大久保利通

大久保利通/wikipediaより引用

幕末・維新

薩摩藩士から維新三傑へ脅威の出世 なぜ大久保利通は紀尾井坂で死を迎えたか

2025/05/13

明治11年(1878年)5月14日は大久保利通の命日です。

西郷隆盛、木戸孝允と並び、「維新三傑」と称される幕末維新の立役者ですが、近年の大河ドラマはじめ他のエンタメ分野でも割を食っているように思えます。

大河ドラマ『西郷どん』では【西南戦争】へ向かう過程で幼稚なイジメじみたことをして西郷隆盛を追い詰めたかと思えば、2021年『青天を衝け』では渋沢栄一をネチネチといじめる器の小さい政治家という印象。

一体なぜ、そんな描き方をされてしまうのか?

華々しく散った西郷が悲劇の英雄として崇敬されるのに対し、生き残って明治政府を立ち上げた大久保は計算高い人間だ――そんなバイアスがかけられやすい状況も影響しているのでしょう。

本稿では、そうしたフィクションでの印象をできるだけ横におきながら、大久保利通の生涯を辿ってみたいと思います。

大久保利通/wikipediaより引用

 


加治屋町郷中の秀才

文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町に住む薩摩藩士・大久保利世と福の夫妻に長男が生まれました。

幼名は正袈裟(しょうけさ)とされ、同年同月に長州藩では吉田寅次郎(後の松陰)が生まれています。

加治屋町に越したため、彼は加治屋町郷中に入りました。

郷中とは薩摩藩の少年教育制度のこと。

加治屋町が名高いのは、以下のように、歴史に名を残した者たちが多く輩出したためとされます。

大久保利通

西郷隆盛

西郷従道

大山巌

村田新八

黒木為楨

東郷平八郎

山本権兵衛

明治維新だけでなく、日清・日露戦争で活躍した名将まで輩出した、歴史的な土地と言えるでしょう。

司馬遼太郎は鹿児島県の鍛冶屋町を指して「一町内で明治維新をやったようなもの」と評した程ですが、土佐出身の切れ者である陸奥宗光からすれば、こうなります。

陸奥宗光/wikipediaより引用

「薩長の人に非ざれば殆ど人間に非ざる者のごとし」

その是非は後述するとして、鹿児島城下に熱気溢れる少年たちがいたことは事実。

大久保は、その中で身体頑健でもなく、薩摩藩士の自顕流は習得できなかったとされています(西郷隆盛も怪我のため剣術は挫折)。

その代わりに大久保は柔術を身につけ、指だけで畳を回す「畳踊り」なる宴会芸ができたとか。

※以下は薩摩武勇伝の関連記事となります

薩摩藩士トンデモ伝説
とても映像化できない薩摩藩士のトンデモ武勇伝!大久保 従道 川路 黒田

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フィクションでのキャラクター付けもあってか、大久保は「冷静で学問ができる」という個性が強調されがちです。

ただし、薩摩藩士には共通する特性があります。

郷中教育は体力訓練や剣術だけでなく、漢籍教養を学ぶカリキュラムも充実。

何よりも、少年期からチームワークを身につけています。

忠義に篤く、教養にあふれ、団結力がある――彼らはそんな特性を身につけてゆき、その様はロシア人から「極東のスパルタ」と評されたほどでした。

 


【精忠組】を率いて斉彬の目にかなう

天保15年(1844年)に元服した大久保は、正助(しょうすけ)と名乗り、弘化3年(1846年)には藩に出仕。

何度か名を変えていますが、本稿は以下「利通」とします。

嘉永3年(1850年)、藩主をめぐる御家騒動【お由羅騒動(高崎崩れ)】が勃発。

このとき父の大久保「利世は喜界島へ流され、利通も連座で罷免されてしまいます。

ただでさえ下級藩士である大久保家に、厳しい生活が待ち受けていました。

まだ20歳の利通は、父の無事を願い神社へ欠かさず日参し、借金をしてでも生きていく道を模索せねばなりません。

時代的には、この辺りから、幕末政治闘争の幕が開きます。

水戸徳川家の斉昭、福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らは、島津斉彬を薩摩藩主に押し上げるべく動き、彼らは老中・阿部正弘までお動かし、ついに嘉永4年(1851年)、斉彬が第11代藩主の座に就任。

島津斉彬/wikipediaより引用

これにより、多くの藩士たちが復帰を果たし、嘉永6年(1853年)5月、大久保利通も復職となりました。

そしてこの頃から、利通は西郷隆盛と共に幕末薩摩藩を動かす【精忠組】の領袖となります。

激動の時代に理想な政治を追い求めた薩摩隼人たち。

しかし、安政5年7月16日(1858年8月24日)、理想の名君である斉彬は急死を遂げてしまうのです――と、美化してまとめたくなりますが、少し冷静になってみましょう。

何事にも開明的であった斉彬は、確かにこの時代にあって優秀と判断できるのかもしれません。

しかし同時に彼は、思わぬタイミングで逝去してしまったためか、ロマンを込めて過大評価され、反対に弟の島津久光は絵に描いたような馬鹿殿扱いをされる傾向があります。

そこは注意して振り返る必要があるのではないでしょうか。

 

【将軍継嗣問題】

斉彬が亡くなる直前の時期、薩摩藩は中央の政治と大きな関わりができていました。

いわゆる【将軍継嗣問題】です。

徳川家定のあと、誰が将軍になるべきか?

