篤姫(天璋院篤姫)

篤姫(天璋院篤姫)と13代将軍・徳川家定/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末に薩摩から将軍家へ嫁いだ篤姫ってどんな人?47年の生涯まとめ

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さすが薩摩出身 お酒に強く晩酌もしていた

篤姫の存命中に戊辰戦争江戸城無血開城があったため、当時、大奥に勤めていた女性の証言が残っており、篤姫の時代の逸話はある程度判明しています。

一番篤姫の人柄がわかりやすいのは、お酒の逸話かと思われます。

さすが薩摩出身というべきか、篤姫は割とお酒に強かったようで、たびたび晩酌をしていたそうです。

しかも一人で飲むのではなく、自分の世話係である御中臈(おちゅうろう)と一緒に酒を飲んでいたのだとか。

ときには自分からお酌をしてやっていたといいます。

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この時代、身分が上の者から盃を賜るのはそれだけで名誉なことです。

御台所といえば江戸城や武家の中では二番目にエライと言っても過言ではない人ですから、篤姫がこれをやりだしたとき、周囲はさぞ驚いたでしょうね。

篤姫の気さくな性格がうかがえます。

自立心が強かったということがわかる逸話もあります。

少々下世話な話になりますが、当時のお姫様は、トイレを済ませるにも人の手を借りるのが当たり前でした。

文字通り「下の世話」をされていたわけです。

しかし、篤姫は月一のイベント(婉曲表現)時だけはお手洗いに人を入れなかったといいます。

 


輿入れ2年で徳川家定が亡くなってしまい……

家定唯一の側室・お志賀の方と篤姫がどのような関係だったか、詳細は不明です。

もちろん、立場は篤姫のほうが上ですから、表向きはお志賀の方が一歩引いていたでしょう。

また、嫉妬深い一方で、お志賀の方は家定の世話を事細かにしていたといわれているので、家定にとっては得難い理解者でもありました。

その辺を考えると、篤姫が自ら嫌悪感を露わにすることはなかったのでは……という気がしますね。

気に入ることもなかったでしょうけれど。

肝心の夫婦仲については、そもそも篤姫の輿入れから家定が亡くなるまで二年もないためか、ほとんどわかっていません。

家定が病弱すぎて子供が作れなかったのは事実でしょうけれども、頭の方はしっかりしていたと思われるので、それなりに夫婦の会話はあったはずなのですが。

家定が大奥の女性についてよく覚えていたり、父・家慶の看病を自ら行ったときに気遣っていたという逸話があります。

篤姫も、家定の犬嫌いを気にして猫を飼っていたくらいですから、最低限、あるいはそれ以上にお互いを気遣う姿勢はあった……と思いたいところです。

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勝海舟と料亭や芝居見物、はたまた吉原へ

明治元年(1868年)に江戸城を(騙されたような形で)立ち退いた篤姫は、その後、十六代将軍になる予定だった徳川家達(いえさと)の養母としてともに暮らしていました。

江戸城明け渡しの前も後も

「もう実家の薩摩には戻らないし、薩摩の財布を頼るつもりもない」

と決めていたのでしょう。

篤姫は元々気丈な女性でしたから、市井に下ったことを嘆くよりも楽しんでいた節があります。

悪く言えば、大奥はある意味で軟禁場所。

夫の見舞いにも行けないような場所から出たのですから、開放感を味わっていたのかもしれません。

外出も積極的にしていました。

勝海舟に連れられて料亭や芝居見物、はたまた吉原にまで出かけています。

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これはただのデートではなく、海舟の「市井の生活と今の徳川家の財政を理解してもらう」という狙いもあったようです。

そのおかげか、篤姫は少しずつ倹約や家事をするようになっていきました。

自らの生活を切り詰めてまで、大奥時代の部下達の働き口を斡旋してやっていたそうです。

明治十年(1877年)には箱根へ療養に行っていた「嫁」に相当する皇女・和宮(かずのみや)」を見舞おうと計画しています。

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篤姫が着く前に和宮は脚気衝心(脚気が原因で起こる心不全)で亡くなってしまうのですが……。

それでも残念だったのでしょう。

亡くなる3年前の明治十三年(1880年)には、和宮が亡くなった場所を訪れて歌を詠んでいます。

「君が齢(よわい)とどめかねたる早川の 水の流れもうらめしきかな」

【意訳】この早川、あなたの寿命を留めるどころか押し流していってしまったのですね。もう一度お会いしたかったのに、恨めしいこと……

大奥にいた頃は、武家と宮家の生まれの違いや嫁姑による激しい対立があったものの、最後には力を合わせて徳川家のために尽くした仲として、最後に直接語らいたかったのでしょうね。

友情というと男性のものというイメージが強いですが、晩年の篤姫と和宮にもなかなか熱い友情を感じます。

 


葬儀のときには1万人もの人々が見送りに集まった

篤姫は、今までよりずっと家族と近いところで生活できるようになったので、特に徳川家達の教育には力を注いでいました。

家達は14歳から19歳までロンドンへ留学しており、これも篤姫たちが勧めてのことだったそうです。

その割に家達さん、この時代で衆道のケがあったそうで、後々そのせいで困ったりもするんですですけれども……篤姫が亡くなってから目覚めちゃったんでしょうか。

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さて、気丈な篤姫でしたがその最期は意外とあっけないもの。

お風呂場で足を滑らせて頭を打ち脳卒中となり、そのまま意識を取り戻さなかったそうです。

苦しまずに亡くなったのなら死に方としては悪くないのかもしれませんが、まだ47歳という年齢での惜しまれる死でした。

篤姫の葬儀の際には、見送りの人々が1万人も集まったといいます。

大部分は大奥で働いていた女性やその家族でしょうが、もしかしたら薩摩出身者や旧幕臣、和宮の縁者などもいたかもしれませんね。

多くの人に見守られながら、篤姫は「徳川の女」として生涯を終えたのでした。


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長月 七紀・記

【参考】
山本博文『面白いほどわかる大奥のすべて―江戸城の女性たちは、どのような人生を送っていたのか』(→amazon
国史大辞典「天璋院」
天璋院/wikipedia
Slownet(→link

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