原田左之助

幕末・維新

新選組十番隊組長・原田左之助は幕末をひたむきに生きた青年剣士

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四国男子が斬り合う時代

原田左之助は、豪快なキャラクター性が愛されています。

その性格は、幕末で存在感を見せる土佐藩とも共通するのものがありました。

幕末の京都と言えば、過去に経験がないほど日本全国から草莽の志士が集っていたもの。当然ながら地域性というものはあり、藩毎に性格や個性はバラバラです。

知性や理論先行の長州藩。

豪快なようで策もある薩摩藩。

そんな中、明るくノリがよく、敵対者をおちょくって挑発するようなタイプだったのが土佐藩士です。

坂本龍馬のキャラクターは彼一人だけのものではなく、土佐藩全般の気質でもあったんですね。

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原田左之助の伊予松山藩は、親藩であるために徳川家を守る気持ちがありました。

とはいえ、明るくカラリとした性格は、土佐藩に通じるのびのびとしたものを感じさせます。

そんな四国出身者同士が対立した事件が、慶応2年(1866年)の【三条制札事件】です。

当時の京都には、長州藩が朝敵であるとする制札があり、これに怒った何者かが引き抜く事件がありました。

たかが看板、されど看板。新選組は引き抜き犯を見張るため、目を光らせていました。

そうして新選組が見張っていたあるとき――。

「なんだこの立て札は! 抜いちゃる!」

土佐藩士8人が、そう怒り始めたのです。

報告を聞いた原田は、早速、隊士ともども駆けつけ、乱闘となりました。

原田自身も傷を負うほどのバトル。幕府から報償金200両が下され、そのうち20両は原田に与えられます。

このとき、土佐藩士を逃す原因になったと咎められたのが浅野薫でした。恐怖のあまり、適切な行動を取れなかったのです。

その死には諸説ありますが、新選組にとどまることができず、高台寺党加入も叶わないまま、沖田総司によって殺害されたと伝わります。

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いずれにせよこの一件で原田は土佐藩士に嫌われてしまったようです。

大正12年(1923年)の愛媛新聞に「坂本龍馬殺害犯は原田左之助だった」という記事が掲載されました。

原田犯人説の傍証は、以下のようなものです。

・伊藤甲子太郎のよる、現場に落ちていた鞘が原田のものだという証言

・「こなくそ!」という、伊予弁を犯人が話していたという証言

なかなか強引な主張にも見えますが、実際のところ原田は犯人ではありません。

現在は、坂本龍馬暗殺の支持者は松平容保で、実行犯は見廻組とされております。

いずれにせよ原田が犯人にデッチ上げられ、愛媛県民と土佐県民が争うとは……幕末の殺伐とした状況が大正時代にまで影響したのかと思うと恐ろしいものがあります。

 