薩摩藩は、家定の正室として篤姫を送り込み、政治工作に着手。

篤姫/wikipediaより引用

しかし、どうにも夫妻は子に恵まれず、そこで目的は、意にかなう次期将軍の擁立へと変貌してゆきます。

斉彬は【一橋派】の代表格であり、一橋家の慶喜を強力にプッシュしました。

慶喜は成人しており聡明である。黒船来航以来の混乱する政治情勢の中、彼こそ適任だ――というのはあくまで表向きの理由でしょう。

実際は、慶喜の父である斉昭と、そのブレーンである藤田東湖の推しが強かったという状況がありました。なにせ、当時は一橋派であった松平春嶽が、後に「あの斉昭の推しに騙された」と苦々しく振り返るほどです。

では薩摩藩はなぜ慶喜を推したのか?

というと、紀州藩の徳川慶福(のちの徳川家茂)より、一橋慶喜の方が声が通りやすいということでしょう。

外様大名の支援を受けて将軍になったからには、合議制のような体制ができるのではないか。そんな期待もあったのです。

結果、この問題は【南紀派(紀州)】の勝利、【一橋派】の敗北に終わりました。

ただし、南紀派というのも紀州を強く押すというよりはアンチ一橋派と言えます。

斉昭は強引すぎて危険である。あんな奴の息子を将軍にしたら幕府は崩壊するのではないか? そんな強い嫌悪感が背景にあったのです。

徳川斉昭/wikipediaより引用

そうした懸念があまりに強かったのでしょう。

井伊直弼は、強引な政治工作を推し進める【一橋派】に対し、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて【安政の大獄】で大弾圧を強行。

大久保利通と同年だった長州藩・吉田松陰も処刑されたことで知られますね。

しかし松陰は、軽微な嫌疑で捕らえられていただけで、本来ならすぐに釈放のはずだったのに、自ら「間部詮勝の暗殺」という驚きの犯行計画を口走って処刑されていますので、ここも注意が必要です。

吉田松陰/wikipediaより引用

いずれにせよ薩摩藩士もこの弾圧には落胆するしかありません。

中でも計画にのめり込んでいた西郷隆盛。

懇意にしていた福井藩の若き俊英・橋本左内も処刑されると、傷心の西郷は僧・月照と入水自殺をはかります。

結果、月照のみが命を落とし、西郷は生き延び、大久保の生涯に関わっていくこととなったのです。

 


「国父」久光の信頼を得る

西郷隆盛が情熱的に活動する一方、大久保利通は冷静でした。

ここはいっそ島津久光に取り行ってみてはどうか?と画策。

久光は斉彬の弟であり、彼自身は藩主ではなく、12代藩主・島津茂久の父にあたります。「国父」と呼ばれ、まだ若い茂久に代わり、藩政を取り仕切っていました。

島津久光/wikipediaより引用

西郷隆盛との相性は最悪でありながら大久保とはそう悪くなく、利通は、両者が得意とする囲碁を介在しながら、久光との対話を進めます。

久光は、幕府よりも朝廷を重んじる尊皇攘夷思想が込められた上申書に、一応は目を通しながら、それに従うつもりは毛頭無し。

情熱的な若い連中の手綱を捌くにはどうすべきか?

大久保利通に精忠組を牽制させながら、久光は藩政への介入を避けてゆきます。

久光は、暗愚どころか幕末でも有数の切れ者ゆえに、イエスマンであった長州藩の「そうせい侯」こと毛利敬親と比べて扱いにくいとされるのでしょう。

暴走する家臣の手綱を握るのは“殿”として当然の政治的判断とも言えますが、薩摩隼人の暴発は簡単には収まりません。そして……。

安政7年3月3日(1860年3月24日)――雪の降る江戸の町に血の雨が降ります。

【安政の大獄】で大鉈を振るった井伊直弼が暗殺された、ご存知【桜田門外の変】が勃発するのです。

『桜田門外の変』を描いた月岡芳年の作品/wikipediaより引用

このとき現場には、独特の“猿叫”も響いていたことでしょう。

なにせ、首を落としたのは薩摩藩士の有村次左衛門だったのです。しかも有村の弟・雄助は、京大阪で挙兵すべく西へ向かっていました。

激怒した久光は、切腹を命じます。

利通はこの時、時節到来とばかりに京都および江戸藩邸への出兵を提案しましたが、久光は却下し、有村雄助に追っ手を放って殺害させたのです。

久光の行動の意味はある意味当然でしょう。

井伊直弼の殺害を図った水戸藩士たちは脱藩者であり、まだ藩の責任は回避できなくもありません。

しかし有村兄弟は藩に所属していた。

ゆえに、きっちりと迅速に処断すべきだと決断したのです。

利通にしてみれば、そんな久光の態度に失望を覚えたかもしれませんが、薩摩を預かる責任者として理性ある行動をとったと言える。

こうした意見の齟齬ゆえか、精忠組たちはこう考えるようになります。

久光にはない、斉彬公の遺志を継ぎ、実現するのは我らである――これにも注意が必要でしょう。

松下村塾出身者たちが、ことあるごとに吉田松陰の遺志を持ち出すのと同じく、大義名分論として利用しているとも思えるのです。そもそも斉彬と久光の兄弟は親しい仲でした。

一橋派の謹慎が解けると、薩摩藩は上洛を果たし、幕末政局の中心に居座ることに成功します。

どこまでが久光自身の意思なのか、大久保利通らの介入がどの程度あったのか。

それはなかなか難しい問題といえます。

並び称される大久保利通と西郷隆盛――その幕末期の歩みはかなり異なります。

それは島津久光との関係が強く影響しているためで、久光と相性が最悪の西郷隆盛は幾度も衝突し、結果、二度も流罪に処されました。

一方で大久保利通はそつなく命令をこなし、【寺田屋事件(騒動)】の処理では、明治天皇の恩人・田中河内介を殺してしまうほど。

 

