幕末の条約改正以来、日本をよく知り、時には流暢に日本語を操る外国人は少いながらも存在しました。
ところが「俳句まで詠む」となると、どうか?
さすがにそれはレベル高過ぎ、日本人だってほとんど出来ないじゃん……そうツッコミたくなりますが、幕末に実在したのです。
フランス人宣教師のメルメ・カションで1828年9月11日に生まれたとされます。
彼は、レオン・ロッシュの通訳として、いや、それ以上の存在で日仏関係の構築に影響し、勝海舟には「怪僧」とまで評されながら、現在の日本ではほとんど無名のまま。
約30才で来日してから、どうして俳句を嗜むまで日本語を操れるようになったのか?
メルメ・カションの生涯を振り返ってみましょう。

メルメ・カション/wikipediaより引用
フランスから宣教師がやって来た
日本とフランスが最初に接点を持ったのはいつのことなのか?
初めて足を踏み入れたのは戦国時代のフランス人宣教師とされ、その後、島原の乱が起きる直前にクールテ神父が殉教して以来、両国の間で人の行き来はありません。

「島原御陣図」/wikipediaより引用
それが阿片戦争を契機に東洋への扉が開き、再び来日の機運が高まります。
阿片戦争の約10年前となる1828年。
スイスに近いフランス東部・ジュラ山地のブーシュウで、メルメ・カションは農夫の子に生まれました。
貧乏な家に生まれ育ったせいか。後年、見栄っ張りだと評されたりしますが、ともかく無事に成長したカションは1852年、パリ外国宣教会神学校に入学し、2年後の1854年に司祭となります。
驚くべきことにその翌年の安政2年(1855年)、カションは琉球の地を踏んでいます。
現地の官吏に居住は拒まれながら、共に上陸したジラール神父、ルイ・テオドル・フューレ神父らと一緒に住み着いてしまったのです。
安政5年(1858年)の日仏修好通商条約締結時には、グロ男爵の通訳として江戸へ向かいました。
このころにはナポレオン3世の親書をカタカナに翻訳できるほど日本語が上達していたのですから、驚異的な語学力です。

ナポレオン3世/wikipediaより引用
そして安政6年(1859年)11月、函館へ向かいました。
やけに簡単に国内を移動できるんだな……と、思われるかもしれません。
かつては多くの宣教師を処刑し、キリスト教を断固として拒んだ江戸幕府も、幕末となると方針を変更していて、布教さえ控えればカションのような聖職者でも来日できたのです。
もっとも日本には「攘夷」という私的なヘイトクライムを狙う志士たちがいて、危険極まりない状況でもあります。
そんな状況の最中、カションは函館で日本関連の執筆に励びました。
『仏英和辞典』
『日本養蚕論』
『アイノ・起源、言語、風俗、宗教』
といった著書を執筆。
同時にフランス語を日本人に教え始めます。
本人曰く「二百人に教えた」そうで、その数字には誇張もあるでしょう。
しかし、教え子の中には明治時代に外交官として活躍した塩田三郎もいて、

塩田三郎/wikipediaより引用
優秀な教師だったことも彷彿とさせます。
カション自身の日本語能力が高かったことが影響しているのかもしれませんね。
函館で運命の出会い
メルメ・カションは函館で、運命的な出会いも果たしました。
現地へ左遷されていた幕臣の栗本鋤雲(じょうん)です。

