幕末の日仏関係

左からハリー・パークス、レオン・ロッシュ、徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末のフランスはなぜ江戸幕府に肩入れしたのか?英仏の対立が日本で勃発

幕末の日仏関係って不思議ではありませんか?

日本が条約を交わしたのはフランスだけではない。

にもかかわらず江戸幕府と急に仲がよくなっている。

西洋諸国であれば以前からオランダと通じているし、開国のキッカケになったのはアメリカ人なのに、それとは関係ないフランスが一体どうしたことか。

薩摩とイギリスが手を組んだことも関係あったりする?

ご明察。

幕末から明治維新にかけての争いは、背景に「英仏の対立」があり、さながら代理戦争をさせられていたような状況でもあります。

では、なぜそんなことになってしまったのか?

元治元年(1864年)3月22日は幕末の日仏関係でキーマンとなるレオン・ロッシュが駐日公使になった日。

当時の状況を整理してみましょう。

 


第二帝政のフランス外交

ペリー来航以来、落日の江戸幕府――なぜフランスは手を貸したのか?

幕末の日仏関係と聞くと、まずこんな疑念が湧いてくるかもしれません。

実はフランス第二帝政と幕府には、似た要素が揃っていたという皮肉がありました。

そもそもフランスは広い国土、肥沃な農地、温暖な気候、そして人口が多く、まさしくヨーロッパ屈指の強国でした。

しかし、フランス革命とナポレオン戦争を経て、国土や人心は荒廃していた。

ウィーン会議以降のウィーン体制のもと、ナポレオン3世統治下のフランスは、国力の回復とヨーロッパの中心となることを目指していたものです。

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偉大なるナポレオンの名誉と血脈(※3世は1世の甥)はあれど、それだけでは足りない。

国を強く立て直すためには外交と貿易が鍵。

ライバルのイギリスは産業革命を成し遂げ、国力や軍事力でフランスより先に行っており、もはや時代もヨーロッパだけを見ている場合ではありませんでした。

いかがでしょう? 血統と伝統だけで国が保てず、外交と交易が重要である点が日仏で似ています。

かくしてフランスには外交力が重要となるのですが、ちょうど幕末の時期に手痛い失敗をしていました。

それが傀儡皇帝として送り込んだマクシミリアンです。

銀や錫の天然資源獲得を目論み、メキシコに派遣したのですが、メキシコ人と背後にいるアメリカの反発を買って反乱が勃発。

1867年にマクシミリアンが処刑されてしまいます。

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この皇帝の死は、マネはじめ多くの芸術家が怒りを込めて作品に残し、欧州中に広まってゆきます。

ナポレオン3世の悪名は一気に高まりました。

かくして、もう二度と失敗の許されないフランス。

アジアに目を向けると、イギリスが阿片戦争に突入し、清やインドシナ半島への進出をはかっておりました。

 


フランスが極東を目指す目的とは?

フランスとメキシコの関係は、日本(江戸幕府)とフランスの関係を考えるうえでも重要です。

・フランスはメキシコを植民地にしようとはしていない

言いなりになる傀儡君主を立てて、支配した方がメリットがある。

・資源が目的

メキシコには銀や錫がある。日本には生糸、そして蚕がありました。

当時のフランスでは蚕に伝染病が広がり壊滅状態です。品質がよいとされる日本産蚕を輸入できれば、養蚕業が復活できます。

アヘン戦争で清がこっぴどくやられたせいか。「日本も植民地にされたかもしれない」という見方は今なお広まっていますが、英仏両国をはじめ西洋諸国にそんな気はありません。

植民地化はリスクがあるからです。征服するための戦争をするにもカネがかかります。

そんなことよりも、傀儡政権同様に取り扱った方が利益は大きい。

かくしてフランスは幕府を、イギリスは天皇を戴く倒幕側を応援することになった。

要は支援する勢力が異なっただけに過ぎません。

確かに、フランス公使のロッシュは「慶喜は素晴らしい人物である」という記録を残してはいます。

しかし、それは自分の手足とするための賛美であり、真の意味で対等に付き合うためのものではありませんでした。

慶喜にしてもフランスに対しては従順であったからであり、もしも彼に気骨があり、反発心が見られれば、ロッシュも高評価をしてない可能性があったでしょう。

つまり、外国人からみた日本人像は、彼らの目的や国益を考えることが重要なのです。

そこであらためて疑問になるのが「なぜ、フランスは幕府に接近できたのか?」という点でしょう。

早いうちから江戸幕府と交渉していたのは、こちらの三国。

・オランダ

長崎出島を通じて幕政期から取引をしている。言葉の問題もクリアできていた唯一の国。海外情勢を幕府側に伝えてもいた。

・ロシア

国境を接しており、早くから南下していた。幕府側も警戒している。

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・アメリカ

黒船来航ペリーの出身国。内戦である南北戦争が始まってしまい、外交は後回しになります。

こうした国と比較しますと、フランスもイギリスも後発組となります。

なんといってもオランダとは付き合いが長い。真っ先に歩調を合わせてもよさそうですが、いかんせん国としては小さすぎました。

オランダ語ではなくこれからは英語を習うべき――幕末の知識人もそんな危機感を抱いています。

 


慎重だった幕府の判断

幕府は慎重でした。

このことは重要です。幕府と交渉に当たった各国は「なんと非倫理的で対応が遅いのか!」と不満を募らせています。

しかし幕府なりの理由もあります。

彼らは西洋諸国の野心を見抜いていた。そんな状態であるのに、無闇矢鱈と受け入れては、過剰な内政干渉を許して危険である。

こうした警戒心があれば、粘り腰の交渉を心がけてもおかしくはありません。

一方で、攘夷を掲げた志士は若い。

西洋への理解がなく、外交経験も皆無な彼らは、ともかくせっかちに物事を進めようとします。

そんなタイミングで、英仏分かれ目となる事件が起こります。

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結果、イギリスは粘り腰の幕府に見切りをつけました。

戦争相手の薩摩は切り替えが早く、これは使えると判断したのです。

こうしてイギリスは露骨に薩摩に肩入れをするようになり、攘夷で結束していた連中には「倒幕」という魅力的な餌をちらつかせ、味方に取り込みました。

英国にしてみりゃ、意のままになる政権の出来上がりです。

幕府とフランスの関係はイギリス&薩摩とはかなり異なり、キッカケも穏やかなものでした。

端的に言えば人のつながりです。

初代駐日公使ベルクールの後任者であるロッシュは、通訳にメルメ・カションという神父を雇っておりました。

このメルメ・カションが、函館で幕臣・栗本鋤雲と交流。

互いに日本語とフランス語を教え合ううちに、二人は意気投合します。

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才智あふれる栗本は、メルメ・カションの進言を政策にも生かし、蝦夷地で成果を挙げました。

そして一気に西洋技術の旗手となった栗本を幕府が大抜擢。

栗本は江戸に戻り、幕府随一の外交官として交渉の席についたため、ロッシュとも交流が生まれ、フランスと幕府は急接近してゆくのです。

消去法を使ってみれば、フランスは野心をぎらつかせるイギリスやロシアよりも、幕府にとってマシに思えたのです。

流血と戦争により結びつき、生々しい利害関係があった薩摩とイギリス。

個人の友情がきっかけに結びついた、幕府とフランス。

後者が成功すれば美談となるでしょう。

しかし、そうはならないのがリアルな歴史かもしれません。

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