田中河内介/wikipediaより引用

政治的な局面で冷静な手駒として動くため、大久保利通に冷たい印象がついてしまうのも致し方ないのかもしれません。

幕末の薩摩藩士は、長州藩士や水戸藩士よりもずっと冷徹で、別に大久保だけのことでもないのですが……。

冷徹で情報把握にも長け、久光の命令を淡々とこなし、さらには長州や会津ともぬかりなく協調できる。

それゆえ上層部からの信頼も厚く、出世するのはある意味当然と言えるのかもしれません。

 

久光の上洛

島津久光に協調した大久保利通は、どんな動きで薩摩藩を支えていったのか。

その動きを見てまいりましょう。

若かりし頃の大久保利通/wikipediaより引用

安政の大獄】で処断された一橋派が息を吹き返すと、久光は動きました。

このとき西郷隆盛は「地ゴロ」と久光を小馬鹿にし、流刑に処されています。

しかし、結果的にこれは大成功をおさめます。

文久2年(1862年)、春、上洛した久光は暴発する精忠組を処断しました。

残酷な悲劇とされるものの、処断した剛腕により、久光自身の存在感は増したのです。このころの久光は幕政の立て直しを考えていました。

 

生麦事件から薩英戦争へ

同年に【生麦事件】が発生し、その翌年【薩英戦争】へ発展。

薩英戦争で鹿児島に押し寄せるイギリスの軍艦/wikipediaより引用

このとき薩摩藩には新たな選択肢が生まれました。

当時、イギリスは慎重な幕府に手を焼いていました。

貿易を進め、大英帝国の傘下に組み込みたいのに、幕府は警戒してなかなかガードが固く、しまいにはフランスへ接近していきます。

これではまずい。いっそ手強く慎重な幕府を倒し、こちらの言うことを聞く従順な傀儡政権を建ててはどうだろう?

イギリスは清にそうしたように、日本を侵攻する策も検討していました。木造建築の多い日本の都市を艦砲射撃で焼き払う計画もありました。

けれども、そんなことをするより、手付かずのまま従順な貿易相手国を作った方が旨みがある。

幕末の日本は、自力で植民地化を回避できたというより、清ほど植民地化するメリットがないと判断されたことが大きいのです。

日本をうまく利用したい。そう模索するイギリスにとって、薩摩は実にうまい駒になるとこの戦争は証明したのでした。

一方で薩摩も、技術力があるイギリスが接近してくるとなれば、悪い話ではありません。

 

参預会議

京都政局で存在感を増す久光。

ここで一橋派にとって理想の政治体制が生まれます。

【参預会議】です。

◆参預会議のメンバー

徳川慶喜(一橋徳川家当主・将軍後見職)

松平春嶽(越前藩前藩主・前政事総裁職・一橋派)

山内容堂(土佐藩前藩主・一橋派)

伊達宗城(宇和島藩前藩主・一橋派)

島津久光(薩摩藩主島津茂久の父・一橋派)

松平容保(会津藩主・京都守護職)

文久3年(1863年)には孝明天皇の意思を受け、【八月十八日の政変】で長州藩を中心とした過激な尊皇攘夷派を追い出します。

しかし、この理想的な政治体制をぶち壊したのが慶喜でした。

徳川慶喜/wikipediaより引用

様々な政治問題で揉めている最中の文久4年(1864年)2月、参預会議のメンバーが集まる酒席で慶喜は、久光、春嶽、宗城を指さしてこう罵倒したのです。

「この3人は天下のバカ、極悪人だ! 将軍後見職の俺と一緒にすんじゃねーよ!」

結果、久光が激怒し、体制は崩壊しました。

 

呉越同舟の君臣、討幕のきざし

元治元年(1864年)6月15日、【禁門の変】が勃発。

御所にまで砲弾を撃ち込まれた孝明天皇の怒りは、再び長州藩へ向けられました。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用

同時期、長州藩士と懇意であった水戸天狗党が強引な上洛を企んで崩壊していますが、その天狗党が頼みとしていた徳川慶喜は、過酷な処断を決行。

【天狗党の乱】と呼ばれ、あまりに酷い結末を聞いた大久保利通は、日記にこう記しています。

「4日に武田(耕雲斎)以下、27人を全員斬首した。全く獣のようなひどい扱いで、聞くに堪えない話だ。これぞ幕府滅亡のあらわれではないのか」

一方、孝明天皇の怒りを制御せず、長州藩への処断にこだわる朝廷にも失望する大久保利通。

果たして久光は大久保利通の失望をどの程度把握できていたのか。

流罪から戻った西郷隆盛は、【第一次長州征討】で露骨なサボタージュ姿勢を見せます。

【第二次長州征討】では大久保利通が手綱を握り、消極的な姿勢をとり幕府を抑え込みます。

背後ではイギリスも動いていました。

幕府軍は海路を使えば効率的に長州藩を攻撃できましたが、それに待ったをかけたのです。

「戦闘において我が国の船が巻き込まれては困ります。戦闘を行う船の航行はやめていただきたい」

イギリスが海路を封鎖する形で、長州藩を援護。

かくして動かしやすい傀儡政権を立てるイギリスの計画は一歩前進したのです。

このときのことを振り返り、幕臣だった福沢諭吉は苦々しく振り返っています。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用

