大久保利通(大久保一蔵)

大久保利通(大久保一蔵)/wikipediaより引用

幕末・維新

大久保利通49年の生涯まとめ【年表付】紀尾井坂に斃れた西郷の親友

【人物概略:大久保利通

大久保利通は1830年、薩摩(鹿児島県)で生まれた。

父は下級藩士の大久保利世で、利通は長男。

幼名は正袈裟(しょうけさ)で、元服後は大久保正助(しょうすけ)と名乗り、後に島津久光から大久保一蔵(いちぞう)の名を賜っている。

幼少期に過ごした下加治屋町には西郷隆盛西郷従道がおり、後に明治維新へ向かっての原動力になったのは歴史ファンにはお馴染みかもしれない。

幕末の薩摩を揺るがしたお由羅騒動では父に連座して謹慎処分とされる。

が、島津斉彬が藩主になると罰を解かれ、以降、藩内の有力者と囲碁の相手などをして後に島津久光への取次も成功。出世街道を昇るキッカケを掴む。

1862年に岩倉具視らと公武合体路線を目指し、徳川慶喜(当時は一橋)などにも接近した。

京都で1865年に利通(としみち)と名を改め、四侯会議も実現させるが、ここで慶喜とは敵対関係となり、その後、倒幕の意を固めることに。

大政奉還で江戸幕府が倒れ、明治維新を迎えると、版籍奉還や廃藩置県などの政策を推し進めた。

岩倉使節団の一員として諸外国の技術を見聞し、帰国後は内務卿に就任すると、冷静かつ精緻な政治力は西郷隆盛の鷹揚なキャラクターと対比され、征韓論を巡って分裂は決定的となる。

西郷と袂を分かち、そして西南戦争へ……。

翌年の1878年、紀尾井坂の変で殺害された。

享年49(記事末に年表あり)。

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大久保利通の生家は代々薩摩藩士

大久保利通は、代々薩摩藩士の家に生まれました。

身分はさほど高くありません。

元々体が強いほうではなかったので、武道よりも学問に力を入れており、討論が得意になっていったそうです。

文政十三年(1830年)生まれですから当時は国会議員なんて概念はなかったと思われますけども、結果的にはこれが後々役立ったのでしょうね。

藩への出仕後もこの特技を生かして活躍するはずでした。

が、父親が薩摩藩の後継者問題・お由羅騒動に巻き込まれてしまい、一時期、親子揃ってクビになるという苦難に見舞われます。

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大久保家には他に男手がおらず、当然家計は火の車となり、貧しい生活を強いられました。

島津斉彬が藩主になってから「またウチで仕事をするように」と言ってくれたので、三年ほどで復帰できたのは運が良かったといえましょう。

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久光のもとで出世

その後は自らの機転を生かし、藩の中で少しずつ出世していきます。

例えば、斉彬の次の藩主茂久(島津忠義)に近付くため、その父である島津久光(当時は忠教)の囲碁仲間であったお坊さんを介して手紙を渡したりしています。

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いわば外堀から埋めていったような感じですね。

しかも、この手紙というのがただの手紙ではありません。

お坊さんから「久光様が『こんな本読みたいなあ』と仰ってましたよ」という話を聞きつけて、大久保はまずその本を入手。

こう書くと簡単ですが、当時は本の流通が今ほど盛んではないですから、かなり駆けずり回ったようです。この時点で根性パネェ。

若かりし頃の大久保利通、相当怖い……/wikipediaより引用

そして「もしよろしければお貸ししましょう」ということで、お坊さんを介して本を久光に渡しました。

受け取った久光がwktkしながら本を開いてみると、そこには何やらしおり代わりと思しき紙が入っています。

久光が「抜き忘れたのか?そそっかしい持ち主だな」と思ったかどうかはさだかではありませんが、よーく見てみるとその紙には人名らしきものや、政治信条のような主義主張がびっしり書かれていました。

文字が書いてあると反射的に読んでしまうのは読書好きの宿命ともいえる癖でしょう。久光もついついこの紙にしっかり目を通してしまいます。

そして「なかなかしっかりした考えじゃないか。よし、この名前メモっとこか」(超訳)という印象を持ち、まずは大久保とその仲間達の名前を覚えてくれたのでした。

もちろんただの偶然ではなく、身分の低い大久保がまず新しい藩主に自分の存在と思想を知ってもらうために絞った知恵です。

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