弘化三年(1846年)8月8日は、蜂須賀茂韶(もちあき)が誕生した日です。
後の明治三年(1870年)に起きた【庚午事変(稲田騒動)】。
その当事者である徳島藩の最後の藩主ですね。
幕末〜明治のゴタゴタだけに、戊辰戦争絡みなの?と思われた方は半分正解。
残りの半分は、戦国時代にまで原因が遡れるのでは?という、ちょっと説明がややこしく、されど興味深い状態になっています。
早速、詳細を見てみましょう。
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将軍家から入った養子が藩主になった
大名はどの時代でも大変なものです。
特に、最後の藩主となると、戊辰戦争や明治維新に関わる特大の苦労がありました。
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蜂須賀茂韶の場合、先祖代々からの負の遺産のようなものが爆裂するという目に遭っています。
また、茂韶自身の生い立ちも火種の一つでした。
茂韶の父・蜂須賀斉裕(なりひろ)は、十一代将軍・徳川家斉の二十二男で、蜂須賀家の養子に入った人です。
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つまり、茂韶は家斉の孫ということになります。
さらに、十四代将軍・徳川家茂はいとこであり、「茂」の字も家茂からの偏諱でした。
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幕末のこの頃に、将軍家との血縁関係が非常に強い人が藩主……というだけ、既にイヤな予感がしますね。
なんせ家督を継いだ時点で、時代は【鳥羽・伏見の戦い】真っ最中でした。
成人していたのが不幸中の幸いとはいえ、割と最初から貧乏くじを引いた人といえるでしょう。
蜂須賀家と家老・稲田家の特殊な関係が火種となる
しかも、です。
家老・稲田家と蜂須賀家の関係が良くありませんでした。
この原因は、豊臣秀吉の時代まで遡るのですから茂韶もやってらんね~状態だったでしょう。
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稲田家は、蜂須賀家の客将、かつ家老という特別な立場にありました。
これは、初代・稲田植元(たねもと)が、著名な初代・蜂須賀小六正勝と義兄弟の契りを結んでおり、秀吉から別々に大名として取り立てようとしたときも「私は正勝と義兄弟となり、共に働こうと固く約束したので」と断固拒否していたほどの仲だったからです。
もともと蜂須賀小六も、同じように義兄弟的に死ぬまで秀吉に仕え、自身は城持ちとなりませんでしたからね(代わりに息子の蜂須賀家政が徳島藩主となる)。
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秀吉も植元の義理堅さを高く評価し、望みを叶えたまでは良かった……のですが、江戸時代の間にこの“特別な立場”が火種となりました。
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