「海外勢力の力を借りてでも、なんとしても長州を叩き潰しておくべきだった」

福沢はおそらく、イギリスの介入を知っていたのでしょう。幕府も、長州も、イギリスの思惑の中で動いていたことを。

幕府はフランスの力を借りられたのですから、福沢の意見も納得できます。

 

土佐藩と連携するもすぐに決別

このころ、別の道を模索する動きが土佐藩にはありました。

脱藩浪士である坂本龍馬と中岡慎太郎の独断のように誤解されがちではあるのですが、山内容堂とその意を受けた後藤象二郎、板垣退助らの意向もあります。

土佐藩の政治的なビジョンは見えにくいものがあり、現在進行形でさらなる研究が進んでいます。今後もご注目ください。

そんな土佐藩では、西洋諸国のような合議による政治思想を学びつつありました。

長州藩を袋叩きにしてどうなるというのか?

デモクラシーによる政治ができないか?

そんな動きから、まずは薩摩と長州を結ぶ【薩長同盟】が慶応2年(1866年)に結ばれます。

ただし、薩摩藩と土佐藩は齟齬が早々に生じてはいます。【薩土盟約】は慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬までしか持ち堪えていません。

薩摩藩は武力討幕へ舵を切り、そこが土佐藩と一致しなかったのです。

土佐藩は徳川慶喜と永井尚志と連携し、【大政奉還】の実現に尽くします。

 

王政復古では勝負が終わらない

なぜ土佐藩と徳川慶喜は王政復古を目指したのか?

彼らはわかっていました。朝廷には日本の政治をこなせるだけの力はない。権力を渡したところで持て余し、結局は慶喜に泣きついてくるだろうと。

大久保利通もそこは理解しています。では、いかにして出し抜くか?

 

強引な武力討幕へ

幕末の最終局面は、どう徳川幕府を終わらせるか――そこにかかってきます。

ソフトランディングか? ハードランディングか?

というと大久保利通は後者でした。

前者に力を尽くしていた者たちは多くが凶刃に斃れているため、大久保はじめ薩摩藩は坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺犯黒幕としてもその名を挙げられます。

実際は、会津藩・松平容保の指示によるものであり、あてはまりません。

しかし、薩摩藩が武力討幕回避を目指していた赤松小三郎を殺害したことは確定。

赤松小三郎/wikipediaより引用

命じたのは大久保利通でした。

薩摩藩が隠蔽したため歴史に埋もれていた赤松ですが、近年注目度が高まっています。

大久保利通はじめ、薩摩藩上層部が強引な武力討幕を進めたことは確実なのです。

そしてこの強引な討幕には、実は薩摩藩ですら納得できていません。戦死者も出て、財政負担も大きく、不満が鬱積してゆきます。

何より島津久光からすれば、自らの預かり知らぬところで決められたことでした。

 

なぜ武力討幕したかったのか?

なぜ、当時から下策とされた武力討幕を強引に進めたい者たちがいたのか?

維新を目指すものたちの性格に結び付けられます。

西郷隆盛以下、ともかく血の気が多い連中が揃っていた。あるいは徹底的に佐幕勢力を潰すことで、反撃の目を摘むとか、朝敵とされたことを恨む長州藩の復讐目的であるとか。

色々と挙げられますが、武器弾薬なり勝機がなければ内戦を起こすことはできません。

討幕を目指す側には勝機があり、かつ、イギリスも、日本国内で内戦を引き起こして貰いたい動機がありました。

要はカネです。

このころアメリカでは南北戦争が終結。その戦場で使用された中古武器を日本で売り捌けば、イギリスにとっては実に美味しい話でした。

金を儲け、イギリスの経済圏に組み込めば、後々、極東の牽制にも役立つ。

下手に植民地にするよりも、傀儡政権を極東に作っておくほうが安上がりでうまい。

薩摩藩の背後にこうした動きがあったことは確かです。五代友厚は、日本に武器を売り捌いていたグラバーと懇意です。

イギリスとしては横浜や江戸の被害は防ぎたかったものの、東北諸藩の被害に関心はありません。

彼らはその後、戦火で荒れ果てた東北地方を旅して回り、

「こんな寂れて遅れた人々は負けて当然である」

と、とんでもなく無礼な記録を残しました。

大久保利通は、朝廷にも幕府にも失望していました。

どちらにも政権は渡さない。自分たちで新たな国作りをする。たとえ島津久光はじめ大勢に理解されないであろうと推し進める腹づもりでした。

政治的失脚からの復帰を果たしたい岩倉具視。傀儡政権を作りたいイギリス。

国内にも国外にも、勝ち馬に乗りたがる野心家はいますので、大久保利通は彼らと手を結びます。

そして、その計画は薄氷を踏むようにして成功したのです。

鳥羽・伏見の戦い】は、実はそこまで圧倒的な差がついていたとは言い切れません。東西両軍の装備の差も大きくはなく、幕府もフランス式最新鋭のシャスポー銃を装備していました。

