等々、思いのほかアグレッシブな動きをしている方もおられるのです。

本稿では、幕末の皇族や公家について振り返ってみたいと思います。

幕末維新の代表的公家といえば岩倉具視/wikipediaより引用

 

極貧だった生活だから幕末で利用され……

まず最初に確認しておきたいのは、当時の彼らが基本的に極貧だということです。

一応、幕府から宮中の経費は捻出されますが常にギリギリ。物価の上昇等があまり反映されないため、天皇家といえども生活は苦しい。

しかも厄介なことに
【無駄な出費だからと言って冠婚葬祭をケチったりできない】
という事情もあります。そこら辺の庶民とは異なりますからね。

実際、生活の苦しさのあまり「袖の下で買収されていた」と思われる公卿もおります。
それが幕末という情勢下では、非常にややこしいことになります。

当時は、
【誰もが孝明天皇を称え、尊皇を口にしてはいるものの、実際に天皇の意志と一致していたとは限らない】
という事情があります。

初期の幕末はわかりやすいのです。
孝明天皇は外国人を嫌っており、開国した幕府にも嫌悪感を抱いていました。
そのため「尊皇攘夷」を掲げる者は、天皇と意見が一致しておりました。

しかし、公武合体策として和宮が将軍家に嫁いだあたりから、途端に状況が変わって参ります。

孝明天皇は、14代将軍・徳川家茂や、京都守護職である会津藩主・松平容保がとても気に入っていました。
彼らとともに力を合わせて、難局を乗りきろうと考えるようになっておりました。

一方、これに困る勢力もおりました。
尊皇攘夷派の筆頭である長州藩や、その影響を受けた者たちです。
彼らは倒幕に傾倒していきますから、天皇と幕府勢力が近づいてもらっては困るわけです。

次第に彼らは危険分子と化していきます。

「こんなにも天皇家を思う俺たちのほうが、天皇自身よりわかっているはず! 俺たちの意見が天皇の意見だ!」
とまぁ、ありえない暴走を始めるのですね。

結果、孝明天皇のまったく身に覚えのない勅書まで出回る状況になり、ゲンナリするばかり。
京都でテロが起こる状況にもウンザリしておりました。

 

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勝者の歴史のせいで混乱する幕末史

幕末では、過激な尊王攘夷派が排除される事件が多々あり、それには朝廷の意志が強く絡んでいた場合もあります。

例えば。
有馬新七ら、薩摩藩の精忠組過激派が粛清された文久2年(1862年)の「寺田屋事件」もそうです。
一応は島津久光の意志で起こったとされていますが、このとき久光は朝廷から「あなたの藩の過激派を何とかしてくださいよ」と命令を受けていました。

長州藩が京都に押し入り、主に会津藩と薩摩藩に迎撃された元治元年(1864年)の「禁門の変」も、孝明天皇は長州藩の掃討を願っておりました。

というと、
「アレっ?」
って思いません?

薩摩は、天皇の言うことを聞いてるからまだいいとして。
長州って、思いっきり天皇に嫌われとるやん!

むしろ幕府や会津藩こそが孝明天皇サイドだったのに、明治維新後は、まるで朝敵のごとく扱われている印象が強い。
どういうこっちゃ?

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用

これが「勝者の歴史」というものでしょう。

長州藩と孝明天皇の関係のリアルは、天皇中心の明治政府にとって「不都合な真実」でしかありません。
要は、隠すしかない。
実際、明治維新後は、過激な尊皇攘夷派や長州藩の排除に回った者、つまり会津藩などは政治から遠ざけられ、意見を述べる機会がありませんでした。

いきおい真実の姿が見えにくくなる。
幕末史が、途中からワケわからん!のは、こうした史実の歪曲が今にまで影響しているんですね。

逆に、そこを押さえておけばスッキリ気持ち良いのに、2018大河『西郷どん』でも政治史などが放置状態ですので、たぶん視聴者の皆さんはこんがらがるだけでしょう。

それともう一つ、本題へ入る前に押さえておきたいことがあります。

ペリー来航以来、開国に向けてのすったもんだは小学生の授業でも習いますが、このときの皇族や公卿の意見は、ほとんど役に立たないばかりか、有害でしかありませんでした。

なんせ彼らは何も知らないのです。

江戸時代に置かれた彼らの状況や、地理的にも仕方のない話ですが、内陸部の京都を一度も出たことのないような面々に、海外情勢の知識を得る機会など無くて当たり前です。
そんな彼らの意見を尊重したらどうなるか?

