永井尚志

永井尚志/wikipediaより引用

幕末・維新

忠義の幕臣・永井尚志を我々は知らない 慶喜や栄一の陰に追いやられた無念

永井尚志という幕臣をご存知でしょうか?

大河『青天を衝け』で中村靖日(やすひ)さんが演じていることから、最近でこそ認知度も上がっておりますが、もしもドラマ以前から永井尚志に注目されているとしたら、それはもうかなりの幕末好きかもしれません。

なんせ永井は、名前の読み方からして長いこと判明しておりませんでした。

現在では「なおゆき」とされているは、かつて「なおむね」と呼ばれることが多いものだったのです。

古い書籍や案内板等では、今なお「なおむね」と表記されていたりします。

ドラマでも、ほとんど舞台の中心に来ることはない、されどその忠義、無念さには胸打たれるものがある――永井尚志(ながいなおゆき)の生涯を振り返ってみましょう。

 

永井尚志 大名の長男から旗本の養子へ

文化13年(1816年)11月3日。

三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹(のりただ)に、男児・岩之丞が生まれました。

徳川家に繋がる名門・松平。

かつ先に生まれた兄(長男)は早世しています。

ゆえに待望の男児として喜ばれ……るどころか、彼には大名にはなれない宿命が待ち受けていました。

父が長いこと子に恵まれなかったため、既に家督を弟の子であり養子でもある松平乗羨(のりよし)に譲っていたのです。

こうなると岩之丞は御家騒動の原因になりかねません。

三歳にして両親を亡くし、孤児となった岩之丞は、江戸藩邸で育つことに。

その聡明さを買われたのか。

やがて彼は天保11年(1840年)、25歳で旗本永井家の養子となります。

徳川一門大名の子として生まれながら、旗本の養子になるという、異例の経歴はかくして始まったのです。

 

昌平黌で頭角を現す

名前を岩之丞から永井尚志へ変更。

それがキッカケになったかのように、以降の永井は遅咲きの才能を花開かせていきます。

普通、藩校で学ぶ武士は、十代で才能の片鱗を見せるものです。

福井藩の橋本左内が十代にして麒麟児扱いされていたことと比較すると、尚志はかなりの遅咲き。

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尚志は昌平黌(しょうへいこう・昌平坂学問所)に入ると、メキメキとその聡明さを発揮します。

朱子学を身につけるばかりではなく、影響を及ぼしつつある西洋についての見識も深めてゆくのでした。

永井尚志という人物は、その功績のみならず、出生や知識のバックグラウンドをみても興味深いものがあります。

彼のような名門エリートは、志士とは大きく異なるのです。

例えば渋沢栄一と比べてみたのが以下の通りです。

◆永井尚志

血統:徳川家の流れを汲む大名の子、名門

デビュー:比較的遅い。25歳をすぎてやっと目立ち始める

学問:朱子学と西洋知識。詠んだ漢詩は四百とも五百とも!

◆渋沢栄一

血統:豪農

デビュー:若年から頭角を見せる

学問:陽明学、水戸学。西洋知識はあとから身につける

 

黒船来航後の外交を担い

嘉永6年(1853年)、幕末の分岐点が訪れます。

志士たちが激昂する一方、幕府では才能ある人材登用がなされる転機となりました。

永井尚志も海防掛とされ、日米和親条約締結に関わります。

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ただし、岩瀬忠震川路聖謨らのサポート役で、翌年の安政元年(1854年)には、長崎に赴いて長崎海軍伝習所総管理(所長)に就任。

日英協約の調印が進められ、安政2年(1855年)には日蘭和親条約にも携わりました。

大河ドラマではさほどスポットが当たりませんが、才智あふれる尚志のパーソナリティがおわかりでしょう。

長崎では、長崎製鉄所の創設や、カッター船建造にも関わっています。

幕府海軍は、実は短期間で格段の進歩を遂げているのですが、それも尚志のような人材に恵まれたからこそ。

彼らが無能に描かれがちな幕末ドラマは、あくまで演出とお考えいただいた方がよろしい気がします。

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そんな幕府の首脳部は早い段階から「開国しかない」として外交政策に取り掛かっていました。

まずは臥薪嘗胆し、国を強くするほかない――。

欧米列強に対し武力で立ち向かうことはできない――。

と、理性的な結論に基づきながら各国との交渉を進めていたのです。

日米修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約……こうした交渉のテーブルには常に尚志の姿がありました。

ところが、です。

そんな外交のエースたる尚志を待ち受けていたのは、不毛すぎる政争の巻き添え。

江戸幕府内で一橋派と南紀派に分かれた【将軍継嗣問題】に絡んで失脚してしまったのです。

 

斉昭の台頭

黒船来航という未曾有の国難に、日本人は団結して立ち向かったと思いたいところですが、実際は違います。

「幕政の混乱は、全て景山公(徳川斉昭)が先頭に立っていた。これぞまさしく獅子心中の毒虫である」

幕臣であった大谷木醇堂(おおやぎじゅんどう)は苦々しく振り返っています。尚志はまさしくこの混乱に巻き込まれました。

斉昭が、まず狙いを定めたのが阿部正弘です。

阿部の「提灯持ち」と陰口を叩かれるほど取り入り、幕政に乗り込んできました。

そして幕政を震撼させるようなことを主張し始めます。尊王攘夷を掲げ、ことあるごとに「ええい、異人を斬ってしまえ!」と暴れ出すのです。

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外交、疫病、天災、不況……。

厳しい状況が続く中、それを悪化させる斉昭に幕政は疲弊します。

これにはもう耐えられない――と、そこで井伊直弼が大老となり、人事において大鉈をふるう。

13代・徳川家定のあと、将軍に斉昭の子・一橋慶喜(後に徳川慶喜)を推していた者を処断したのです。

俗に言う【安政の大獄】ですね。

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安政の大獄が、倒幕の芽をつむ暴挙と誤解されているのは、処刑者の中に吉田松陰が含まれているのが大きいのでしょう。

松下村塾の面々がそう喧伝したプロパガンダが未だに通じておりますが、松陰は尋問中に老中・間部詮勝暗殺計画を突如自白したがゆえに処刑されております。安政の大獄の本質ではありません。

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この政変に巻き込まれ、一橋派とみなされた尚志は、敬愛する岩瀬忠震ともども失脚しました。

永井尚志という才人は、この後も徳川斉昭・慶喜父子によって人生が左右されてゆくのですが、その端緒ともいえる事件でした。

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