妻子との別れ

慶応元年(1865年)3月。

原田はマサという女性と結婚し、茂という男児も授かっておりました。

マサは芸妓ではなく、商人の娘です。原田はマサのいる自宅から屯所に通いました。

「立派な武士になるんだぞ」

息子の茂にそう語りかける夫のことを、マサは記憶しています。時には茂を抱いて、屯所に見せに来ることもあったとか。

しかし、原田が祝言をあげた元号が慶応となったころには、彼の生涯に影が差してきます。

原田という人物は裏表がないだけに、政治的な動きは見られません。いざ幕府と新選組が傾いてしまうと、彼のようなタイプは切り替えが難しく……。

慶応3年(1867年)12月、マサは悲痛な思いで夫を見送りました。

「俺にもしものことがあったら、俺に代わって茂を立派な武士にしてやってくれ。頼む、どうか、頼むぞ!」

原田はそう言い残し、去ってゆきます。

そしてそれが永遠の別れとなるのです。

翌慶応4年(1868年)――。

【鳥羽伏見の戦い】で大敗を喫した新選組は、江戸へと落ち延びるしかありません。

その後【甲陽鎮鎮撫隊】として甲州へ向けて出陣すると、【勝沼の戦い】で大敗を喫しました。

ここで永倉新八と原田は、近藤勇の態度に腹を立てて、袂を分かつとされてはいます。

永倉が近藤の態度が不満であったことは確かでしょう。

『燃えよ剣』のように、土方という軍師なくして知的な行動が伴わない――そんな描き方もわかりやすいものです。

しかし、このあたりも幕末の理解にありがちな事実単純化の悪影響があります。

◆近藤勇の政治力過小評価

→フィクションの弊害として、近藤を愚鈍としてしまう印象論があるが、史実の彼は賢く、政治力もある

◆結果論の弊害

→【甲州勝沼の戦い】で惨敗したのは事実なれど、近藤が愚かだとか、武士になって浮かれたせいではない

「近藤がこんなに愚かなら仕方ないよな。永倉や原田もイヤになるよね」と考えるのは早計でしょう。

◆近藤勇が出世

→幕末最終局面において、近藤勇らが幕臣に取り立てられたのは確かなことです。ばら撒き恩賞でもなく、その能力を見越しての登用で権限も与えられておりました

◆混迷の幕府

→近藤を幕臣にした幕府側も一枚岩ではなく、徳川慶喜とその意を受けた勝海舟は、幕府を終わらせることを考えています。しかし、徹底抗戦する幕臣もおり、近藤らもその一人に数えられる

◆指揮系統の問題

→近藤は、新選組のことを個別の組織であり、自分と隊士に君臣関係があると認識していたが、会津藩御預かりであり、これがややこしいことになる

【主君――家臣】

近藤勇――隊士

松平容保――近藤以下新選組全員

こうした齟齬があったと理解すれば、永倉新八の「近藤勇の家臣になったつもりはない。武士とは二君に仕えずである」という決別の弁も理解しやすくなります。

ちなみにこうした状況も新選組だけの話ではありません。

薩摩藩では実質的に藩主だった島津久光の命令に対し、西郷隆盛ら藩士が服従せず、このことが対立軸となっております。

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崩れゆく幕藩体制の中で、血統として定められた秩序の中で生きていく者もいれば、自分で勝ち取った地位で責任を取ろうとする者もいる。

どちらが正しいとか、そういうことではありません。

日本を束ねる主とは将軍であるか、天皇であるか?

それが幕末という時代にあった争点――。

近藤勇の死後も、土方が指揮する系統と、会津藩にとどまる斎藤一の系統において、新選組は別れています。

幕末ならではの現象と言えるでしょう。

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そんな混沌とした状況において、原田は永倉とともに靖共隊(せいきょうたい)を結成。

副長として、日光を目指す大鳥圭介ら抗戦派幕臣のあとを追おうとします。しかし理由が判然としないまま、山崎宿(千葉県野田市)で離脱し、江戸へ向かうのでした。

「用を済ませたらすぐに追いつく」

そう告げて去ったと伝わりますが、その“用”が何であるか、結局のところは不明。残してきた妻子に会いたかったという理由は推察に過ぎません。

二ヶ月ほど消息が途絶える間、原田は、他の新選組隊士と合流しておりました。

そして【上野戦争】で被弾し、戦傷死を遂げたという記録が残されています。

享年29。

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マサは、夫と別れたのち、官軍によって何度か取り調べを受けました。

混乱の中で二番目の男児を出産したものの早世。世の中が明治になって少し時がたつと、マサのもとへ夫の訃報が届けられたのでした。

のちにマサは茂と共に神戸に移り住み、子や孫とともに穏やかに生きました。

子母沢寛(しもざわ かん)に自分の体験談を語ったマサは、夫の埋葬地を探していたとのことです。そんなマサも、昭和5年(1930年)に享年83で亡くなっています。

鉄火肌で豪快な原田左之助には、満洲に渡って馬賊となり、日清戦争日露戦争で支援したという伝説もあります。

大陸への熱気にあふれていた明治の願望と、彼自身の持つ熱い血潮ゆえ、そのような話が生まれたのでしょう。

時代のために戦った志は、勝敗を問わず尊いものだという願望も感じさせます。

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新選組内部でも、原田は思想が薄く、政治的な重要性は決して高いとは言えません。

永倉新八や斉藤一のように明治を生きたわけでもなく、取り上げる意義を考えつつ、その生涯をたどりました。

私なりの考えですが、彼は典型的な幕末を生きた一青年であると言えると思います。

暴力的であり、誰かを斬って平然として、快感を口にするというのは、あまりに異常に思えるかもしれません。

しかし、それこそが時代の肖像でもありましょう。

立場の違いはあれ、岡田以蔵や、桐野利秋のような人物も、原田と通じるものを感じます。

原田左之助は、ひたむきに生きた幕末青年の一典型でした。


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文:小檜山青

【参考文献】
宮地正人『歴史のなかの新選組』(→amazon
松下英治『新選組流山顛末記』(→amazon
平野勝『多摩・新選組紀聞』(→amazon
新人物往来社『新選組大人名事典』(→amazon
『国史大辞典』
『角川日本史辞典』

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