答えは火を見るより明らかでしょう。
結果、開国と開化への道のりが遠回りになってしまった部分もある――そう考えた方が自然です。

事前の説明が少し長くなってしまい申し訳ありません。
これより本題の皇族・公家を見てまいりましょう。

孝明天皇と岩倉具視の詳しい事情は、以下の記事を参照していただければ幸いです。

【関連記事】孝明天皇 岩倉具視

 

幕末の皇族たち

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)

天保6年(1835年)〜明治28年(1895年)

有栖川宮幟仁親王の第1王子。和宮の婚約者でした。長州系攘夷派として知られています。
「禁門の変」では、参内・他人とも面会・外出禁止処分を受けました。公武合体政策をすすめた岩倉具視にも反感を持っていたのか、岩倉が新政府総裁になった慶応3年(1867年)には、朝議をボイコットしたことも。

戊辰戦争の際には、東征総督としてかつての婚約者・和宮がいる江戸城を攻める寸前までいきました。
その後も会津方面に転戦。廃藩置県後は福岡県令に任じられ、県政を執りました。

西南戦争にも従軍し、その勲功から西郷隆盛に次ぐ二番目の陸軍大将に任じられています。
草創期の陸軍首脳部として活躍。赤十字等社会事業にも尽くした生涯でした。

有栖川宮熾仁親王/wikipediaより引用

久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう・中川宮朝彦)

文政7年(1824年)〜明治24年(1891年)

伏見宮邦家親王第4王子。
将軍継嗣問題において、一橋慶喜を支持した「一橋派」です。

そのせいで、「安政の大獄」で処罰されてしまいます(隠居永蟄居)。

はじめは尊王攘夷派であったものの、その後方針を転換。
孝明天皇の信任が篤い人物で、そのため帝が嫌っていた長州藩を排除する謀略に一枚噛んだため、恨みを買いました

明治維新以降は政治的な出番はなく、神職として生涯を終えています。

山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう/勧修寺宮済範)

文化13年(1816年)〜明治31年(1898年)

伏見宮邦家親王の第一王子。
幼い頃出家するものの、元治元年(1864年)、徳川慶喜や孝明天皇に還俗を願い、「国事御用掛」政界に進出しました。

開明的であり、勝海舟をして「当時、開国の意味を本当にわかっていた唯一の皇族」と言わしめるほどです。

明治維新後も政界で需要なポストを占めましたが、武官になることは固辞し続けました。

山階宮晃親王/wikipediaより引用

小松宮彰仁親王(仁和寺宮嘉彰)

弘化3年1月16日(1846年2月11日)〜明治36年(1903年)2月18日)

伏見宮邦家親王の第8王子。

戊辰戦争では軍事総裁に任ぜられ、「征夷大将軍」として進軍しました。
錦旗を掲げ、奥羽征討総督として官軍の指揮を執っています。

西南戦争でも旅団長として出征。
ヨーロッパの君主国貴族をならって、皇族が軍務に就くことを奨励し、自らその規範となった人物です。

北白川宮能久親王(輪王寺宮公現)

弘化4年(1847年)〜明治28年(1895年)

伏見宮邦家親王の第9王子で「朝敵」とされた皇族。
慶応3年(1867年)5月、江戸に下向して上野・寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承しました。慶応4年(1868年)には徳川慶喜の助命嘆願を行います。