徳川慶喜の情けない逃亡劇あっての大勝利といえます。

その後の【江戸城無血開城】にしても慶喜が完全に戦意を喪失していたからこそ実現していた。

幕臣随一の切れ者である小栗忠順が考えた策を見て、討幕側はこう反応しました。

小栗忠順/wikipediaより引用

西郷隆盛「偉大なる権謀家である」

大村益次郎「実現していたら命がなかった。もしも実行されていたら我々は勝てなかった」

江藤新平「ここまでの策を立てながら実行しなかったのは、小栗が間抜けだからね」

作戦を却下された小栗は、その後、おとなしくしていたにも関わらず、西軍に冤罪を着せられ、強引に斬首されています。

近代日本への歩みを刻んだこの知られざる偉人は、わけのわからぬ強引な展開で無惨な死を遂げたのです。

江戸城を引き渡された西軍は、中へ乗り込むと幕臣たちの神経を逆撫でするように慰霊をにぎにぎしく行いました。

この【江戸無血開城】にもイギリスの意向があります。

英国公使ハリー・パークス/Wikipediaより引用

貿易港の横浜に近く、魅力ある市場でもある江戸を戦場にしたくない。

君主を殺してはまるでフランス革命であり、イギリスが支援する政府の始まりがそれでは困る。

そんな思惑がありました。

東北諸藩はどうか?

松平容保は家督を喜徳に譲って隠居し、戦う意味はないと恭順しました。

が、西軍の進軍は止まらず【戊辰戦争】は続いてゆきます。

なぜここまでして大久保たちは内戦を引き起こしたかったのか。

東北諸藩にはプロイセンが近づきました。

プロイセン商人のヘンリーとエドワードのスネル兄弟は、会津藩の武器を売り捌きます。プロイセンは蝦夷地割譲まで視野に入れていました。

【戊辰戦争】の引き起こした災厄を、新政府はどこまで認識できていたのでしょうか。

 

見切り発車だった明治政府

明治維新を強行する大久保たち。

彼らはどんな国作りを考えていたのか?

ともあれ明治時代がいったん幕を開ければ次から次へと事を運ばねばならず、まずは「江戸」が「東京」となり首都とされるわけですが、この決定に関しても一悶着ありました。

明治天皇の東京行幸を描いたフランス新聞雑誌『ル・モンド・イリュストレ』1869年2月20日刊行号内の挿絵/wikipediaより引用

これも大久保利通の挫折です。

彼は重ねて大阪遷都を建白するも、却下されました。

そうなれば天皇を東に迎えねばならないと焦る大久保。しかし、これもぐずぐずしていて年をまたいでしまいます。

幕臣最後の悪あがきのように軽視されがちな【函館戦争】も、実は問題でした。

蝦夷地に独立国ができるのではないか?

そう期待し、鼻息を荒くするプロイセンはじめとする諸外国もいたのです。

しかも海軍力では幕府が勝っており、新政府は明治2年(1869年)になってから、イギリスの援助を得てようやく内戦を終わらせました。

明治政府は、イギリスという教師に一から国作りを教わっているかのような、いわば幼い生徒でした。

小栗忠順はじめとする幕臣たちはイギリスの介入を警戒していたことは前述した通りです。

幕府が想定していた“悪い状態”で明治政府はスタートを切ったのです。

明治時代は実に冷たい空気の中で始まりました。

江戸っ子たちは徳川時代を恋しがり、「おはぎ(長州)とおいも(薩摩)のせいで無茶苦茶だ」と嘆くばかり。

幕臣たちは政府に仕えることだけはごめんだと、顔を背けてしまう。

大久保利通にとっての悲劇は、地元・薩摩ですら、嫌われてしまっていたことです。

帰郷した際、刺さるような目線の冷たさに、彼は困惑したといいます。

無理もないことでしょう。【戊辰戦争】では薩摩藩からも被害は出ていました。

彼らにしてみれば身内に犠牲者が出て、経済的にも被害を受けたにも関わらず、大久保利通たちは東京で贅沢三昧をしているように映っていたのです。

そしてこの薩摩の抱く敵意は、その後も和らぐどころか、ますます強まってゆきます。

 

版籍奉還と廃藩置県

明治2年(1869年)に【版籍奉還】が実施され、明治4年(1871年)の【廃藩置県】では、島津久光が猛然と反発しました。

久光が明治になってから語った言葉として、こんな荒唐無稽なものが伝えられています。

「俺はいつ将軍になるのだ」

聡明な久光がこんな愚かなことを言うわけありませんが、それでも一部の真実はあったように思えるのです。

久光は【参預会議】の構成員です。

あの体制は近代国家の合議制を先駆ける先進的なものであり、幕末の賢侯や明君と称される大名は、合議制政治を進めたいと考えていた人物がいます。

松平春嶽、山内容堂、徳川慶喜もここに入ります。

松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

政治的な知識と経験のある幕藩体制での君主たちが意見を出し合い、新たな国を運営する。

そんなビジョンがおぼろげながらあったと思える言動が残されていて、島津久光もそうだとしても、何ら不思議はありません。

大久保利通や西郷隆盛は、久光を一切政治に関わらせず、一方的に決めたことを履行しろと押し付けてきます。自分たちの言うことを聞かない駄々っ子扱いをします。

これに久光が怒らないわけがありません。

忠誠心の面でも問題があります。

不満はあれど、駿河までついていった幕臣たち。

会津松平家を必死で守り抜こうとし、斗南藩で苦労した会津藩士。

殿様への態度はさておき、吉田松陰の神格化はぶれない長州藩士。

こうした人々と比べて薩摩藩士はいったい何なのか?

