木戸松子

木戸松子/wikipediaより引用

幕末・維新

幾松こと木戸松子の波乱な生涯~デキる美人妻は夫の桂小五郎をどう助けたのか?

明治十九年(1886年)4月10日、木戸松子が亡くなりました。

維新三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)の妻ですね。

「幾松」という名前も知られておりますが、彼女の芸者としての名前で、先代から受け継いだものですから、今回は本名で統一。

その生涯を振り返ってみましょう。

木戸松子/wikipediaより引用

 


松子の美貌と才能に惹かれた金持ちが

松子は天保14年(1843年)に生誕。

幼少期のことは、あまりよくわかっていません。

幼名もいくつかの説がありますし、兄弟が何人いたのかも不明です。

父親が小浜藩士で、母親が医者の娘だったということはほぼ確定のようで、確実なのは、十代から京都のお店でお座敷に出ていたということです。

なぜ武家の娘が?

そう思われるかもしれません。

実は松子の父親は、百姓一揆に巻き込まれた咎で謹慎を命じられてしまい、京都へ出奔してしまったのです。

残された家族も後に京都に出て暮らし始めたのですが……生活は困窮し、家計を支えるために彼女が舞妓になったのでした。

現代なら児童労働その他諸々でマズイですが、当時はむしろ当たり前。

持って生まれた美貌に加え、頭の回転も早く物覚えが良かった松子は、年齢と二代目幾松の名を上げていきます。

そこへやってくるようになったのが、将来の夫となる木戸孝允です。

まだ倒幕前の時期なので、正しくは桂小五郎ですね。

桂小五郎(木戸孝允)/国立国会図書館蔵

そして二人は惹かれあっていくわけですが、いざ身請けしようという段階でひと悶着起きます。

松子の美貌と才に惹かれた別のお金持ちが、「そう簡単に渡すか!」とゴネ出したのです。

当時の木戸は、まだ一介の藩士に過ぎませんでしたから、真正面からやりあったところで勝てないのはわかりきっていました。

だからこそ相手も自信満々でこんなことを言ってきたのでしょう。

 


伊藤博文が刀を突きつけて直談判!

しかし、縁結びの神様は木戸に味方します。

同じく長州藩の遊び人こと伊藤博文が、お金持ちの客に対し刀を突きつけて直談判したのです。

あまりの剣幕にお金持ちは引っ込み、無事に木戸と松子は名実共に相思相愛となりました。

若かりし頃の木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)/Wikipediaより引用

若かりし頃の木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)/Wikipediaより引用

伊藤がいきなり出てくるのがマンガ的展開ですが、彼の芸者好きは既に有名だったそうなので、木戸が「身請けしたい人がいるんだが、ちょっと困っている」とか相談したんでしょうかね。

だからって刀が出てくるとは思わなかったでしょうけども。

とりあえず死傷者が出なかったのですから万々歳ですね。

しかし、木戸と松子にとって本当の正念場はこの先のことでした。

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