永倉新八

大正二年に札幌で撮影された最晩年の永倉新八(前列中央)/wikipediaより引用

幕末・維新

永倉新八こそが新選組最強か?最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ

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永倉新八
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将軍警護だ、上洛だ!

「試衛館」で青春の日々を送る青年たち。そんな彼らの耳に、ビッグニュースが飛び込んで来ます。

「将軍様が上洛する! その護衛を募集しているらしい」

運命を変えるニュースが飛び込んで来たのは、文久3年(1863年)のことでした。

取締役は山岡鉄太郎(山岡鉄舟)です。

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なんとなく異人をぶった斬る程度の気分はあって、知識は不足気味だけど、何かをしたい青年たち。

将軍警備という話があるのなら、そりゃもう飛びつくほかありません。

かくして京都に向かう道すがら、永倉新八も含めた近藤一派はトラブルに遭遇しました。

宿の手配を担当していた近藤勇が、本庄宿でうっかり水戸藩士・芹沢鴨一派の宿の手配を忘れたのでした。

彼らは、あてつけに野宿すると焚き火をし始め、大変な騒ぎに。

近藤はこういうことには向かない性格だったんでしょうね。山南敬助がこのあと宿予約担当者に交替しました。

「芹沢鴨っていやな奴だな〜」

そうなりそうなところですが、実のところ永倉新八とは割と気が合う面もあったようです。なお、芹沢一派の悪事はフィクションで誇張されがちで、かつ検証も厄介なので、ご留意くださいね。

ただ、この程度は軽いジャブ程度のトラブルです。浪士を率いていた清河八郎が、あろうことか京都に着いた途端こう宣言したのです。

「我々は将軍家茂の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となる!」

清河八郎/wikipediaより引用

突然ワケのわからない宣言が出され、狐につままれたような気持ちになった浪士たち。

スゴスゴと江戸に引き揚げる者もいましたが、近藤一派と芹沢一派は残留を決めました。

 

「新選組」結成、しかしオラついていた

彼らは京都の八木家に留まります。

さりとて幕府から得られる収入もなく、身分の保証もありません。

そこで頼ったのが、半年ほど前に「京都守護職」となった松平容保でした。

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浪士たちは容保に認められ、彼らが滞在する八木家の門には、こう書かれた札が掲げられました。

【松平肥前守御預新選組】

新たに選ばれた組だから、新選組――誇らしげにそう名乗った彼らですが、実のところ京都の町民からは嫌われていたようです。

みすぼらしい服装で、無骨な関東訛り。その時点でマイナスだけでなく、彼ら新選組は実にオラついていたのです。

特に芹沢一派はやりたい放題で、商人相手にゆすりたかりのようなことをしたり。気に入らない芸妓の髪の毛を切り取ったり。大阪で力士と乱闘になったり。

当時、京都にいた浪人は総じて荒っぽいものでしたが、よりにもよって警護担当でオラつくとマズい。

気のいい永倉新八は、芹沢一派と酒を飲むこともありましたが、この手の争乱に巻き込まれるとホトホト手を焼いてしまいました。

それでも気性のサッパリした永倉は、近藤一派ほど芹沢を嫌っていたわけでもありません。神道無念流という同じ流派を学んだことも、親近感を覚えさせたのでしょう。

しかし文久3年(1863年)9月、しこたま酒を飲み、愛妾を抱いて寝込んでいた芹沢が暗殺されてしまいます。

永倉新八は事件を後になって知らされました。

当初は「長州藩士の犯行」ということにされておりました。

 

