阿部正弘

阿部正弘/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末日本の先を見据えていた阿部正弘の生涯~その死後に幕府の崩壊が始まった?

幕末から大正までの動きを評して、作家の司馬遼太郎はこう書き残しています。

「明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなものである」

うーむ、さすが大作家らしいキャッチーな言い回しで、なるほどそうかと頷きそうになります。

ただし「賛同できるか?」と問われたら即答できないモヤモヤもありまして。

維新の敗者である幕府や佐幕藩は、ともすれば「時代を見据えることもできない旧弊な人物ばかり」と思われがちです。

果たして本当にそうでしょうか?

歴史というものは時代によって捉え方が変わるものであり、現在、こうした「幕府派=全員凡人」という見方は修正されつつあります。

当時の記録を見ると、倒幕側の人間も、来日した外国人も、幕府派の中にも優秀かつ先を見据えていた人物がいたと見直されるようになったのです。

その代表的な一人が安政4年(1857年)6月17日が命日である阿部正弘でしょう。

ペリー来航時に幕府老中だった阿部は、かなりの切れ者。

先見の明がある人物でした。

阿部正弘/wikipediaより引用

 


幕末の動乱序盤で惜しまれる早期退場

阿部正弘について知るとまず驚かされるのは、その生涯の短さです。

文政2年(1819年)に生まれ、安政4年(1857年)に死没――40年にすら満たない人生です。若くして見いだされ、そして不惑を前に世を去るという、彗星のような人物でした。

活躍期間をみますと、豊臣政権下で官僚として活躍した石田三成と似たような状況ですね。

石田三成/wikipediaより引用

幕末というのは他に短命の人物も多いため、比較するとさほど短くはないかもしれません。

しかし阿部の場合は、その才知が惜しまれる点と、幕末の動乱が本格化する前に世を去っている点が、より一層短命ぶりを感じさせるのです。

幕末序盤に出てきて、早期退場するという点では、島津斉彬徳川斉昭も同じ分類とも言えます。

彼らはみな惜しまれる人物でした。

それは同時に、言い方を変えれば禍根を残したともいえます。

2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』主役である小栗忠順ら幕臣からすれば、大変なことを中途半端なまま残していったものだと、ため息混じりで名を上げたくなる人物かもしれません。

 


若き藩主から老中へ

正弘は、備後福山藩主・阿部正精の五男として生まれました。

天保7年(1836年)、死去した兄の跡を継いで藩主になると、わずか18才で10万石の藩主に就任。

さらにその4年後の天保11年(1840年)、幕府から寺社奉行に指名されると、今度は天保14年(1843年)に老中に任じられます。

阿部家は三河時代からの譜代大名とはいえ、そこまで出世を遂げるのはやはり優秀な人物であったからでしょう。

20代半ばで日本のトップに君臨し、水野忠邦が復帰した時期をのぞいて亡くなるまで、彼は老中として尽くしました。

水野忠邦/wikipediaより引用

しかも彼は寛大な人物で、よく人の意見を聞きました。

たとえ相手が違う意見を持っていても、おおっぴらに反対するようなことはありません。相手の長所や使えそうなところを判断し、採用していたそうです。

ただし、そうした部分が「八方美人」とマイナス評価を受けることもあったそうですから、いやはや人の評価とは難しいものですね。

このことは、苛烈であるとされた井伊直弼との対比で考えることも重要でしょう。

そんな彼は江戸っ子からはどう思われていたのか?

当時きっての人気浮世絵師にして、幕府からすればふてぇ野郎としか言いようのない人物として、歌川国芳がおります。

彼は『きたいな名医難病療治』という、奇怪な絵を発表します。

これが出回ると飛ぶように売れ、そして即座に発禁処分となりました。当時の幕閣を揶揄した作品で、タブーど真ん中だから売れると、絵師と版元が工夫を凝らして世に送り出した危険な風刺画でした。

この絵では、幕僚たちが奇病にかかった様が描かれています。

阿部正弘は「近眼」。鼻の先ばかりを見ていて、遠くのことは配慮できない。そうおちょくられているのです。

これは国芳たちの見立てが正しいとも、思えなくもありません。

むろん描いた当時の国芳が、このさきの歴史を知るはずがない。

しかし、その弟子である月岡芳年や落合芳幾は、先を見ずに対応した幕府政治の崩壊を目にすることとなるのでした。

 


嘉永6年 浦賀に黒船がやって来る

嘉永6年(1853年)、黒船すなわちアメリカ籍の艦船4隻が浦賀沖に姿を見せました。

大河ドラマで何度も見た、おなじみの場面です。

ペリー来航/wikipediaより引用

「あれが富士山か。美しい島だな」

船上で提督マシュー・ペリーは、くっきりと見えた富士山の姿を見て満足していました。

黒々とした大砲は狙いを定め、兵員は銃を構えて、戦闘態勢万全。

「なんだ、ありゃ……」

一方、漁師たちは、見たこともないような巨大な船を目にし、呆然としていました。

彼らは奉行に駆け込んで、目撃したものを報告します。その報告には怒りすら滲んでいます。

「予告より数ヶ月遅れましたが、やはり異国の艦隊が来ました」

このとき浦賀の奉行には通訳がおりました。

幕府は、アメリカの船が長崎ではなく江戸を目指してやってくるという情報を事前につかんでおり、そのための通訳も用意していたのです。

江戸時代、オランダは定期的に「風説書」という海外情報レポートを提出していました。この特別編と言えるアメリカ艦隊来航予告特別号を、ペリー以下人員の詳細まで含めて伝えていたのです。

なぜ、そうなったのか?

当時、アメリカでは捕鯨が盛んです。当時の鯨油は今で言うところの石油やガスに匹敵する重要なエネルギー源。いわばオイルマネーを求めて航海してくるわけです。

それが日本近海で遭難してしまうと、恐ろしい目に遭わされます。

問答無用で投獄された挙句、粗末で到底喉を通らないような食事が出されるのです。

捕鯨船員たちからの陳情を受け、アメリカ議会では日本へ抗議をすることが決められていました。

オランダからすれば、これは歓迎すべき動きです。

オランダは遡れば田沼意次の頃から、海禁を緩和し、海外交易をすべきだと幕府に訴えてきました。

しかしそこは小国ゆえの悲哀もあり、先延ばしにされるばかり。

それがついにアメリカが動くとなれば、オランダにも転機となるのではないかという目論見が生まれました。かくして、詳細なレポートを提出したのです。

しかし、幕府は現実逃避をするばかり。

「来るかもしれないし、来ないかもしれないし……」

出来れば来ないで欲しい……見なかったことにしたい。そう黙殺を決めたのでした。

ただし、幕閣内には例外がいます。

これが実現したら、世が変わってしまう――そう焦り、動いていたのが阿部正弘でした。

与力と通訳は小舟を漕がせて艦船に近づき、アメリカと交渉に入ります。

このとき、米国フィルモア大統領は武力行使や日本侵攻を企んでいたわけではありません。

ただし、武力をちらつかせることで、有利な交渉に挑む「砲艦外交」であったことは確かです。

対する幕府や阿部は?

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