島津久光が上洛した翌年――文久3年(1863年)。
薩摩藩きっての秀才であり、また開明派でもある五代才助(後の五代友厚)は、とある知らせを聞いて愕然とします。
「イギリス艦隊が薩摩を攻撃しに向かっとうだと!」
このままでは、薩摩に勝ち目はない――そう確信した彼は、長崎に立ち寄るであろうイギリス艦隊に直談判し、賠償金1万ポンドを払い、その責めを負って切腹しようと決意を固めます。
しかし、五代の読みは外れます。
イギリス艦隊は一直線に薩摩を目指し、絶体絶命の危機が迫っておりました。
時は文久3年(1863年)7月2日、薩英戦争の始まり。
同年7月4日には早くも終結しますが、この戦いにより大きく変わった薩摩とイギリスの関係も含めて振り返ってみましょう。
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薩英戦争の5W1H
薩英戦争は、西郷隆盛があまり関与していません。
ゆえに大河ドラマ『西郷どん』はじめ西郷作品では扱いが小さくなりがちですが、ここを外すと幕末史がわかりにくくなりますので、しっかり見ておきたいところです。
英語では
” Anglo-Satsuma War”
とか
”Bombardment of Kagoshima”(鹿児島砲撃)
と呼ばれています。
まずは簡単に5W1Hを確認しておきますと。
【Who】薩摩藩 vs イギリス海軍
【When】1863年8月15日-1863年8月17日
【Where】鹿児島湾
【Why】両者の落とし所の差異(誤解)
→イギリスは生麦事件実行犯の引き渡しを要求する一方、薩摩では、実行犯ではなく藩主父子の首を要求されたと「誤解」する
生麦事件で死者一名と重傷者二名 イギリス人奥さんは頭髪を剃られ薩摩vs英国へ
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「誤解」で戦争というのもちょっと間抜けな話ですが、なにせ薩摩も必死でした。
というのも、松平容保の首を求められた会津藩が戦争を回避できなかったように、当時は藩主の首を求めることは相当に重たく、とても受け入れられるものではなかったのです。
例えば西郷隆盛と山岡鉄舟との会談でも、慶喜の助命を求める鉄舟は、
「あなたがこちらの立場で、藩主の首を求められたらどうするのか」
と問われ、西郷が折れています。
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また、この年5月には、長州藩はじめとする尊皇攘夷派の朝廷工作により、攘夷が国策とされていたこともあり、戦争は不可避でした。
では、戦争の内容(H)と結果と影響(what)も確認しておきましょう。
【How】
砲撃戦で双方被害死傷者が発生。補給物資が不足し、上陸戦は不利と判断したイギリス側の判断もあり、講和に持ち込まれる
【What】
・薩摩とイギリスが接近→ 薩摩藩とイギリスは急接近を果たす
・薩摩とイギリスの密貿易開始 → 薩摩藩が伝統的な収入手段としていた密貿易範囲が、イギリス相手に拡大。南北戦争で品薄となっていた綿花が主要な輸出品となる
・薩摩藩士がイギリスへ留学 → 五代才助ら留学生が英国を目指す。ここでの知識を生かして、五代は明治時代に商業的な発展を果たす
・西郷隆盛の政治復帰 → 当時、沖永良部島へ二度目の流刑だった西郷が、故郷が戦争に陥ったと知るやいてもたってもいられず、政治復帰への意欲を高めた
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・長州が薩摩を敵視 → 自分たちと同じく攘夷に励んでいると思った薩摩藩が、密貿易をしていると知り激怒。「八月十八日の政変」とも重なり、両者間には敵意が募り「禁門の変」で頂点に達する
・イギリスが反幕府勢力の支持方針を固める → 当時、海外から来日した国は、日本が幕府と天皇を中心とした二重の体制があると判断。フランスが幕府支持であることをふまえたうえで、イギリスは天皇を中心とした反幕府勢力の支援を決定
・庶民は幕府に失望 → 攘夷により賠償金をむしり取られて物価が高騰。西日本を中心に「幕府が潰れて新しい体制になればいいのかな?」と倒幕待望論が庶民の間でも流行る
【よくある間違った見方】
「薩摩藩は、この戦争の敗北によって攘夷の非を悟った」
理由は後述します。
外交官サトウは見ていた
博識な五代才助が【御家の存亡危機だ】と慌てるほどだった薩英戦争。
読み通り、鹿児島城下はイギリス艦隊の砲撃により、火の海となりました。
アーネスト・サトウはこう書き残しています。
「わが方は鹿児島の町を焼き払うため火箭(ロケット)をも発射したが、これは実際うまく行きすぎたほどであった。火炎を消そうとする町民のあらゆる努力も無益であったに違いない」
ニッポン大好き幕末の外交官アーネスト・サトウ 名前は“佐藤”じゃございません
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18世紀後半。
イギリスはインド現地軍との戦いで、敵のロケットに悩まされました。
これを受け、イギリス軍では「コングリーヴ・ロケット」を開発、ナポレオン戦争、米英戦争等で、猛威をふるいます。
※コングリーヴロケットの発射再現
更にはライフルや鋼鉄製大砲も開発され、19世紀には下火となるロケット。
これが薩英戦争では効果的だったのです。
ロケットによって燃え上がる薩摩の青白い炎。
鹿児島城を焼き尽くす様は、サトウらも思わず息を呑むほど壮観でした。
木造建築中心の日本家屋は、それこそ簡単に燃え上がってしまったことでしょう。
砲台は破壊され、城下市街地の一割が燃え尽きました。
イギリスの攻撃による被害の中には、島津斉彬が心血を注いだ「集成館」も入っています。
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貴重な船舶も損傷を受けました。
ところが、です。
ド派手な砲撃が行われる一方で、薩摩側が受けた人的被害は思いのほか少ないものでした。
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