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【松尾多勢子】
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頼りがいのある「田舎のおかあさん」オーラでも出していたんでしょうか。
彼女に何もかも相談にのる若者もいたそうです。
いや、むしろノーガード戦法ですかね。
周囲から見れば「信州から出てきた歌詠みのおばあさん」に過ぎない。
まさかこのおばちゃんが、熱い尊皇攘夷思想を持っている、なんて誰も思わないわけです。
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足利将軍の木像から引き抜いた首を賀茂川に晒す
年が明けて文久3年(1863)。
滞在費用はどうしていたのか気になるところですが、ともかく多勢子はまだ京都にいました。
平田学派とつきあい、御所まで出向くようになり、毎日が楽しそうであります。
尊皇攘夷思想を持っていれば、ただの歌詠みのおばちゃんでもここまで顔が利くという、平田学派の交友関係の広さも感じさせます。
しかし、この平田学派が大事件を起こしてしまいます。
「足利三代木像梟首事件」
「あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん」です。
徳川家茂の上洛にあわせ、足利将軍の木像から引き抜いた首を賀茂川に晒すというもの。
これには穏健な対話重視路線「言路洞開」を取っていた京都守護職の松平容保も激怒し、路線転換を始めます。
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事件の犯人には平田派の者もいました。
当日の多勢子は嵐山で仲間と酒を飲んでおり、アリバイもあったのですが、関係者としてマークされてしまいます。
彼女が平田学派の仲間から事件について聞いていたとしても、おかしくはありません。
危険を感じた多勢子は、長州藩邸に逃げ込みました。
そしてその後、息子が迎えにきて、信州に戻ります。
今度は岩倉家で子女の教育を
慶応3年(1867年)、いったんは田舎に引っ込んだ多勢子でしたが、また上洛してきました。
彼女は岩倉具視の家で家政を取り仕切り、その豊かな学識を生かして子女の教育にもあたるのです。
さらに、戊辰戦争が勃発すると、二人の息子を従軍させました。
まさに勤王の志を持つ女性そのものでした。
明治2年(1869年)。再び郷里に戻ると、家は財政難で傾いておりました。
そこで多勢子は家業立て直しのために奔走します。
バリバリの尊皇攘夷派おばちゃんが見た明治の世は、実のところ嘆かわしいものでした。
散切り頭に洋装の人々が街を闊歩。
あれほど嫌った西洋の奴隷になったかのようです。
自分たちのしたことは一体何だったのか。
そうため息をつくこともあったとか。
変わりゆく文明開化の世を見つめながら明治27年(1894年)、多勢子は84才という長い人生を終えるのでした。
伝説はどこまで本物か?
多勢子は【木像梟首事件】の際に、男装して仲間を助け、証拠書類を焼き捨てたとされます。
また、長州藩に紛れ込んだスパイを問い詰め、切腹に追い込んだなんて逸話も。
そして彼女最大の伝説は、岩倉具視の命を救ったというものです。
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隠棲している岩倉のもとに「信州の歌詠みばあさん」として近づき、その志を確認。
岩倉暗殺を企む者に「彼は勤王の志を持つ」と伝え、計画を未然に防いだ、というものです。
彼女に関してもっとパンチのある話を盛りたいと考えた人が、スパイ映画さながらの活躍を描いたのでしょう。
こうした話を盛らなくとも、多勢子は驚異的な女性であったことは確かでしょう。
あの時代に女性でありながら学問をおさめ、久坂玄瑞や品川弥二郎とも交流があり、岩倉具視にお信頼を得たのですから。
思い立ったらやってみる行動力と、熱い志を兼ね備えた多勢子。
幕末に生きた熱い女性の一人であったことは、間違いありません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都』(→amazon)
『国史大辞典』