そう問われた時の言い訳として「久光を貶め、斉彬をことさら持ち上げる」ように見えるのです。

 

中央集権化で西洋列強と向き合う

明治政府は合議制をしようとは考えていませんでした。

中央集権化をはかることで、不平等条約を撤廃し、西洋列強と並ぶことを目指す。

明治時代といえば「四民平等」と日本史の授業では習います。

大河ドラマでも平等な社会が訪れたかのように扱われる。その結果、『西郷どん』では明治維新とフランス革命を似たようなものとして扱うという、決定的な誤誘導までなされていました。

そうではありません。明治政府は薩長土肥、後に土肥を抜いた薩長に権力を集中させることで、国家を強靭にしようとはかったのです。

政財官三者一体となった汚職は続きます。

権力を傘にきた悪事の隠蔽。

犯罪の増加。

そうした現実に国民は嫌気がさしていました。

◆幕臣および佐幕派地域の困窮

→幕臣は無職となり、困窮に苦しみました。

公共事業の整備、教育や医療施設の拡充も、首都圏および薩長の地元が優先されます。

◆薩摩藩出身者の暴力沙汰

長州は金に汚い。薩摩は暴力的。そんな汚名があります。

現に明治天皇の前で流血沙汰をやらかすような人物もいたのですから、無理もないこと。

中でも最悪の事例が、黒田清隆のドメスティックバイオレンス殺人事件を薩摩閥ぐるみで隠蔽したことがあげられます。

黒田清隆/wikipediaより引用

その主導者は大久保利通でした。

◆攘夷とは何だったのか?

西洋列強に追いつけ――維新が済んで突然そんなことを言われても、理解できない人は当然のことながら大勢います。

あれほど外国人の殺傷を重ね、軟弱な幕府にはできない攘夷を断行する!と言っておいて、今度は西洋を真似しろとはどういうことか。

そんな手のひら返しについていけない人がいるのは当然のことと言えました。

 

西洋に国作りを学ぶ

見切り発車だった明治維新。

そんな中、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日までという長期間にわたり、岩倉使節団がアメリカとヨーロッパに向けて出発します。

岩倉使節団(左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通)/wikipediaより引用

不平等条約改正が目下の政府の課題でした。

その責任は旧幕府のせいとされ、日本史の授業ですらそう習いますが、認識を改めましょう。

岩瀬忠震ら幕臣が締結した際はそこまで不平等でもありません。

攘夷を叫ぶ志士たちが外国人殺傷テロを繰り返した結果、どんどん条件が悪化していったのです。

西洋事情の見聞にせよ、幕府は【万延遣米使節団】はじめ幾度も派遣しています。

このとき一本のネジを手に入れた小栗忠順は混乱の中、冤罪で処刑され、大隈重信はこのように語っています。

「明治の近代化は、ほとんど小栗上野介(忠順)の構想を模倣したに過ぎない」

大隈重信/wikipediaより引用

期間がやけに長く、無駄も多い岩倉使節団は当時から批判されましたが、それでも大久保利通には大きな影響を与えました。

イギリスで経済の重要性を知り、ドイツで国家の統治をビスマルクに学ぶ。

大久保利通は、殖産興業の重要性を痛感したのです。

まずは国を豊かにせねばならない――そう国家のビジョンを携え、帰国しました。

こう書くと希望に満ちた話のように思えます。

しかし、海外に渡航し、国内の殖産興業の重要性を痛感した日本人ならば、小栗忠順がとうに達成できています。

アメリカから小栗はネジを持ち帰ります。当時の日本にはない技術です。

このネジをわが国でも作るのだ――そう考えた小栗が先頭に立って作り上げた横須賀造船所から、日露戦争における【日本海海戦】に向けて、戦艦が出立しました。

大久保利通が西洋から学んだことは重要でしょう。

しかし、小栗忠順を殺さずに活躍させていた方が、近代化の早道だったのではないでしょうか。

 

