大河ドラマ『西郷どん』では残念ながら出番ナシ。
明治初期の大阪でキョーレツな個性を放った薩摩出身の経済人――それが五代友厚です。
朝ドラ『あさが来た』で俳優ディーン・フジオカさんが鮮烈なデビューを飾った役として、よく知られておりますね。
また本日2020年12月11日に公開された映画『天外者(てんがらもん)』でも故・三浦春馬さんの主演ということで非常に注目されています。
劇中ではスマート美男子な五代様。
彼も薩摩人ですから「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ!」という郷中教育を受け、剣術の使い手でもありました。
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それが経済人とは?
一体、彼はどんな人物だったのでしょうか。
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地球儀を自作する
天保5年(1835年)、薩摩藩鹿児島城下。五代家の二男として、才助のちの五代友厚は誕生しました。西郷隆盛の8才下です。
五代家は、代々300から500石取りです。薩摩藩の武士でが上位一割ぐらいに入る、家格禄高のかなり高い家でした。
父・五代直左衛門秀尭は記録奉行兼町奉行です。
『三国名勝図会』の執筆者でもあり、漢文の造詣が深いこともあって、あの島津斉彬からも信頼されていました。
兄・徳夫は父譲りの漢学の才に長けた人物で、生涯西洋の文物を拒みました。
兄弟は正反対の性格であり、仲は悪かったようです。
五代は14才の時、父からあることを頼まれます。
「こん地図を見てみろ」
それは世界地図でした。
父は琉球交易係をしており、その関係で藩主・島津斉興から世界地図の模写を命じられたのです。
「すごか!」
彼は興奮しました。世界とは、こんなにも大きいものか。
まるでドラマみたいなお話ですが、そこから先、五代が普通じゃなかったのは、地図を二枚模写すると、一枚は自分の部屋に張り、さらに絹に地図を写し、見よう見まねで地球儀を自作したことです。
「こん世界ちゅうのは、こげんにも広いのか」
五代の胸には、世界への憧れが日増しに募っていくのでした。
長崎、そして上海へ
幕末薩摩藩において歴史に名を残した者は、若かりし頃に多くが「精忠組」に属します。
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しかし、五代の場合は異なりました。
嘉永6年(1853年)、黒船が来航すると天下は騒然となります。
その折、五代は「男児志を立つうは、まさにこんときにあい。おれもきばうぞ!!」と発憤。そこで、他の若手藩士のように、五代は尊皇攘夷へは向かいませんでした。
幼い頃から海外にあこがれていた彼にとって、西洋文明は憎むべきものではなく、むしろもっと学びたいものでした。
そのあたりは、頑迷な鎖国主義者である兄とは違います。
坂本龍馬などが近くにいたら、さぞかし気が合ったのでは?
なんて思われるかもしれませんが、実際に仲の良い存在でした。
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おそらくや肌感覚で通じ合える仲だったのでしょう。
安政2年(1855年)、五代は藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)となりました。
開明的な島津斉彬が、五代の才能に目をとめないわけがありません。
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そもそも、「才助」という名も、その才知を認められたから、と言われているほどです。
そして安政4年(1855年)、勝海舟の発案による「長崎海軍伝習所」が開設されると、薩摩からも藩士が選抜されて遊学することになり、五代も選ばれました。
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幸か不幸か五代は長崎にいて、そうしたことには関わっておりません。
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彼はそこで、最新の西洋流学問、操船に必要な技術を学び、ますます開国派となっていきます。
安政5年(1858年)に島津斉彬が死去したため、一時帰国を余儀なくされるものの、その後、再び長崎に渡り勉学を続けました。
実は当時の長崎には、藩や国の枠すら超えた、そうそうたるメンバーが集まっていたのです。
などなど。
そんなところに才知溢れる若者が入ったとなれば、刺激を受けないワケがありません。
尊皇だ、攘夷だ、そんな風に殺気立っていた薩摩藩。
その中で、五代だけは「やっぱいこれからは、開国じゃっどなぁ。西洋のこっぉ学んで国を強くせなならん」と、冷静に未来の展望を描いておりました。
それは先進的過ぎて、同時期の日本では異端に見えるほどだった気もします。
実際、五代は、明治維新後にメインストリームの政界を歩むのではなく、下野して大阪の経済発展に尽くしますが、それには彼のこうした考え方・経歴が強く影響していたのでしょう。
朝ドラ『あさが来た』でも、ディーン・フジオカさんが演じる五代は、ちょっと浮いた西洋流ジェントルマン的な人物でしたが、いい線をいっていた気がします。
話を幕末に戻します。
文久2年(1862年)、水夫に変装して幕府の船「千歳丸」に乗り込んだ五代は、上海へ向かいました。
この船には長州藩・高杉晋作もおり、五代の姿を目撃しています。なんというか、マンガみたいなエピソードですよね。
上海で見たのは、その地での活発な交易ぶり、西洋人たちの闊歩する姿でした。
『西洋人が日本に来たらどうなってしまうのか?』
とは、考えません。
『すごか人だ、これからは交易の時代になうぞ』
五代は、交易の可能性に目覚めたのでした。
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