五代友厚/国立国会図書館蔵

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新 あさが来た

五代友厚(才助)49年の生涯をスッキリ解説!西郷や大久保に並ぶ薩摩藩士の実力

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大河ドラマ『西郷どん』では残念ながら出番ナシ。
明治初期の大阪でキョーレツな個性を放った薩摩出身の経済人、それが五代友厚です。

朝ドラ『あさが来た』で俳優ディーン・フジオカさんが鮮烈なデビューを飾った役として、今ではよく知られておりますね。

劇中ではスマートな美男子だった五代様ですが、彼も薩摩人ですから、

「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ!」

という郷中教育を受け、剣術の使い手でもありました。

それが経済人とは? 一体、彼はどんな人物だったのでしょうか。

 

地球儀を自作する

天保5年(1835年)、薩摩藩鹿児島城下。
五代家の二男として、才助のちの五代友厚は誕生しました。西郷隆盛の8才下です。

五代家は、代々300から500石取りです。
薩摩藩の武士でが上位一割ぐらいに入る、家格禄高のかなり高い家でした。

父・五代直左衛門秀尭は記録奉行兼町奉行です。
『三国名勝図会』の執筆者でもあり、漢文の造詣が深いこともあって、あの島津斉彬からも信頼されていました。

兄・徳夫は父譲りの漢学の才に長けた人物で、生涯西洋の文物を拒みました。
兄弟は正反対の性格であり、仲は悪かったようです。

五代は14才の時、父からあることを頼まれます。

「こん地図を見てみろ」

それは世界地図でした。
父は琉球交易係をしており、その関係で藩主・島津斉興から世界地図の模写を命じられたのです。

「すごか!」
彼は興奮しました。
世界とは、こんなにも大きいものか。

まるでドラマみたいなお話ですが、そこから先、五代が普通じゃなかったのは、地図を二枚模写すると、一枚は自分の部屋に張り、さらに絹に地図を写し、見よう見まねで地球儀を自作したことです。

「こん世界ちゅうのは、こげんにも広いのか」
五代の胸には、世界への憧れが日増しに募っていくのでした。

 

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長崎、そして上海へ

幕末薩摩藩において歴史に名を残した者は、若かりし頃に多くが「精忠組」に属します。
しかし、五代の場合は異なりました。

嘉永6年(1853年)、黒船が来航すると天下は騒然となります。

その折、五代は「男児志を立つうは、まさにこんときにあい。おれもきばうぞ!!」と発憤。
そこで、他の若手藩士のように、五代は尊皇攘夷へは向かいませんでした。

幼い頃から海外にあこがれていた彼にとって、西洋文明は憎むべきものではなく、むしろもっと学びたいものでした。
そのあたりは、頑迷な鎖国主義者である兄とは違います。

坂本龍馬などが近くにいたら、さぞかし気が合ったのでは?
なんて思われるかもしれませんが、実際に仲の良い存在でした。

おそらくや肌感覚で通じ合える仲だったのでしょう。

安政2年(1855年)、五代は藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)となりました。

開明的な島津斉彬が、五代の才能に目をとめないわけがありません。
そもそも、「才助」という名も、その才知を認められたから、と言われているほどです。

そして安政4年(1855年)、勝海舟の発案による「長崎海軍伝習所」が開設されると、薩摩からも藩士が選抜されて遊学することになり、五代も選ばれました。

長崎海軍伝習所/wikipediaより引用

 

長崎にいた五代は西郷らとは別の感覚を研ぎ澄ます

安政の大獄」から血なまぐさい政治闘争をたどることになる薩摩藩。
幸か不幸か五代は長崎にいて、そうしたことには関わっておりません。

彼はそこで、最新の西洋流学問、操船に必要な技術を学び、ますます開国派となっていきます。
安政5年(1858年)に島津斉彬が死去したため、一時帰国を余儀なくされるものの、その後、再び長崎に渡り勉学を続けました。

実は当時の長崎には、藩や国の枠すら超えた、そうそうたるメンバーが集まっていたのです。

・幕臣の勝海舟
・蘭方医の松本良順(新選組の治療で有名)
・オランダ士官のカッティンディーケ
・スコットランド出身商人のグラバー
などなど。

そんなところに才知溢れる若者が入ったとなれば、刺激を受けないワケがありません。

尊皇だ、攘夷だ、そんな風に殺気立っていた薩摩藩の中で、五代だけは
「やっぱいこれからは、開国じゃっどなぁ。西洋のこっぉ学んで国を強くせなならん」
と、冷静に未来の展望を描いておりました。

それは先進的過ぎて、同時期の日本では異端に見えるほどだった気もします。
実際、五代は、明治維新後にメインストリームの政界を歩むのではなく、下野して大阪の経済発展に尽くしますが、それには彼のこうした考え方・経歴が強く影響していたのでしょう。

朝ドラ『あさが来た』でも、ディーン・フジオカさんが演じる五代は、ちょっと浮いた西洋流ジェントルマン的な人物でしたが、いい線をいっていた気がします。

話を幕末に戻します。
文久2年(1862年)、水夫に変装して幕府の船「千歳丸」に乗り込んだ五代は、上海へ向かいました。
この船には長州藩・高杉晋作もおり、五代の姿を目撃しています。なんというか、マンガみたいなエピソードですよね。

上海で見たのは、その地での活発な交易ぶり、西洋人たちの闊歩する姿でした。

『西洋人が日本に来たらどうなってしまうのか?』
とは、考えません。
『すごか人だ、これからは交易の時代になうぞ』
五代は、交易の可能性に目覚めたのでした。

 

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薩英戦争を阻止せよ!

