ナポレオン3世が徳川慶喜に軍服を贈ったり。
ジュール・ブリュネが江戸幕府の軍隊近代化に関わったり。
幕末も終わりの頃になりますとフランスもいよいよ立ち上がり、日本へ強力な外交官を送り込んできました。
大河ドラマ『青天を衝け』にも登場し、ヨーロッパ編とその前後では存在感を見せていましたが、彼の人となりや性格、経歴についてはサッパリわからん!という方も少なくないでしょう。
1809年9月27日が生誕日である、レオン・ロッシュの生涯を辿りながら見て参りましょう。
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現地人から信頼される外交官として
1809年――ナポレオン第一帝政時代、ロッシュはグルノーブルの裕福な家庭に生まれました。
グルノーブル大学に入学したのは1828年のこと。法律を学ぶものの、嫌気がさして僅か半年で退学してしまいます。
その後、アフリカ大陸・アルジェリアへ。
プランテーション経営を始めた父に付いていったのですが、事業は芳しくなく、ロッシュは己の才覚で道を切り開くほかありません。
彼は2年ほどでアラビア語を習得すると、アルジェリアに駐留するフランス軍の通訳となりました。
ロッシュはここで才智を発揮します。
フランスに反抗していたアブド・アル=カーディルに停戦をすすめ、成功をおさめたのです。
現地の指導者たちと信頼関係を築き上げ、それが高く評価されました。
近代化を推し進める見識や理解力もありました。
そして外交通として、名声を高めたのです。
こうした経歴を持つロッシュが、東洋の果て=日本に送り込むには適任と判断されたのでしょう。
1863年、ロッシュは二代目駐日公使に任じられたのでした。
フランス外交の切り札 満を辞して来日す
ペリーの黒船来航から本格化していった幕府と諸国との交渉において、フランスは存在感が薄いものでした。
阿片戦争以来最大の警戒感を呼び起こすイギリス。
不凍港が欲しいのか、領土獲得をめざしているとわかるロシア。
あくまでフランスは諸外国の一つに過ぎません。
そんな1864年、初代駐日大使としてパッとしなかったベルクレールがチュニスへ派遣され、入れ替わりとしてロッシュが着任します。
1864年は元治元年となった年。幕府崩壊まであとわずか4年であり、時既に遅しと思えるところです。
通訳には、幕臣・栗本鋤雲とも親しいメルメ・カションがつけられました。
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日本に着任したロッシュは、すでに50歳を超えておりましたが、赤ら顔に白髪、逞しい体つきと鋭い眼光は「魅力とカリスマのある人物」と評されています。
鋤雲とカションの関係。
そこへ加えられたロッシュ持ち前のバイタリティ。
見る見るうちにフランスの存在感は高まっていきます。
栗本鋤雲と親しく、日本屈指の見識を持つ人物が幕府にいました。
小栗忠順です。
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商工業に強い小栗は、フランスの策を取り入れ、実現化へ動きました。
横須賀製鉄所。
横浜仏語伝習所。
いずれの開設も圧倒的なスピード感です。
ロッシュに対するイギリス人の評価は辛辣でしたが、彼の実力を恐れたゆえのことでしょう。
日仏の首脳が接近すると必然的に貿易面でもフランスが有利になり、イギリスやアメリカの商人から不満の声が上がっていたのです。
とりわけ生糸貿易は目玉であり、彼らはフランスの権益独占を見過ごすわけにはいきませんでした。
ロッシュが赴任して間もなく、幕府には大きな衝撃が走りました。
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ロッシュの懸念が現実のものとなってしまいました。
「家茂はどうにも幼く病弱で頼りない」
普段からロッシュはそう不満を抱いていたのです。
しかし後継者については「理想的な人物である」と大きな期待をかけていました。
徳川慶喜です。
慶喜は最愛の愛弟子
知性、エネルギー、魅力、行動力がズバ抜けている。
温和で聡明、端正で威厳があり、よく話を聞く、思慮深く勉強熱心……。
慶喜について筆を走らせるとき、ロッシュは恍惚の表情を浮かべていたのではないでしょうか。まるで恋人を表現するかのような情熱的な言葉が、彼の記録から確認できます。
素晴らしきこの慶喜を教え子とし、日本を変えてゆく――そんなロッシュのロマンのもと、幕府は最終局面へ向かってゆきます。
しかし、慶喜に惚れ込み過ぎてきたロッシュには、残念ながら脇の甘さがあったと言わざるを得ません。
深い付き合いも面識もなく、慶喜の建前、表層部分しか観察できなかったのでしょう。
要は慶喜の情けない一面、逃亡壁のある性格を知り得なかった。
ただしこれはロッシュだけの話ではありません。松平春嶽はじめ、多くの人物が慶喜について苦い思い出を残しています。
そもそも15代将軍も、慶喜にスンナリ決まったワケではありません。
慶喜の優柔不断さ、不誠実さについてはかなり悪評があり、将軍継嗣問題において慶喜支持のため薩摩から嫁いだ天璋院篤姫すらも見限っていまいした。
彼女は田安亀之助(幻の16代将軍と呼ばれる徳川家達)と考えていたのです。
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【一会桑政権】のときも、会津藩と桑名藩は慶喜に対して不信感を抱いていました。
温和な松平容保は不満を出さないものの、藩士たちは慶喜に厳しい目を向け、不満を漏らしています。
何よりも、本人が「将軍になりたくない」と固辞し続けていた。
そうした各方面における不協和音は、ロッシュが喧伝するタイクーン(大君・将軍のこと)像からは全く見えてきません。
まるで理想の生徒を得たロマンに溺れているかの様子――これはロッシュ、ひいてはフランスの外交的欠点でした。
比較としてイギリスを出しますと、彼らはパークスを筆頭に、かなり辛辣で自国の権益ありきで動いています。
明治政府の上層部となる人物に対しても容赦なく厳しい姿勢でした。
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また、ロッシュ自身の野心もあります。
極東にフランスの同盟国を築き上げれば、彼自身にとっても母国にとっても、大きな成果。ゆえに同国のジャーナリズムも彼の甘い夢を書き立てました。
フランスと夢の国・日本というロマンスが、新聞紙上を飾りたてたのです。
かくしてどこか見通しの甘い蜜月関係が、幕府倒壊前夜に成立したのでした。
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