寛永寺に立てこもった彰義隊に擁立され、上野戦争が勃発。
この寛永寺には天皇宸筆による額が掲げられ、かつ宮が住職であったため、篤姫は上野戦争に激怒します。

上野戦争のあと、仙台藩に身を寄せ奥羽列藩同盟盟主に擁立されます。

こうした抗戦のため、明治維新直後は謹慎処分を受けました。
同母兄・小松宮彰仁親王は奥羽征討総督であり、戊辰戦争は兄弟同士の戦いでもあったのです。

明治時代はプロイセンの婦人と結婚したことも。
最期は台湾出生で陣没するという、波乱の生涯でした。

幾多の戦いに赴いた勇ましい皇族としても有名です。

北白川宮能久親王/photo by Daderot wikipediaより引用

 

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幕末の倒幕派公家

近衛忠房(ただふさ)

天保9年(1838年)-〜明治6年(1873年)

父・近衛忠煕母は島津斉興の養女(実妹)・興子で、その間に生まれた子(生母は諸説あり)。
文久2年(1862年)、薩摩藩の島津久光が上洛した際には、自邸で久光と三条実愛の会談を実現させました。

過激な尊皇攘夷による武力行使よりも、穏健な策による幕政改革をすべきだという、バランス感覚の取れた人物。
早くから薩摩藩と長州藩が連携してよりよい策を採るべきであると考えていました。

一条忠香(いちじょう ただか)

文化9年(1812年)〜文久3年(1863年)

明治天皇皇后・昭憲皇太后の父。
近衛忠煕とともに「戊午の密勅」に関与した公卿。九条尚忠の罷免にも関与。

姉小路公知(あねがこうじ きんとも)

天保10年(1840年)〜文久3年(1863年)

彼自身の実績よりも「幕末四大人斬りの一人」薩摩藩士・田中新兵衛の犠牲者としての方が有名という、気の毒な人物です。

三条実美と並ぶ、尊皇攘夷過激派で長州藩士と懇意にしていました。
猿が辻で3人の刺客に襲撃され、応戦するも自邸で亡くなります。(「朔平門外の変」)。

現場に落ちていた刀が田中新兵衛のものであるとされましたが、田中が取調中に自害したため真相は不明です。

姉小路公知/wikipediaより引用

鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)

文化4年(1807年)〜明治11年(1878年)

鷹司政通と徳川清子(水戸斉昭の姉)の子。
水戸斉昭にとっては甥に当たります。そのためもあって、一橋派です。

安政5年(1858年)、アメリカをはじめとする諸外国との通商に際し、堀田正睦らが日米修好通商条約の勅許を求めてきた際には、大反対。
水戸藩や福井藩に味方し、将軍継嗣問題では一橋派に回ります。

近衛忠煕、三条実万とともに「戊午の密勅」を献策し、水戸藩へ勅諚を賜るよう活動しました。

そのため「安政の大獄」において、辞官に追い込まれてしまいます。
その後は長州派尊王攘夷派の公卿として知られました。

元治元年(1864年)「禁門の変」では、鷹司邸に久坂玄瑞や寺島忠三郎ら長州藩兵が逃げ込んで来ます。
そこへ薩摩藩・会津藩らの兵が攻撃を仕掛けたため、火災が発生、京都を巻き込む大火災となりました。

長州藩兵と通じたとして、謹慎処分。
明治維新後、赦免されてからは新政府に参加しています。

正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)

文政3年(1820年)〜明治42年(1909年)

「安政の大獄」に連座。
常に薩摩藩の政策に賛同しており、討幕の密勅」を薩摩藩に伝達する役割を担っています。

倒幕をリードした公卿の一人。

大原重徳(おおはら しげとみ)

享和元年(1801年)〜明治12年(1879年)

エキセントリックなまでの尊王攘夷派公卿で、人呼んで「鵺卿(ぬえきょう)

思想的に対立する相手の駕籠を襲撃したこともあります。

島津久光上洛の際は、江戸に派遣する勅使として任じられ、幕府に対して強く攘夷を迫りました。

大原重徳/wikipediaより引用

橋本実麗(はしもと さねあきら)