文久3年(1863年)、五代はとんでもない知らせを聞きました。

生麦事件が発生し、英国艦隊が薩摩を攻撃しに向かっていると知ったのです。
五代の顔が青ざめました。

『こんままイギリスと戦っても、勝ち目はなか』

五代は英国艦隊は長崎に寄港すると読みました。
そこで直談判し、賠償金一万ポンドを払い、自分が責めを負って切腹しようと考えます。

腹を切っておさめようと決断するあたり、薩摩武士の激しい責任感が見て取れますね。

ところが、です。
英国艦隊は長崎によらずに、薩摩を目指しました。

しかも、あろうことか、薩摩藩内は、主戦論が有力。
五代は、海外派遣経験のある松木弘安、通詞の堀孝之とともに、三隻の軍艦に乗って敵を待ち受けました。

松木弘安のちに寺島宗則/Wikipediaより引用

人選からして、講和目的でしょう。
ドラマ西郷どんで西郷の郷中仲間とされている有村俊斎海江田信義)などは、このとき物売りに変装して奇襲攻撃をかけるつもりであったと伝わります。

『なんて先見の明がないやつだ』と思うかもしれませんが、この場合、海江田がダメというよりも、五代の見識が優れていたと見るべきでしょう。

このとき五代らはイギリス側の捕虜となり、尋問されます。

「薩摩の戦力はどの程度なのか?」
「薩摩は古来よい、武勇で知られておいもす。特に陸戦は最も得意とすうとこい。おはん方が上陸したら、苦戦すうこっでしょう」

大げさに五代がそう言うのを聞いた相手は、考えました。すでにイギリス側の損害も小さくはありません。

「ふむ……講和が互いに賢明な手段だな」

五代らは横浜まで連れて行かれ、50両と共に解放されました。
これで薩英戦争の悪化や、上陸戦が防がれたのですから、その働きは大きなものです。

 

見通し鋭すぎるがゆえに藩内で浮いてしまう

しかし、勝手にイギリスと戦った薩摩に、幕府からは厳しい目を向けてられてしまいます。
幕府のみならず、薩摩藩士からも、五代らは冷たい目で見られてしまいました。

「イギリスの捕虜になうとは、武士の風上いも置けん奴だ」
というわけですね。

そこで五代らは、松本良順らの世話になり、変名での亡命生活を余儀なくされます。

帰藩が叶ったあとも、彼は冷たい目にさらされました。
維新のあと、政府からも西郷らからも距離があったのは、こうした経歴のせいなのです。

かくして苦い経験を積み重ねていた五代。
そんな彼にとって薩英戦争は、それでも、ある意味歓迎すべきものでした。

「尊皇攘夷をとなえ、同志を集め、自分たちがこん国の政治を掌握しじぁよな大言壮語を吐く奴がいうが、とんでん馬鹿者たちだ。こや民を迷わせ、国政を妨げ、内戦を引き起こし、インドや中国のごとこん国を駄目にしてしまう考え方だ。今度の戦争でイギリスに負けて、馬鹿者どもの目も覚めたな。今とうべき政策は、開国、交易、富国強兵なのだ」

五代はそう確信していました。

松下村塾、水戸天狗党、そして薩摩の精忠組も形無しといいますか。
ここまでズバッと考えるからこそ、藩内で浮いていたのかな、と思います。

しかも、五代の言うことは正しいのです。

 

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念願の英国留学

文久4年(1864年)に帰藩した五代。
その翌年となる慶応元年(1865年)、薩摩藩では五代の構想第一弾が実現しました。

薩摩藩遣英使節団として、念願の渡英を果たしたのです。

五代は薩摩藩第一次英国留学生たちの案内役として、イギリス各地を視察します。
グラバーとの親交を生かして武器を購入するだけではなく、五代は産業にも興味関心を抱きました。

このとき、紡績機械を購入。

こうした行動は、まさに島津斉彬の意思を継ぐ者と言えます。
さらに彼の構想は広がり、大きな「カンパニー」を作って貿易する夢が膨れあがってゆきました。
まんま龍馬ですね。

岩崎弥太郎(左)とグラバー/Wikipediaより引用

 

薩摩に五代あり

慶応2年(1866年)、英国から帰国した五代は、御小納戸奉公格の御用人席外国掛に就任。
薩摩藩の交易や商事を一手に握ることになりました。

このころにはると「薩摩藩の五代」といえば知られた存在です。
グラバーから武器を買い付け、長州藩には下関での商社創設を打診しています。

桂小五郎木戸孝允)、高杉晋作らと、薩長合弁会社を作ることを計画しました。
土佐藩の坂本龍馬率いる「海援隊」とも協力しようとしていました。

長崎には、グラバーと協力して「小菅修船場」、現在「ソロバンドック」と呼ばれている船の修理場を作っています。

多才な五代は、その名が一気に知られるようになっていきました。

慶応3年(1867年)、倒幕前夜からは五代は引っ張りだこになります。
倒幕を支援――というより、外国人とのモメ事解決に引っ張り出されるようになったのです。

明治元年(1868年)には、新政府の参与職外国事務掛に就任。

・神戸事件(備前藩士によるフランス水兵襲撃事件・1868年)
堺事件(土佐藩士によるフランス水兵襲撃事件・1868年)
・パークス襲撃事件(天皇の謁見に向かう途中で暴漢・1868年)

パークス襲撃事件を描いた一枚/Wikipediaより引用

一歩間違えれば列強と大変なことになりそうな事件を、うまく処理したのが五代でした。




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戊辰戦争には参戦しておりません。
しかし、縁の下の力持ちとして、五代は活躍していたのです。

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