大久保政権

大久保利通たち政府首脳がいない間、国内居残り組に対しては「政治改革を進めない」よう釘が刺されていました。

しかし、不手際もあって予定より大幅に長びいた海外旅行です。国が動かないわけがありません。

江藤新平が太政官制の改革を推し進めている一方、地方では不平士族を中心にきな臭い動きが起き、西郷隆盛も悩んでいました。

神経質でストレスを溜めやすい西郷隆盛――そんな彼を久光は「安禄山」と苦々しく呼びました。

安禄山とは、唐代に反乱を起こした奸臣の代表格で大柄。肥え太った裏切り者と批判していたことになります。

安禄山/wikipediaより引用

そうした中で、西郷隆盛は【征韓論】を掲げます。

朝鮮に施設を派遣する

相手は断る

開戦

日朝戦争で武威を見せつけ、「皇威」(天皇の権威)を西洋列強に示す

なんなら西郷隆盛が自ら使節として出向き、敢えて命を捨てる。そんな無謀な作戦です。

明治6年(1873年)10月に【征韓論】は閣議決定され、当初は西郷隆盛の勝利に思われました。

しかし大久保利通は、太政大臣である三条実美が急病に倒れた合間を縫い、岩倉具視と謀って天皇にこの決定を拒否させ、征韓論を葬り去ります。

話を西郷と大久保に戻します。

両者の対立軸には「富国」と「強兵」があります。

明治政府のめざすものとして「富国強兵」と日本史の授業で習った方は多いことでしょう。

しかし、2つの言葉は共に並ぶというより、対立軸にある。

大久保利通は「富国」優先――経済と殖産興業を高めることで、国の強化をはかりました。

西郷隆盛は「強兵」優先――まずは戦争に勝利して、国の威力を見せ、事態を打開しようとしたのです。

性格の違いといった粗雑な対立構図がなされがちですが、そう単純なことでもありません。

西郷隆盛が鹿児島へ戻る一方、大久保利通は自身が成し遂げたい政治を邁進します。

イギリスを規範とし工業化を進め、その立憲政治を手本とする。それが彼の理想でした。

その結果、西郷隆盛とその一派は明治10年(1877年)に【西南戦争】へ突入し、程なくして壊滅しました。

軍服姿の西郷隆盛/Wikipediaより引用

これは紛れもない悲劇であり、大久保利通の故郷を荒廃させた惨事です。

しかし政治的にみれば、続発していた不平士族の反乱最終戦といえました。

大久保利通が下野させたのは何も西郷隆盛一人ではありません。

板垣退助ら土佐藩出身者は内戦ではなく【自由民権運動】に活路を見出そうとします。

何かと目障りな肥前藩出身の江藤新平ら政敵も下野させ、大久保利通一強の政治体制を実現させます。

大久保利通は【天狗党の乱】で、無惨な処断をする幕府を見てこれではもう持たないと直感しました。

しかし、そんな彼は政治的に対立した江藤新平(薩長土肥の肥前藩出身)を追い込み、斬首刑にまで追い詰めました。

江藤新平
処刑後に斬首写真を晒された江藤新平|肥前藩の逸材41年の生涯まとめ

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大久保利通は江藤新平に弁舌で勝つことができず、恨みを抱いていたといいます。

そんな敵が首になったことに対し、大久保利通は日記に「醜態だ、笑止だ」と冷たく記しています。

かくして薩長土肥から土肥がぬけ、薩長のみが突出。

前述の通り、板垣退助が「薩長のみが人であるかのようだ」と嘆いた体制ができあがるのです。

大久保政権――そう呼ばれる状態でした。

 

紀尾井坂に散る

終わりはあまりにも呆気なく訪れました。

西南戦争の翌年となる明治11年(1878年)5月14日――皇居へ向かう大久保利通の馬車が、紀尾井坂周辺の清水谷にさしかかりました。

その刹那、島田一郎ら6名の士族が襲い掛かり、大久保利通は暗殺されたのです。

享年49。

大久保利通/国立国会図書館蔵

なぜ大久保利通は殺されねばならなかったのか?

島田一郎当人がその理由を記しています。

・公式に議論を行わず、民権を弾圧し、政治を私物化する

・法律を朝令暮改し、民のためではなく官僚のために制定している

・必要かどうかわからない土木工事を行い、国の財を無駄に使う

・政府批判をする者の口を塞ぎ、内乱を誘発している

・外交を失敗し、日本の権威を失墜させている

もしも島田一郎のような人物が、言論により政府批判ができていたら? テロリズムではなく、別の手段を見出していたかもしれません。

しかし政府は彼らの口を塞ぎました。

大久保利通ら維新を成し遂げた人々は、テロリズムこそ歴史を動かすことを【桜田門外の変】以来、痛感しています。

大久保は自分のゆく道を塞ぐ者たちを何人も屠ってきました。

江藤新平の斬首を笑い飛ばしたこともあります。

江藤新平/wikipediaより引用

テロリズムで自分の意見を通し、政敵の口を塞いできた、その刃が自分自身にめぐってきたのです。

陸軍人を目指す少年時代の柴五郎は、西郷隆盛と大久保利通の死を当然のこととして受け止めました。

明治維新の際に陰謀を企てた。

世間の耳目を集めるために、会津を血祭りにあげた。

いかに国家の柱石といえども、許せるわけもない。

自らの暴走、専横の報いをその命で償った。

暴走の結果で、同情する気なぞ沸くはずもない。

非業の最期は当然の帰結だ――。

若気の至りだからと、このことを反省するはずもない。後に彼は、そうきっぱりと言い切っています。

大久保利通の死は、この時代の歪みが凝縮されているといえるものでした。

幕末から明治にかけて、日本人はテロリズムの効能を知りました。

あの井伊直弼を殺したことで幕府は崩壊に向かった。テロリズムはそう正統化されたのです。

司馬遼太郎はテロリズムは嫌いといいつつ、【桜田門外の変】についてはその功があったと認めています。

目的のためならば敵を追い詰め、主君である島津久光を欺き、無用な内戦を引き起こし、友である西郷隆盛をも蹴落とす。

テロリズムと謀略に満ちた手段で道を切り拓いた大久保利通が凶刃に倒れ、今日に至るまで冷酷と評価されるのは当然の帰結とは思えます。

明治政府は一致団結するどころか、内乱、政争、分裂、謀略に明け暮れ、国の行く末もさだまらぬまま、歴史の道を歩んでゆきます。

大久保利通と西郷隆盛が対立した「富国」と「強兵」は、結果的に「強兵」が勝利しました。

【日清戦争】の莫大な賠償金と、朝鮮半島と台湾を支配下においた日本は、そのバブルに酔いしれたのです。

しかし、それも【日露戦争】までのこと。

あれほど苦労して、英米の仲裁ありきで辛勝を得たにもかかわらず、【日清戦争】ほどのうまみがもたらされません。

その不満で暴徒化した【日比谷焼き討ち事件】を政府は厳しく弾圧します。

 

結局、明治という国家は何がしたかった?

維新を成し遂げ、明治初期に国家のゆく道をある程度定めた大久保利通。

彼の評価は、明治という国家への評価次第で変わります。

これは国によっても異なり、イギリスは苦い思いとともに振り返っています。

大英帝国の帝国主義に組み込むことにうまく成功したとはいえ、第二次世界大戦で日本相手に痛い目にあいました。

飼い犬に手を噛まれたようなものとして認識されているのでしょう。イギリスからみた日本近代史とは、手痛い失敗です。

中国は全否定するかというと、そう単純でもありません。

江戸時代までは同じ価値観を共有でき、齟齬もあったとはいえ、それなりによい関係を築いていた。

それはなぜか?

