さて、問題です。
Q.幕末に西郷隆盛を説得した、名前に「舟」のつく幕臣は誰でしょう?
A.勝海舟!
ブブーーーーーーーッ!
惜しい。
実は半分正解で、答えは勝海舟と
【山岡鉄舟】
になります。
読み方は【やまおかてっしゅう】ですね。
歴史好きの方にはよく知られた名前であり、【幕末の三舟(ばくまつのさんしゅう)】として、
・勝海舟
・高橋泥舟(たかはし でいしゅう)
と並び称される傑物。
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その生き様はまるで「武士の鏡」のようであり、はたまた剛毅で真摯な心の持ちようは、現代人の魂をも熱く揺さぶる特別な存在でした。
一体、山岡鉄舟とは?
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神陰流、槍術樫原流、北辰一刀流
山岡鉄舟(本稿はこの名で統一)は天保7年(1836年)、徳川家康以来の旗本・小野朝右衛門の長男として江戸に生まれました。
後述しますが、槍の師範である山岡家に養子として入ったのが安政2年(1855年)のこと。同家の跡を継いで山岡姓となりました。
ともかくこの山岡、武芸のサラブレッドとも言えるほどの血筋でして。
実家の小野家も武芸の家柄、母の家は剣豪・塚原卜伝を祖先に持つというのです。
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ご本人にも、やはり才能があったのでしょう。
幼い頃から神陰流、槍術樫原流、北辰一刀流を学び、メキメキと力を付けます。
16才で母、17才で父を亡くすという不幸に見舞われながら、山岡はたくましく成長。
身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)という、当時としては規格外の体格にまで育ちました。
幕末から明治時代の男性平均身長が155センチ程度とされていた時代にこの体格です。
現在だったら2メートル越えくらいの感覚でしょうか。
そりゃあ、強いのも、納得ですね。
「幕末の三舟」の一人・高橋泥舟は義理の兄弟
嘉永5年(1852年)。
山岡は父の死に伴い、江戸へ戻って幕臣となります。
父は生前、3500両もの大金を貯めていました。
「俺が死んだらこれで御家人株でも買えばいい。それで身を立てろ」
そう言い残していたのです。
そしてその翌1853年、黒船が来航します。
勝海舟や福沢諭吉のような、西洋流の学問に通じた者とは異なり、山岡は武芸の男。
彼自身の政治的な見解としては「異人め、許さん!」程度で、当時としては平均的なものでした。
山岡は千葉周作らから剣術を、山岡静山から槍術を学びます。
そして静山が亡くなると、その妹・英子を妻に娶り、山岡家の婿養子として跡を継ぐのです。
ちなみに静山の弟が「幕末の三舟」の一人である高橋泥舟。
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泥舟は槍の達人であり、母方の高橋家を継いでいました。
新選組に入るところだった!?
安政3年(1856年)。
刀槍の技量を認められた山岡は、講武所剣術世話役に任命されます。
さらに翌安政4年(1857年)には、清河八郎と共に「虎尾の会」を結成。
ここでピンと来た方もおられるでしょうか。
そう、清河八郎といえば新選組です。
清河の働きかけにより、文久2年(1862年)、幕府は浪士組を結成させ、山岡が取締役に任命。文久3年(1863年)には、将軍・徳川家茂について上洛します。
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幕府は、この段になって初めて清河の目的に気づきます。
彼の目的は、将軍家ではなく天皇家配下の戦闘員を集めることでした。
そこで幕府は浪士組を江戸に呼び戻すのですが、京都に残留した試衛館の者たちが新選組となります。
山岡は、このとき江戸に戻ります。
そして、清河が暗殺されると、彼と親しくしていた山岡も謹慎処分となってしまいました。
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