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【阿部正弘】
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阿部は外国の脅威を斉昭に説いていた
実は、黒船来航の7年前の弘化3年(1846年)。
阿部は、バリバリの攘夷論者・徳川斉昭(徳川慶喜の父)に対してこんな書状を書いています。
【阿部から斉昭へ】
・ 阿片戦争のことを考えてみてもください。もはや欧米列強のアジア侵略は始まっています
・武力で勝利することはできません。無謀な攘夷を仕掛けて敗北すれば、かえって日本にとって恥となるでしょう
・外国船によって日本の通商を断たれれば、食料すら欠乏しかねません
・軍艦を作り、海防強化に取り組むのが、いま早急に為すべきことです
いつかは欧米列強がやって来る。そのとき攘夷は無謀極まりない。
阿部は冷静にそう分析していました。
黒船来航は当然ショックではありますが、予想外のことではありません。
阿片戦争の知らせは当時の人々に大きな影響を与えていました。好奇心旺盛な知識人の多くが、危機が近いと感じていたのです。
この黒船来航時の老中が、阿部でした。
ついに来てしまったXデー
ついにXデーが訪れてしまった、そんな状況の黒船来航。
幕府閣僚は対応を協議し、とりあえずいくつかの藩に命じ、浦賀近辺の警備を固めさせます。今更か、とは思いますけれども。
老中は、阿部一人ではなく、5人いました。
しかし、実質的に頑張ったのは、首座の阿部一人という状態。
とりあえず、相手の国書を受け取る。それで帰ってもらえればいい……阿部はそう考えました。
実際にアメリカも、食料補給の都合上、長居はできませんでした。
浦賀には野次馬がウヨウヨと集まり、攘夷論を言い出しそうな人もいます。しかし、武力では追い払うことはできない。
それをわかっていた阿部に、
「これからは海軍だ、日本が自前で海軍を作るための組織が必要だ」
と力説したのが、勝海舟でした。
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阿部はこの進言を受け入れ、勝海舟を登用。
勝のもとで「海軍伝習所」が開設されます。
群発地震にコレラの流行
在任中にXデーである黒船来航があっただけでも相当なストレスでしょうが、事態はますます悪化します。
「安政の大地震」と呼ばれる群発地震や、コレラの流行など、災厄が立て続けに日本を襲ったのです。
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まさしく踏んだり蹴ったり。
さすがの阿部も音を上げて、堀田正睦(本稿はこの名で統一)に老中首座を譲ります。
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しかし、堀田は阿部以上の開国派で、所謂「蘭癖」の人でした。
これが、結果からすればよくありません。
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