日本が西洋列強に倣ってしまったからではないか?

そう考え、もしも東洋の価値観に戻ってくるのならばあたたかく受け入れるという姿勢を見せることもあります。

果たして日本はどうか?

これがどうにも進んでいません。アジア・太平洋戦争の敗北まで、政府は来日外交官の記録すら隠そうとしていました。色々と不都合だったのでしょう。

では今は、そうした記録は共有されているかというと、そうでもありません。

小栗忠順、岩瀬忠震、阿部正弘栗本鋤雲といった幕臣たちの再評価も、一般にまでは浸透していない。

赤松小三郎の再評価に至ってはまだまだこれからといえます。

平成27年(2015年)、世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が登録されました。

産業とは無縁の松下村塾が含まれる一方、小栗忠順らが作り上げた横須賀造船所が漏れているのですから、どうにも不可解なことです。

そして明治時代の誤解は、エンタメによって再生産されます。

近代史を扱った作品は少ないうえに、どうにも歴史観がおかしいと批判を浴びる人気作が出てきています。

漫画ならば『るろうに剣心』が該当しますね。

そしてNHKのドラマが、2010年代以降おかしいのではないか?とあやぶまれています。

最新の研究を反映するどころか、歴史修正的であり、その代表格が五代友厚でしょう。

2015年朝の朝ドラ『あさが来た』と2021年大河ドラマ『青天を衝け』に登場。

大久保利通のもとでイギリス商人グラバーとも手を結び、武器を売り捌いた実像を、イケメンで経済通で便利な王子様風のキャラクターで上書きされてしまいました。

2010年代移行の近代史大河ドラマは、2013年『八重の桜』を例外として、歴史観点からみると評価できるものがありません。

ターニングポイントとなったのが、2009年から3年間放映されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』であったと指摘されます。

明治時代はロマンと共に語られてきました。司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』こそその代表格。

作者自身そこを警戒したのか、生前は映像化を禁じていたものの、死後ドラマにされてしまいました。

その冒頭に、野暮を承知でツッコミをいれていきましょう。

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

「まことに小さな国が」とはどことの比較でしょうか。隣にある朝鮮は?

小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。

産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。

明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。

たれもが「国民」になった。

江戸時代にも各藩で工業や商業が発達していました。

人材といえば旧士族しかいないというのも、いかがなものでしょうか。

幕末には活躍した豪農出身の人物も多数輩出されています。

明治維新以前から、幕臣を中心に国家について学んでいます。維新のあとに知ったというのは大袈裟です。

不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。

この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。

社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、教師にも、軍人にも、成り得た。

藩閥政治の弊害を考慮しておりませんし、女性の立場もまるで考えていないと思います。

板垣退助が聞いたら苦笑しそうな認識ではありませんか?

この時代の明るさは、こういう楽天主義(オプティミズム)から来ている。

明治時代の暗さを見ていないだけでは?

今から思えば、実に滑稽なことに、コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。

陸軍も同様である。 財政の成り立つはずがない。

幕末の時点で横須賀造船所があったのに。それを司馬遼太郎が知らないはずもないのに。

が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民の少年のような希望であった。

近代国家を作り上げるビジョンそのものが、実は曖昧であるし、統一した見解がないせいで内戦が続発しました。

この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。

主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない。

が、ともかく我々は三人の人物の跡を追わねばならない。

意地の悪い言い方ではありますが、日露戦争は英米の思惑ありきであり、このようなまとめ方はどうなんでしょう。

四国は、伊予松山に三人の男がいた。この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇跡を遂げた。もう一人は、俳句短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、 その中興の祖となった俳人・正岡子規である。

山本権兵衛曰く、日本海海戦の勝利は小栗忠順のおかげであったそうです。

彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。

いや、江戸っ子はさんざん過去を振り返り「徳川様のころはよかった」と嘆いていました。

上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。

その背中を押しているのは主にイギリス政府です。

我ながら何をしているのか?とは思います。

しかし、こういうドラマをNHKが放送してしまう。大河ドラマも不正確で最新の史実をアリバイ程度に取り入れるだけ。これでよいのでしょうか?

『坂の上の雲』の歴史観には問題がある。

戦争と植民地支配で巨利を目指す「富国」に舵を切った日本。軍国主義へ続く道は、上り坂か、下り坂であったのか。そのことを問い直す時代です。

2022年度、全国の高校で新科目「歴史総合」が必履修科目としてスタートし、近代史教育に力が注がれることとなりました。

そして2027年には『逆賊の幕臣』で小栗忠順が描かれることになりました。

幕末から明治がどう学ばれていくか、注目してゆきたいところです。


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【参考文献】
笠原英彦『大久保利通』
『日本政治史入門』
板野潤治『未完の明治維新』
山本義隆『近代日本一五〇年』
筒井清忠『明治史講義【人物篇】』
宮地正人『幕末維新像の新展開』
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』
一坂太郎『暗殺の幕末維新史: 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』
エイコ・マルコ・シナワ『悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治』
須田努『幕末社会』
半藤一利『幕末史』
三好徹『政・財 腐蝕の100年』
福間良明『司馬遼太郎の時代』
斎藤 貴男『「明治礼賛」の正体 (岩波ブックレット) 』

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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