メルメ・カション

メルメ・カション(左)と関係の深かった栗本鋤雲/wikipediaより引用

幕末・維新

俳句を詠み 勝海舟に怪僧と評されたメルメ・カション 幕末の日仏関係に奔走す

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倒幕からほどなくして世を去る

慶応2年(1866年)、メルメ・カションはフランスに帰国しました。

しかし日本との関係が切れたわけではありません。

その翌年の慶応3年(1867年)に徳川慶喜の弟・徳川昭武率いる使節団がフランスを訪れると、教育係として応対することとなります。

昭武たちはパリ万博の後、留学の予定もあったので、カションの応対がうってつけとされました。

ところが、です。前述の通り一悶着起こし、向山一履と揉めて教育係を外されてしまうのです。

母国でナポレオン3世に向け、自らの功績をお披露目できる――そう張り切っていたのに、人間関係で揉めてしまい、それが叶わなくなった。

怒りで我を忘れてしまったのでしょう。

カションはこの時、とんでもない愚行に走ります。

日本は中央集権制ではなく封建制であり、幕府は全権を有しているとはいえない。

こんな意見を新聞に寄稿してしまったのです。

万博には、幕府の使節団だけでなく、イギリスと手を結んだ薩摩藩も派遣されていて、フランスにおける幕府の失墜を画策していました。

幕府に腹を立てたカションはその策謀にまんまと乗せられてしまったのです。

駐日大使の通訳どころか右腕のような人物がこんな風に主張したらどうなるか?

現地の世論は沸騰して止まず、フランス政府も600万ドルの対日借款を取り消せざるを得なくなりました。

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事態を収拾できなくなった幕府は、急遽、栗本鋤雲をフランスへ派遣。

そして慶応4年(1868年)、大政奉還後に帰国する鋤雲に向かって、カションは「フランス海軍の助けを得てでも断固戦うべきだ」と励ましています。

このときの送別会が、鋤雲とカション、二人の永訣となりました。

鋤雲の帰国から約3年後の1871年、カションはニースで生涯を終えたのです。

享年43。

 

カションとフランスの足跡

26歳で東洋へ向かい、38歳まで日本に滞在していたメルメ・カション。

幕末における訪日外国人の中でも際立って日本に愛着を抱き、長く滞在した人物でした。

彼の事績はフランスでも、さほど知られていません。

第二の故郷のような日本では……これまた知名度は低く、そもそも彼と親しかった栗本鋤雲ですら、現代の日本社会でほとんど知られてないでしょう。

カションは歴史の中に埋もれたかのようであり、幕府がフランスから受けた影響も消え去ってしまったかのようです。

それもそのはず明治新政府は、イギリスの方針に従って国を作り上げました。

当初フランス式だった陸軍制度についても、結局はプロイセン式を採用。

普仏戦争での大敗後、日本で広まっていたナポレオン信奉やフランスへの憧憬は急速に薄れてしまったのです。

しかし、実はフランス式を取り入れた部分も残されています。

度量衡はイギリスやアメリカが採用していたポンド・ヤードではなく、メートル法。

警察制度もフランス式。

そして天皇制においても、「皇室典範」によって女性天皇と女系を排除しました。

イギリスはヴィクトリア女王のもとで繁栄を誇っていたにもかかわらず、まるで「サリカ法典」をあてはめたような制度が成立しているのです。

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明治政府は、一つの国だけではなく、各国から制度を取り入れました。

そこで思い出されるのが鋤雲とカションの問答。

知的な交流によって蓄えていった知識が、新たな日本を生み出す素地となったのであり、俳句まで詠んだフランス人怪僧の影が薄いことが残念でなりません。

鋤雲は明治16年(1883年)にフランス人宣教師経由でカシュンの訃報を知りました。

追悼の漢詩を詠み、その中でカションに「和春」という字を当てます。

生前は、癖が強い性格で、鋤雲ですら「難あり」だと評していたのに、実に優しげな当て字ではありませんか。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
富田仁『メルメ・カション―幕末フランス怪僧伝』(→amazon
小野寺龍太『栗本鋤雲:大節を堅持した亡国の遺臣』(→amazon
鳴岩宗三『レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交』(→amazon

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