文化6年(1809年)〜明治15年(1882年)

和宮の生母・観行院(橋本経子)の兄。
和宮の降嫁に断固反対の立場でした。

尊王攘夷派長州派であったため、「禁門の変」で謹慎処分を受けています。

中山忠能(なかやま ただやす)

文化6年(1809年)〜明治21年(1888年)

明治天皇生母・中山慶子の父で尊王攘夷長州派。

「禁門の変」では長州藩と通じていたとして謹慎処分になります。

岩倉具視とともに「倒幕の密勅」を得るため活動し、明治維新後は、天皇の外祖父として尊重されました。

その他の倒幕派公家・関連記事
近衛忠煕 三条実美

 

幕末その他の公家

九条尚忠(くじょう ひさただ)

寛政10年(1798年)〜明治4年(1871年)

安政5年(1858年)、アメリカをはじめとする諸外国との通商に際し、堀田正睦らが日米修好通商条約の勅許を求めてきた際には、幕府と歩調と合わせようとします。

しかしそのことが、他の公卿の大反発をかいました。
孝明天皇も怒り、関白としての内覧を停止されてしまいます。

その後も和宮降嫁等、朝廷と幕府の公武合体協調路線をすすめたため、尊王攘夷派の反発により謹慎を余儀なくされました。

九条尚忠/wikipediaより引用

久我建通(こが たけみち)

文化12年(1815年)〜明治36年(1903年)

孝明天皇の信認があつく、関白よりも権力があるとして「権関白」と呼ばれました。
公武合体策としての和宮降嫁にも活躍した公卿です。

しかし、その際の行動が尊王攘夷派の反発を買い、賄賂をもらって婚儀を進めたとの悪評が立ってしまいました。

薩摩藩士を中心に弾劾されてしまい、失脚。蟄居処分とされてしまいます。

二条斉敬(にじょう なりゆき)

文化13年(1816年)〜 明治11年(1878年)

幕末最後の摂関職
公武合体を支持した孝明天皇の信任あつく、朝彦親王とともによく補佐にあたりました。

親幕派であったため、尊王攘夷派から辞職を迫られるものの、孝明天皇により慰留。
しかし、孝明天皇の崩御後は摂関職そのものが廃止され、政治に寛容することはできなくなりました。

醍醐忠順(だいご ただおさ)

文政13年(1830年)〜明治33年(1900年)

日米修好通商条約に関して勅問(孝明天皇からの質問)を受けた際、「畿内以外は開港するべき」と回答したとされます。

戊辰戦争にも従軍。明治維新後は、初代大阪府知事になりました。
開明的で、高い能力の持ち主であったのでしょう。

醍醐忠順/wikipediaより引用

堤哲長(つつみ あきなが)

文政10年(1828年)〜明治2年(1869年)

堤家は公家の中ではかなり格下で、貧しい家でした。

薩摩藩島津家と関係があります。
第8代藩主・島津重豪の側室・お千万の方(春光院、第9代藩主・斉宜の母)は、堤家出身であったのです。

そのためか、哲長は公卿でありながら海外事情通というかなり珍しい人物。
『オランダ風説書』、漂流民関連の情報、ペリー来航の情報等を把握していました。

勝海舟をして「当時、開国の意味を本当にわかっていた唯一の公卿」と言わしめました(※先程の山階宮晃親王は皇族)。

もっと家の格が高く、発言力が強かったら……と思わざるを得ません。

公卿というと、お歯黒に白粉をつけた、優雅で弱々しいイメージもあります。
しかし、従軍した人、刺客相手に応戦した人、敵対者の駕籠を襲撃した人までおり、単純なイメージでくくれないことがご理解いただけたでしょう。

武士の陰とされがちな彼らも、激動の幕末史において、彼らなりの戦いを繰り広げていたのです。

文:小檜山青




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【参考文献】
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』
国史大辞典

 



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