メルメ・カション

メルメ・カション(左)と関係の深かった栗本鋤雲/wikipediaより引用

幕末・維新

勝海舟に怪僧と評されたメルメ・カション~幕末の日仏関係に奔走す

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日本を教えて西洋を知る

かくして始まった両者の知的な交流。

鋤雲は、メルメ・カションに日本を教え、カションを通じて西洋を学びました。

鉛筆で記録したので『鉛筆紀聞』と名付けられた問答集は、興味深いものがありますので、ちょっと紹介してみましょう。

Q:フランスという国はどのように成立し、身分制度はどうなっていますか? 人材登用は?

A:フランスは日本のような封建制度(諸侯による統治)ではなく、現在は中央集権制を採用しています。貴族はありますが財産はなく、家名の存続も考えておりません。

職業選択は個人の自由です。政府高官の子が商人や農家になってもよいのです。優秀な人材は、生まれを問わずに出世できます。

Q:フランスの税制はどうなっていますか?

A:日本の年貢と異なり、農民の税金は年によって変わることはありません。

Q:貿易の税率はどうですか?

A:輸出税はなく、輸入税をかけています。よりよい輸出に適した産品を作ろうとすることで、人々は一層励みます。需要のために自らを磨くことこそが、経済の大原則です。

Q:婦女をどう扱いますか?

A:トルコはいけません、ハーレムなんて作るから軽蔑されます。フランス人は婦人を愛しています。それはその人徳を愛し、尊敬しているから。イギリス人は美貌だけを愛するからよろしくありませんね。

Q:フランスの治安はどうでしょうか? 武器を持ち歩いていますか?

A:護身用ピストルを持ち歩く人はおりますが、そんなに危なくはありませんよ。

Q:日本はこれから海軍を持たねばなりません。軍艦は輸入すべきか、それとも建造すべきでしょうか?

A:買うのは愚か、断固として作るべきです!

Q:インドではイギリスに対し反乱が起きているそうですが。

A:インド人がイギリスを憎むことは当然です。イギリス人とロシア人ほど横暴な連中はおりません。

Q:フランスでは太后(国王の母)が政治を見るようなことはありえますか?

A:イギリスではありますが、フランスではそういうおかしなことはありませんよ!

鋤雲は東洋の「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」が西洋にあるかどうかを聞いていたものとも推察できます。

西洋では女性君主および女系相続制度を認めた国が多いのですが、フランスはイギリスの王室への干渉を防ぐために「サリカ法典」を規定し、女性君主および女系を排除しました。

まとめると、身分制度、学術、制度、都市、法律、暦、数学、度量衡(メートル法)、テレガラフ(有線電信)、ナポレオンの才能など……ありとあらゆることを鋤雲が知りたがっていたことがわかります。

カションの応答も、フランスの国益を重視するが故の誇張や思い込みもありますが、適切な答えが多い。

「軍艦は製造すべきだ」という答えは、このあと小栗忠順らによって実現化へ。

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こうした流れは明治以降も続きました。

四民平等、廃刀令、一夫多妻制度の廃止……その原型がこの問答にあるように思えてなりません。

 

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妖僧から通訳へ 華麗なる出世

鋤雲はメルメ・カションとの交流で手に入れた知識を活かし、函館で思う存分に実力を発揮。

程なくして幕府の目に留まると江戸へ呼び戻され、外国通として活躍を始めます。

幕府も鋤雲経由でフランスを知り、手を結ぶこととしました。

鋤雲とカションの二人は、互いを引き立て合う名コンビとでも言いましょうか。

何よりカションには卓越した語学力と野心があります。

文久3年(1863年)頃、函館を離れると、初代駐日フランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールの通訳として、江戸のフランス公使館に居住。

しかし、家庭の事情のため帰国するとフランス外国宣教会から除名され、それでも翌文久4年(1864年)に再来日すると、今度は第2代フランス公使として着任したレオン・ロッシュの通訳となりました。

やはり抜群の語学力を重んじられたのでしょう。

元治2年(1865年)に横浜仏語伝習所が設立されると、そのトップに就任します。

カションの日本語力がどれほどのものだったか?

というと、実は俳句まで残されています。

ひとかまい 別れ世界や さくら花

横浜の遊郭で詠んだとされる一句。

もはや宣教師ではなく還俗していたため遊郭通いも問題ナシと判断していたのでしょう。

横浜のお梶という彼の妾は、カションからもらったメリンスを帯に巻いたため「メリンスお梶」と呼ばれました。

こうした振る舞いゆえ、勝海舟からは「妖僧」と呼ばれ、西郷隆盛からは「奸物」と評されることにもなったのでしょう。

鋤雲が指摘したように、カションは性格に難があったとされます。

函館を去った理由も、在留イギリス人とのトラブルからで、パリ万博に派遣された幕府の使節団とも一悶着あったとされます。

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