トントン拍子に行くとは限らないのが人生。
身分には大いに恵まれていたのに、時代のタイミングが合わなかったと思われるのが徳川昭武であり、明治43年(1910年)7月3日に亡くなりました。
大河ドラマ『青天を衝け』で板垣李光人さんが演じ、出番も多かったので覚えていらっしゃる方も多いでしょうか。
渋沢栄一と共にヨーロッパへ派遣された徳川慶喜の弟で、慶応三年(1867年)にパリへ到着し、色々な苦労を重ねられました。
そんな徳川昭武とは、史実でどんな人物だったのか。
生涯を振り返ってみましょう。
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徳川昭武 渋沢らと共にヨーロッパへ
徳川昭武は、駒込にあった水戸藩の中屋敷で嘉永六年(1853年)に生まれました。
父親はあの暴れん坊・徳川斉昭(十八子)。
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そのせいか。世情の不安定さなどの理由で、幼い頃から水戸と江戸や京を行ったり来たりで、10歳のときには京で佐幕派のリーダーをやっていたりします。
もし慶喜が新政府に徹底抗戦するつもりであれば、このときの縁でいろいろやらされることになったかもしれませんね。
実際には、14歳のときに清水徳川家(御三卿の一つ)に養子入りして家督を継いで水戸家から出ています。
同時に兄・慶喜の名代でヨーロッパへ留学することになりました。
この時のお供の一人が渋沢栄一です。
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パリについた後はナポレオン3世に謁見した後パリ万博を見物。
その後スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスで各国の王に謁見しています。
一周してパリに戻ってきてからはヨーロッパの社会経済などを学んでいきました。
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パリ万博の俯瞰図/wikipediaより引用
しかし、翌年に慶喜が大政奉還を行ったことから、昭武の立場が微妙になってしまいました。
良くて一般人に格下げ、悪ければ罪人扱いになるからです。
ヨーロッパの常識で言えば、前政権の一族は皆殺しになってもおかしくはないですしね。
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廃藩置県で知事を罷免され陸軍の教官
お供の中には先に帰国する人もいました。
昭武は、慶喜から「お前はそのままそっちで勉強してなさい」(意訳)という手紙が届き、しばらくパリに残ります。
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しびれを切らした明治新政府から帰国命令書が届いたため、やむなく帰国を決意することになるのですが、最後に10日間かけてカーンやシェルブール、ナントなどを旅行したようです。
カーンは城下町、シェルブールとナントは港湾都市なので、帰国してから何かしら役立てるための視察だったのでしょうか。
パリに戻ってきたとき、長兄で水戸藩主の慶篤が亡くなったため、跡を継ぐようにという知らせを受け取ります。
こうして昭武の留学は1年ほどで慌ただしく終わることになってしまいました。
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なお、この間、藩主を失っていた水戸藩では以前からの混乱に拍車がかかり、内乱状態になっていました。
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