阿部正弘

阿部正弘/wikipediaより引用

幕末・維新

阿部正弘が有能すぎて死後に幕府が崩壊?勝を抜擢した老中の実力とは

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阿部正弘
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幕府は、アメリカの船が長崎ではなく江戸を目指してやってくるという情報を事前につかんでおり、そのための通訳も用意していたのです。

ただ、現実逃避というか、日和見主義というか。

「来るかもしれないし、来ないかもしれないし……」

出来れば来ないで欲しいなぁ……と希望的観測をうっすら抱いていたのでした。

与力と通訳は小舟を漕がせて艦船に近づき、アメリカと交渉に入ります。

このとき、米国フィルモア大統領は武力行使や日本侵攻を企んでいたわけではありません。

ただし、武力をちらつかせることで、有利な交渉に挑む「砲艦外交」であったことは確かです。

対する幕府や阿部は?

 

阿部は外国の脅威を斉昭に説いていた

実は、黒船来航の7年前の弘化3年(1846年)。

阿部は、バリバリの攘夷論者・徳川斉昭徳川慶喜の父)に対してこんな書状を書いています。

【阿部から斉昭へ】

阿片戦争のことを考えてみてもください。もはや欧米列強のアジア侵略は始まっています

・武力で勝利することはできません。無謀な攘夷を仕掛けて敗北すれば、かえって日本にとって恥となるでしょう

・外国船によって日本の通商を断たれれば、食料すら欠乏しかねません

・軍艦を作り、海防強化に取り組むのが、いま早急に為すべきことです

いつかは欧米列強がやって来る。そのとき攘夷は無謀極まりない。

阿部は冷静にそう分析していました。

黒船来航は当然ショックではありますが、予想外のことではありません。

阿片戦争の知らせは当時の人々に大きな影響を与えていました。好奇心旺盛な知識人の多くが、危機が近いと感じていたのです。

この黒船来航時の老中が、阿部でした。

 

ついに来てしまったXデー

ついにXデーが訪れてしまった、そんな状況の黒船来航。

幕府閣僚は対応を協議し、とりあえずいくつかの藩に命じ、浦賀近辺の警備を固めさせます。今更か、とは思いますけれども。

老中は、阿部一人ではなく、5人いました。

しかし、実質的に頑張ったのは、首座の阿部一人という状態。

とりあえず、相手の国書を受け取る。それで帰ってもらえればいい……阿部はそう考えました。

実際にアメリカも、食料補給の都合上、長居はできませんでした。

浦賀には野次馬がウヨウヨと集まり、攘夷論を言い出しそうな人もいます。しかし、武力では追い払うことはできない。

それをわかっていた阿部に、

「これからは海軍だ、日本が自前で海軍を作るための組織が必要だ」

と力説したのが、勝海舟でした。

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阿部はこの進言を受け入れ、勝海舟を登用。

勝のもとで「海軍伝習所」が開設されます。

長崎海軍伝習所/wikipediaより引用

 

群発地震にコレラの流行

在任中にXデーである黒船来航があっただけでも相当なストレスでしょうが、事態はますます悪化します。

安政の大地震」と呼ばれる群発地震や、コレラの流行など、災厄が立て続けに日本を襲ったのです。

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まさしく踏んだり蹴ったり。

さすがの阿部も音を上げて、堀田正睦(本稿はこの名で統一)に老中首座を譲ります。

しかし……。

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