栗本鋤雲/wikipediaより引用
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』でも活躍が期待されるであろう栗本鋤雲と、メルメ・カションが知り合ったのは1859年の冬。
翻訳と執筆に励んでいたカションが「日本語を習いたい」と奉行所に申し出てきたのです。
これに応じたのが鋤雲であり、あまりに勉強熱心なカションに当惑したほど。
そもそも通訳なしで日本語の会話ができるのですから、鋤雲は驚きます。
カションの人柄については
「小人ではある」
「どうにも自慢たらしくて、人の悪口を言う傾向があるな……」
「扱いにくく軽薄なところもあるけれども、意図をふまえれば御し易い男だ」
などなど、必ずしも感服しなかった鋤雲ながら、その知性と語学力には感心するほかありません。
カションも、攘夷とは程遠く、人としての交流ができる鋤雲に助けられたことでしょう。
というのも明治以降ですら、日本政府はキリスト教聖職者の教育に疑念を投げかけ、「布教活動を始めたりしないか……」と警戒しており、新島襄らも苦労をしたものです。
逆に、幕末の鋤雲がどれほど先進的だったかわかります。
日本を教えて西洋を知る
かくして始まった両者の知的な交流。
鋤雲は、メルメ・カションに日本を教え、カションを通じて西洋を学びました。
鉛筆で記録したので『鉛筆紀聞』と名付けられた問答集は、興味深いものがありますので、ちょっと紹介してみましょう。
Q:フランスという国はどのように成立し、身分制度はどうなっていますか? 人材登用は?
A:フランスは日本のような封建制度(諸侯による統治)ではなく、現在は中央集権制を採用しています。貴族はありますが財産はなく、家名の存続も考えておりません。
職業選択は個人の自由です。政府高官の子が商人や農家になってもよいのです。優秀な人材は、生まれを問わずに出世できます。
Q:フランスの税制はどうなっていますか?
A:日本の年貢と異なり、農民の税金は年によって変わることはありません。
Q:貿易の税率はどうですか?
A:輸出税はなく、輸入税をかけています。よりよい輸出に適した産品を作ろうとすることで、人々は一層励みます。需要のために自らを磨くことこそが、経済の大原則です。
Q:婦女をどう扱いますか?
A:トルコはいけません、ハーレムなんて作るから軽蔑されます。フランス人は婦人を愛しています。それはその人徳を愛し、尊敬しているから。イギリス人は美貌だけを愛するからよろしくありませんね。
Q:フランスの治安はどうでしょうか? 武器を持ち歩いていますか?
A:護身用ピストルを持ち歩く人はおりますが、そんなに危なくはありませんよ。
Q:日本はこれから海軍を持たねばなりません。軍艦は輸入すべきか、それとも建造すべきでしょうか?
A:買うのは愚か、断固として作るべきです!
Q:インドではイギリスに対し反乱が起きているそうですが。
A:インド人がイギリスを憎むことは当然です。イギリス人とロシア人ほど横暴な連中はおりません。
Q:フランスでは太后(国王の母)が政治を見るようなことはありえますか?
A:イギリスではありますが、フランスではそういうおかしなことはありませんよ!
鋤雲は東洋の「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」が西洋にあるかどうか?を聞いていたものとも推察できます。
西洋では女性君主および女系相続制度を認めた国が多いのですが、フランスはイギリスからの王室への干渉を防ぐため「サリカ法典」を規定し、女性君主および女系を排除しました。
まとめると、身分制度、学術、制度、都市、法律、暦、数学、度量衡(メートル法)、テレガラフ(有線電信)、ナポレオンの才能など……ありとあらゆることを鋤雲が知りたがっていたことがわかります。
カションの応答も、フランスの国益を重視するが故の誇張や思い込みもありますが、適切な答えが多い。
「軍艦は製造すべきだ」という答えは、このあと小栗忠順らによって実現化へ進められます。

小栗忠順/wikipediaより引用
こうした流れは明治以降も続きました。
四民平等、廃刀令、一夫多妻制度の廃止……その原型がこの問答にあるように思えてなりません。
妖僧から通訳へ 華麗なる出世
鋤雲はメルメ・カションとの交流で手に入れた知識を活かし、函館で思う存分に実力を発揮。
程なくして幕府の目に留まると江戸へ呼び戻され、外国通として活躍を始めます。
幕府も鋤雲経由でフランスを知り、手を結ぶこととしました。
鋤雲とカションの二人は、互いを引き立て合う名コンビとでも言いましょうか。
何よりカションには卓越した語学力と野心があります。
文久3年(1863年)頃、函館を離れると、初代駐日フランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールの通訳として、江戸のフランス公使館に居住。

ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール/wikipediaより引用
しかし、家庭の事情のため帰国するとフランス外国宣教会から除名され、それでも翌文久4年(1864年)に再来日すると、今度は第2代フランス公使として着任したレオン・ロッシュの通訳となりました。
やはり抜群の語学力を重んじられたのでしょう。
元治2年(1865年)に横浜仏語伝習所が設立されると、そのトップに就任します。
カションの日本語力がどれほどのものだったか?
というと、実は俳句まで残されています。
ひとかまい 別れ世界や さくら花
横浜の遊郭で詠んだとされる一句。
もはや宣教師ではなく還俗していたため遊郭通いも問題ナシと判断していたのか。
横浜のお梶という彼の妾は、カションからもらったメリンスを帯に巻いたため「メリンスお梶」と呼ばれました。
こうした振る舞いゆえ、勝海舟からは「妖僧」と呼ばれ、西郷隆盛からは「奸物」と評されることにもなったのでしょう。

