長野主膳/Wikipediaより引用

幕末・維新

長野主膳義言48年の生涯マトメ! 井伊の懐刀は和歌と国学の先生だった

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井伊直弼といえば「安政の大獄」と「桜田門外の変」。

斬った斬られたの惨劇だけに、
「直弼さんって悪人だよね、たぶん友達もいないよね」
とマイナスイメージが先行しがちです。

もちろんそんな単純なことではなく、直弼は極めて優秀な政治家でした。

そして、島津斉彬西郷隆盛を、松平慶永(松平春嶽)橋本左内を抱えていたように、直弼にも有能な懐刀がおりまして。

長野主膳(しゅぜん)です。

そもそも主人の井伊直弼が悪人として描かれがちですから、長野もまた同様。

尊王攘夷派に凄まじい恨みを買っており、彼ら二人の寵愛を受けて活動していた女スパイ・村山たかは、目の前で我が子を惨殺され、生きたまま晒し者にされる屈辱に遭っています。

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一体、長野は、何をしたというのでしょうか。

 

長野主膳の謎めいた前半生

幕末において激しい憎悪をぶつけられ、歴史にその名を残した長野主膳――。
その前半生は今もハッキリとしておりません。

生まれたのは、文化12年(1815年)。
後に主君となる井伊直弼と同じ年とされています。

場所は、最も信憑性のある説で伊勢国飯高郡滝村であり、長野次郎祐の弟と伝わります。

名前の字面からして、戦国ファンの皆さまには何か引っかかるものがあったでしょうか。
彼の先祖は、上州箕輪城主・長野業政とされています。

そうです。
井伊直弼の先祖である井伊直政にも、箕輪城主時代がありました。
両者の先祖が箕輪城主繋がり――というのは、いかにも面白い歴史エピソードですが、残念ながらこの出自も真偽のほどは不明です。

なにせ長野の足跡をたどることができるのは、天保10年(1839年)になってから。
この年、伊勢・川俣滝野村の本陣・滝野次郎左衛門知雄(ともかつ)宅に寓居し、この滝野を師として国学を学びました。

当時は、豪農でも知識人が多く、国学を学ぶ者もいたのです。

例えば「赤報隊」を率いた相楽総三も、こうした豪農出身の草莽志士です。

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さらには勤王おばちゃんこと松尾多勢子もそうですね。

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天保12年(1841年)、長野は滝野の妹で、彼より6歳年上の多紀(瀧・たき)と結婚します。

彼女は32才ですから、当時としてはかなりの晩婚。
夫婦は、このあと各国を遊歴することになりました。

行き先は、伊勢、京都、美濃、尾張、三河等。
滞在先で、長野は和歌や国学を教え、『古事記』の講義も行っています。
この頃は平和な文化人といった感じですね。

 

井伊直弼と知り合う

そんな長野に転機が訪れたのは、1842年(天保13年)のことでした。

当時彦根では、井伊家の庶子14男として、井伊直弼が、自己鍛錬の日々を送っていました。

生きてゆくために困窮することはないものの、世に出る機会は絶望的な自身の立場。
文武を磨き、禅に接するしかない毎日です。

あるとき直弼は、噂に聞いた長野を呼び出し、和歌の師としました。
そうです。二人を結びつけたのは意外にも和歌だったのです。
直弼は長野に和歌の技巧を質問し、自作の歌の添削を頼んだりしていました。

しかし時代が二人の関係を変えていきます。
期せずして直弼は井伊家の世子(跡継ぎ)となり、井伊家の次期当主となることが決まりました。

長野を通して国学を学んだ直弼は、天皇を中心とした「皇国」を作ることこそが、日本に必要であると考えるようになります。

実際、長野は有能なだけでなく、気も合いました。
絶大な信頼を寄せられた長野は、直弼の藩主就任を機に、共に藩政改革に尽くすこととなります。

 

長野主膳の国学思想

ここで、ちょっと引っかかった方もおられるでしょう。

「井伊直弼と長野主膳は、朝廷をないがしろにして、倒幕派を一掃したがったのでしょ?」
「だから“安政の大獄”を引き起こしたのでは?」
「なのに皇国を作るっておかしいですよね」

実はそう単純な話でもありません。

井伊直弼の思想の根底には、長野の唱えた国学があります。
それは、以下のような考え方でした。

・幕府を倒して朝廷に政権を返還する「革命論」ではない
・ただし、天皇を中心とした国作りを行わねばならない
・神意により武家の世が訪れたのであり(徳川幕府の肯定)、その政権は朝廷との合意によって幕府へ委任されたものである。つまり委任された時点で朝廷の意見は幕府と一致するものとしてよい(「幕府の意見=朝廷の意見」)

【神意によって武家に政治が託され、朝廷も同意しているから、幕府の意見=朝廷の意見】という思想なのです。

つまり、直弼の中では天皇を疎んじる気はサラサラなく、
【朝廷に託されたからには、最善を尽くさねばならない】
という責任感があったのですね。

後に直弼の強引な態度は、朝廷をないがしろにしていると批判されますが、そもそもが朝廷から幕府に政治が託されている以上、そんなことはない。
それが井伊直弼の考えでした。

 

熾烈な朝廷工作

時代は流れまして。
嘉永6年(1853年)の黒船来航に端を発した外交問題は、幕府内において深刻な対立を生み出します。

・現実的な開国を主張する……井伊直弼・堀田正睦
これに対し、
・無謀な攘夷を主張する……徳川斉昭
両者の対立は、激しいものでした。

これを仲裁できそうなのは老中首座・阿部正弘ぐらいのものでしたが、すでに亡くなってしまい、もはや争いは止まりません。
堀田は斉昭を幕政から追い出しました。
対し、怒りを抱いた斉昭は、虎視眈々と復讐の機会を狙います。

その機会は、意外と早く訪れました。

1858年、アメリカ側のハリスと交渉を詰めた日米修好通商条約。
その締結について朝廷から勅許を得ようとした堀田は、京都に入りました。

そこで待ち受けていたのは、水戸斉昭の息のかかった公家たちです。
彼らはほぼ全員、開国がどういうことか理解すらなく、まったく話が通じません。

判で押したように
「ともかく異人は嫌どす、攘夷しとくれやす」
の一点張りなのです。

堀田は力尽き、何の成果も得られないまま、疲れ果てて江戸に戻りました。

そんな京都で、長野主膳も動いていました。

 

痛恨の「戊午の密勅」

長野は井伊家に仕える前、京都にいたことがありました。
九条家に仕えていたのです。

妻の多紀も今城家に仕えたことがあり、長野の妾となった村山たかも、京都に人脈がありました。
九条家に仕える青侍・島田左近正辰とも、交流しています。

こうした長野の人脈は、安政の大獄前夜にも活用されたのでしょう。
関白である九条尚忠(ひさただ)を味方にしていたのです。

孝明天皇はともかく異人嫌いであり、条約締結については怒り心頭でした。

そんな彼に出来る抵抗手段は譲位です。
孝明天皇の意を受けた九条尚忠は、公卿たちに意見を求めることにしました。

すると、水面下で、
・左大臣 近衛忠煕
・右大臣 鷹司輔煕
・内大臣 一条忠香
らがあることを画策しておりました。

関白・九条尚忠の裁可を得ないまま、要は天皇が勝手に、幕府を詰問(批難)する勅書を水戸藩に下していたのです。

これを「戊午の密勅」と呼び、長野は驚愕するしかありませんでした。なんせ……。
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