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【松平容保】
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領民の憎しみが容保に向けられるも
容保の命を要求すれば会津藩は戦争を続ける、完膚なきまでに倒すチャンスである――。
新政府軍としては、そこを見越しての行動だったのでしょう。
それゆえ未だに会津と長州の不仲が囁かれたりするのですね。
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容保が再び考えを変えたのは、奥羽列藩同盟のほとんどが新政府軍に降伏してからのことです。
なおも交戦を主張する家臣たちの説得もしていますが、そのときには既に白虎隊の悲劇が起きた後。つまり、多くの会津藩士が戦死した後でした。
この流れでは、戦が終わった後、容保一人に領民の憎しみが向けられるのも仕方のないことですよね……。
新政府軍が、会津藩を含めた幕府側の人々に苛烈な仕打ちをしたことも原因ですが、後日、容保が新政府軍によって東京へ護送されていくとき、見送ろうとする領民はほとんどいなかったといわれています。
しかし、その感情がずっと続いたわけではありませんでした。
被災者たちは旧怨を忘れ容保の登場を喜んだ
会津戦争から20年後の明治二十年(1888年)、磐梯山の噴火により、旧会津藩領は甚大な被害を受けました。
噴火活動自体は2~3時間で終わったのですが、五色沼など磐梯山周辺にある数々の沼や湖は、このときに川がせき止められてできたものです。
そう考えると、規模の大きさが何となくわかりますよね。
公式記録での犠牲者は死亡者477名、負傷者28名といわれています。
容保は明治時代に入ってからは蟄居を申し付けられた後、明治十三年(1880年)に日光東照宮の宮司を務めていましたが、磐梯山噴火の知らせを聞き、直ちに旧領へ向かいました。
容保の顔を見た被災者は、旧怨を忘れ喜んだといわれています。
会津戦争時代の住民の中には、この間に亡くなったり他所へ移ったりした人もいたでしょうし、ずっと容保を許せなかった人もいたでしょう。
しかし、20年の月日が少しは恨みを和らげたのではないでしょうか。
まぁ、会津の地を追い出された旧会津藩士たちは、北海道や斗南藩への移転を余儀なくされ、その後、凄まじい苦労を強いられておりますが……。
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朝廷のほうでも、何かと容保や会津のことは気にかけていたようです。
明治天皇の義母・英照皇太后は、容保の晩年に見舞いとして牛乳を送ったことがあるとか。
宮中の侍医頭だった橋本綱常という人物が容保の主治医も務めていたので、彼を通じて届けたのだそうです。
容保は牛乳の匂いが苦手だったので、綱常は皇太后から預かった牛乳にコーヒーで味をつけて渡したと言います。
英照皇太后と綱常の気配りに涙し、起き上がってコーヒー牛乳を飲んだといわれています。
そして、容保が明治二十六年(1893年)に57歳で亡くなってからも、その気遣いは続きました。
昭和三年(1928年)、大正天皇の第二皇子・秩父宮雍仁親王に、容保の孫・勢津子が嫁いだのです。
この時代には佐幕派だった人物の孫が続けて皇室に嫁いでおり、「後々まで維新の遺恨を残さぬように」という配慮がうかがえます。
個人の感情が突然・完全に消えることはないと思いますが、こうして少しずつ遺恨を和らげていくことが、未来に進むということなのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典(学習研究社)』(→amazon)
松平容保/Wikipedia