勝海舟/wikipediaより引用
鋤雲が指摘したように、カションは性格に難があったとされます。
函館を去った理由も、在留イギリス人とのトラブルからで、パリ万博に派遣された幕府の使節団とも一悶着あったとされます。
倒幕からほどなくして世を去る
慶応2年(1866年)、メルメ・カションはフランスに帰国しました。
しかし日本との関係が切れたわけではありません。
その翌年の慶応3年(1867年)に徳川慶喜の弟・徳川昭武率いる使節団がフランスを訪れると、教育係として応対することとなります。

徳川昭武(左から三番目)らの遣欧使節団・ベルギーで撮影/wikipediaより引用
昭武たちはパリ万博の後、留学の予定もあったので、カションの応対がうってつけとされました。
ところが、です。前述の通り一悶着起こし、向山一履と揉めて教育係を外されてしまうのです。
母国でナポレオン3世に向け、自らの功績をお披露目できる――そう張り切っていたのに、人間関係で揉めてしまい、それが叶わなくなった。
怒りで我を忘れてしまったのでしょう。
カションはこの時、とんでもない愚行に走ります。
日本は中央集権制ではなく封建制であり、幕府は全権を有しているとはいえない。
こんな意見を新聞に寄稿してしまったのです。
万博には、幕府の使節団だけでなく、イギリスと手を結んだ薩摩藩も派遣されていて、フランスにおける幕府の失墜を画策していました。
幕府に腹を立てたカションはその策謀にまんまと乗せられてしまったのです。
駐日大使の通訳どころか右腕のような人物がこんな風に主張したらどうなるか?
現地の世論は沸騰して止まず、フランス政府も600万ドルの対日借款を取り消せざるを得なくなりました。
事態を収拾できなくなった幕府は、急遽、栗本鋤雲をフランスへ派遣。
そして慶応4年(1868年)、大政奉還後に帰国する鋤雲に向かって、カションは「フランス海軍の助けを得てでも断固戦うべきだ」と励ましています。
このときの送別会が、鋤雲とカション、二人の永訣となりました。
鋤雲の帰国から約3年後の1871年、カションはニースで生涯を終えたのです。
享年43。
カションとフランスの足跡
26歳で東洋へ向かい、38歳まで日本に滞在していたメルメ・カション。
幕末における訪日外国人の中でも際立って日本に愛着を抱き、長く滞在した人物でした。
彼の事績はフランスでも、さほど知られていません。
第二の故郷のような日本では……これまた知名度は低く、そもそも彼と親しかった栗本鋤雲ですら、現代の日本社会でほとんど知られてないでしょう。
カションは歴史の中に埋もれたかのようであり、幕府がフランスから受けた影響も消え去ってしまったかのようです。
それもそのはず明治新政府は、イギリスの方針に従って国を作り上げました。
当初フランス式だった陸軍制度についても、結局はプロイセン式を採用。
普仏戦争での大敗後、日本で広まっていたナポレオン信奉やフランスへの憧憬は急速に薄れてしまったのです。
しかし、実はフランス式を取り入れた部分も残されています。
度量衡はイギリスやアメリカが採用していたポンド・ヤードではなく、メートル法。
警察制度もフランス式。
そして天皇制においても「皇室典範」によって女性天皇と女系を排除しました。
イギリスはヴィクトリア女王のもとで繁栄を誇っていたにもかかわらず、まるで「サリカ法典」をあてはめたような制度が成立しているのです。

ヴィクトリア女王/wikipediaより引用
明治政府は、一つの国だけではなく、各国から制度を取り入れました。
そこで思い出されるのが鋤雲とカションの問答。
知的な交流によって蓄えていった知識が、新たな日本を生み出す素地となったのであり、俳句まで詠んだフランス人怪僧の影が薄いことが残念でなりません。
★
鋤雲は明治16年(1883年)にフランス人宣教師経由でカシュンの訃報を知りました。
追悼の漢詩を詠み、その中でカションに「和春」という字を当てます。
生前は、癖が強い性格で、鋤雲ですら「難あり」だと評していたのに、実に優しげな当て字ではありませんか。
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【参考文献】
富田仁『メルメ・カション―幕末フランス怪僧伝』(→amazon)
小野寺龍太『栗本鋤雲:大節を堅持した亡国の遺臣』(→amazon)
鳴岩宗三『レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交』(→amazon)
他





