天保六年(1836年)12月29日は、実質的な最後の会津藩主・松平容保(かたもり)が誕生した日です。
幕末の話題では欠かせない人でもありますよね。
容保は、実は現在の徳川宗家の直接の祖先に当たります。
そもそも容保自身が水戸藩初代・徳川頼房の子孫なので、家康の血が確実に受け継がれていることになりますね。
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それでは容保の生涯を見ていきましょう。
高須藩邸で生まれた松平容保
容保は、江戸・四谷にあった高須藩邸で生まれました。
会津若松のイメージが強い容保が江戸っ子(?)というのは意外な気もしますけれども、当時は大名の妻子は基本的に江戸にいるので当たり前ですね。
10歳のとき叔父の会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となり、16歳のとき家督を継承。
上記の通り水戸藩主の血を継いでいるからなのか。
桜田門外の変の際には水戸藩討伐に反対し、調停に動いています。このとき容保は24歳なので、若い頃から随分苦労していたことになりますね。
京都守護職に就いたのは26歳のときのことです。
徳川の血を引いている上に、元々美男子で有名だった容保ですから、そんな人が都を守ってくれると言われれば、男女問わず宮中の人々は心強かったことでしょう。
いきなり「幕府がなくなる」と言われても!
期待通り、松平容保は十四代・徳川家茂の警護や、新選組、京都見廻組を組織して都の治安維持に努めました。
結果のほうは……ノーコメントというところですかね……。
孝明天皇からは直筆の手紙や御製の歌をいただいたりして、絶大な信頼だったことは間違いありません。
その後は十五代将軍・徳川慶喜に付き従い、大坂から船で江戸へ戻りました。
この時点で幕府は朝敵扱いにされてしまっていましたので、どこの大名家でも調停に恭順するか、徹底抗戦するか、意見が分かれて揉めに揉めていた頃です。
慶喜には朝廷へ逆らう意志などありませんでしたから、そのまま順当に行けば、容保を含めて徳川の血を引く家は慶喜に従ったことでしょう。
江戸藩邸の人々は容保に従おうという向きもありました。
が、国許ではそうは行きません。
なんせ情報の伝達速度がずっと遅かった時代のことです。上方で何が起こっているのかも、事の経緯も何も知らないのに、いきなり「幕府はもうなくなった。我々も新しい政府に従わなくてはならない」と言われたって、納得なんてできないですよね。
当時の会津藩の人々もそうでした。
ここで容保と会津藩の支えとも足かせともなったのが、藩祖・保科正之の遺した教訓、「家訓十五カ条」です。
容保は徹底抗戦の覚悟を決めてしまい……
「家訓十五カ条」その第一にいわく。
「将軍家に忠義を尽くすこと。もし将軍家に逆らう藩主が現れたら、例え私と血が繋がっていたとしても、我が子孫ではないから従わなくてもよい」(意訳)
上記のような状態で、これを遵守すべしとする人々の声が高まれば、いかに藩主といえども押さえつけることはできません。
この動きを察した新政府軍も、容保以下会津藩が素直に恭順するとは思っていませんでした。
キナ臭い空気の中、他の東北諸藩は伊達家を中心にして奥羽列藩同盟を組み「ちょっとちょっと両方とも落ち着いて」と仲介に動きましたが、とき既に遅し。
この辺の事情は以前取り上げているので割愛しますが、容保は徹底抗戦の覚悟を決めてしまい、ここから会津戦争が始まりました。
もしここで容保が「もう上様が決めたことなんだから、俺達がグダグダ言ってもしょうがないんだよ!」と主張し続けていれば、会津戦争での諸々の悲劇は起こらなかったかもしれません。
ただ、そもそもが天皇の意思に従い、幕府からも頼まれて行動していた会津藩です。
新政府軍が執拗に松平容保の首を要求している以上、藩士らはそれを呑むことなどできません。
特に長州に対しては【長州征伐】において幕府サイドが温情を見せた結果になっていただけに、それが一転、松平容保の命を差し出せと言われても、とても納得できるはずがありませんでした。
新政府軍としては、そこを見越しての行動だったのでしょう。
それゆえ未だに会津と長州の不仲が囁かれたりするのですね。
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容保が再び考えを変えたのは、奥羽列藩同盟のほとんどが新政府軍に降伏してからのことです。
なおも交戦を主張する家臣たちの説得もしていますが、そのときには既に白虎隊の悲劇が起きた後。つまり、多くの会津藩士が戦死した後でした。
この流れでは、戦が終わった後、容保一人に領民の憎しみが向けられるのも仕方のないことですよね……。
新政府軍が、会津藩を含めた幕府側の人々に苛烈な仕打ちをしたことも原因ですが。
後日、容保が新政府軍によって東京へ護送されていくとき、見送ろうとする領民はほとんどいなかったといわれています。
しかし、その感情がずっと続いたわけではありませんでした。
被災者たちは旧怨を忘れ容保の登場を喜んだ
会津戦争から20年後の明治二十年(1888年)、磐梯山の噴火により、旧会津藩領は甚大な被害を受けました。
噴火活動自体は2~3時間で終わったのですが、五色沼など磐梯山周辺にある数々の沼や湖は、このときに川がせき止められてできたものです。
そう考えると、規模の大きさが何となくわかりますよね。いわんや平地をや。
公式記録での犠牲者は死亡者477名、負傷者28名といわれています。
容保は明治時代に入ってからは蟄居を申し付けられた後、明治十三年(1880年)に日光東照宮の宮司を務めていましたが、磐梯山噴火の知らせを聞き、直ちに旧領へ向かいました。
容保の顔を見た被災者は、旧怨を忘れ喜んだといわれています。
会津戦争時代の住民の中には、この間に亡くなったり他所へ移ったりした人もいたでしょうし、ずっと容保を許せなかった人もいたでしょう。
しかし、20年の月日が少しは恨みを和らげたのではないでしょうか。
朝廷のほうでも、何かと容保や会津のことは気にかけていたようです。
明治天皇の義母・英照皇太后は、容保の晩年に見舞いとして牛乳を送ったことがあるとか。宮中の侍医頭だった橋本綱常という人物が容保の主治医も務めていたので、彼を通じて届けたのだそうです。
容保は牛乳の匂いが苦手だったので、綱常は皇太后から預かった牛乳にコーヒーで味をつけて渡したと言います。
英照皇太后と綱常の気配りに涙し、起き上がってコーヒー牛乳を飲んだといわれています。ええ話や。
そして、容保が明治二十六年(1893年)に57歳で亡くなってからも、その気遣いは続きました。
昭和三年(1928年)、大正天皇の第二皇子・秩父宮雍仁親王に、容保の孫・勢津子が嫁いだのです。
この時代には佐幕派だった人物の孫が続けて皇室に嫁いでおり、「後々まで維新の遺恨を残さぬように」という配慮がうかがえます。
個人の感情が突然・完全に消えることはないと思いますが、こうして少しずつ遺恨を和らげていくことが、未来に進むということなのでしょうね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
『全国版 幕末維新人物事典(学習研究社)』(→amazon)
松平容保/Wikipedia


