山岡鉄舟/wikipediaより引用

幕末・維新

山岡鉄舟はどう西郷を説得したか? 江戸無血開城~陰の立役者53年の生涯

さて、問題です。

Q.幕末に西郷隆盛を説得した、名前に「舟」のつく幕臣は誰でしょう?

A.勝海舟

ブブーーーーーーーッ!

惜しい。
実は半分正解で、答えは勝海舟と
山岡鉄舟
になります。

読み方は【やまおかてっしゅう】ですね。

歴史好きの方にはよく知られた名前であり、【幕末の三舟(ばくまつのさんしゅう)】として、

・勝海舟
高橋泥舟(たかはし でいしゅう)

と並び称される傑物。

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その生き様はまるで「武士の鏡」のようであり、はたまた剛毅で真摯な心の持ちようは、現代人の魂をも熱く揺さぶる特別な存在でした。

一体、山岡鉄舟とは?

 

神陰流、槍術樫原流、北辰一刀流

山岡鉄舟(本稿はこの名で統一)は天保7年(1836年)、徳川家康以来の旗本・小野朝右衛門の長男として江戸に生まれました。

後述しますが、槍の師範である山岡家に養子として入ったのが安政2年(1855年)のこと。同家の跡を継いで山岡姓となりました。

ともかくこの山岡、武芸のサラブレッドとも言えるほどの血筋でして。

実家の小野家も武芸の家柄、母の家は剣豪・塚原卜伝を祖先に持つというのです。

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ご本人にも、やはり才能があったのでしょう。

幼い頃から神陰流、槍術樫原流、北辰一刀流を学び、メキメキと力を付けます。

16才で母、17才で父を亡くすという不幸に見舞われながら、山岡はたくましく成長。

身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)という、当時としては規格外の体格にまで育ちました。

幕末から明治時代の男性平均身長が155センチ程度とされていた時代にこの体格です。

現在だったら2メートル越えくらいの感覚でしょうか。

そりゃあ、強いのも、納得ですね。

 

「幕末の三舟」の一人・高橋泥舟は義理の兄弟

嘉永5年(1852年)。
山岡は父の死に伴い、江戸へ戻って幕臣となります。

父は生前、3500両もの大金を貯めていました。

「俺が死んだらこれで御家人株でも買えばいい。それで身を立てろ」

そう言い残していたのです。

そしてその翌1853年、黒船が来航します。

勝海舟や福沢諭吉のような、西洋流の学問に通じた者とは異なり、山岡は武芸の男。

彼自身の政治的な見解としては「異人め、許さん!」程度で、当時としては平均的なものでした。

山岡は千葉周作らから剣術を、山岡静山から槍術を学びます。

そして静山が亡くなると、その妹・英子を妻に娶り、山岡家の婿養子として跡を継ぐのです。

ちなみに静山の弟が「幕末の三舟」の一人である高橋泥舟。

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泥舟は槍の達人であり、母方の高橋家を継いでいました。

 

新選組に入るところだった!?

安政3年(1856年)。
刀槍の技量を認められた山岡は、講武所剣術世話役に任命されます。

さらに翌安政4年(1857年)には、清河八郎と共に「虎尾の会」を結成。

ここでピンと来た方もおられるでしょうか。

そう、清河八郎といえば新選組です。

清河の働きかけにより、文久2年(1862年)、幕府は浪士組を結成させ、山岡が取締役に任命。文久3年(1863年)には、将軍・徳川家茂について上洛します。

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幕府は、この段になって初めて清河の目的に気づきます。

彼の目的は、将軍家ではなく天皇家配下の戦闘員を集めることでした。

そこで幕府は浪士組を江戸に呼び戻すのですが、京都に残留した試衛館の者たちが新選組となります。

山岡は、このとき江戸に戻ります。

そして、清河が暗殺されると、彼と親しくしていた山岡も謹慎処分となってしまいました。
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