新選組vs長州藩間者

新選組も知名度がアップしてきますと、敵も増えます。

過激な尊皇攘夷派としてリードしていた長州藩からも、間者(=スパイ)が潜り込まれました。

こうした間者を返り討ちに活躍したのが、永倉新八です。

二番隊組長であり、撃剣師範でもあった永倉は、組織内でもエースでした。

あるとき、御倉伊勢武、荒木田左馬之助、越後三郎、松井竜次という4名の隊士が、長州藩の間者であることが判明しました。

永倉は、間者たちが公卿の屋敷に行くと言うので、中村金吾と共に後をつけます。

と、4名は途中で料理屋に向かい、酒を飲み始めました。

入れ替わり立ち替わりで退席する4名。永倉が厠に行くと見せかけて探ると、連中は謎の男と話し合っています。

一行はそのまま次の店へ。打ち解けた飲み会のようで、それでいてドコか緊張感の漂う両者。

新たに10人ほどの応援が店に立ち寄ったものの、少し見回って立ち去ります。

変わらず漂う緊迫の空気。しかし、中村はあることを聞いておりました。

永倉新八の耳にそっと近寄り

『用心してください、永倉さん……あいつら、店の外であなたを殺す気です』

夜が明けて、壬生へと向かう永倉新八。

しかし、彼は剣の達人です。斬ろう、斬ろうとして果たせぬまま、屯所へ到着しまう。

永倉と中村の報告を受けた近藤と土方は、決断しました。

「あやしい連中だとは思っていたが、そこまでとなると……。よし、始末してしまえ」

その刹那、永倉新八は、斎藤一と林信太郎を伴い、髪結いを呼んで髷を整えていた御倉と荒木田を斬殺。髪結いは真っ青になって腰を抜かしたそうです。

ここで沖田総司が叫びました。

「隊内には、他にも裏切り者がいるぞ、油断するな!」

そう言うと、松永主計と楠小十郎という別の間者も飛び出してきました。

原田左之助が瞬く間に楠を殺害。

越後三郎、松井竜次、松井主計の3名は取り逃がしてしまうものの、電光石火で間者3名を斬り捨てるその迫力、その強さ。

永倉新八を含めた新選組の強さは、さらに「池田屋事件」でその名を轟かせるのでありました。

 

「池田屋事件」で大活躍

間者を斬り捨て、向かう所敵なしの新選組。

尊皇攘夷派は彼らを危険視し、同時に憎んでいました。

その名が決定的に有名となり、さらなる憎悪を生んだのが元治元年(1864年)【池田屋事件】です。

池田屋跡

事の発端は「長州藩が何やら不敵な悪事を企んでいた」と、新選組が目をつけたところから始まりました。

「何やら」と、いささか表現が曖昧なのは、新選組が政治的な闘争には疎かったから。

重要なのは、この事件が「八月十八日の政変」と「禁門の変」の間にあったということです。

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要するに、こういうことです。

八月十八日の政変以来、京都から駆逐された長州藩が復権を画策。

その動きが「よからぬこと」として、新選組の耳に入った――。

降って湧いた陰謀計画などではなく、長州が虎視眈々と狙っていた矢先のことだったんですね。

新選組にとっては、その名を大きく轟かせる事件でもありました。

というのも、最初から室内への斬り込みに参加した者は少なく、敵20名に対し、新選組はわずか4名だったのです。

「主人はおるか! 御用改めであるぞ!」

近藤勇が声を挙げた時、背後に続いた3人のメンバーとは以下の通り。

・近藤勇
・永倉新八
・沖田総司
・藤堂平助

宿の主人・惣兵衛が、「皆様ッ、旅客調べでございます!」と声を上げるやいなや、新選組隊士らは猛然と室内へ。

 

永倉新八は達人らしい冷静さと熱さを持って敵を追い詰めます。刀の切っ先が衣服を切り裂き、眼前の敵をズタズタに……。

屋外に逃げようとした敵は、外で槍を構える原田と谷を見て、慌てて引き返してきました。

藤堂平助は、鉢金が外れたところ眉間を斬られ、目に大量の血液が流れ込みます。もはや戦力にはなりません。

それは沖田総司も同様で、昏倒してしまいます。

フィクションでは、肺結核悪化からの喀血とされることの多い沖田。現在、史実では否定されています。

蒸し暑い室内で戦い続けたため、スタミナ切れを起こしたか、あるいは貧血で倒れたのでしょう。

かくして藤堂、沖田は途中で戦線を離脱すると、残りは永倉と近藤の二人しかおりません。

互いに助けようとしても、常に4、5名が斬りかかってくるため、それも難しい状況。

このあたりで、屋外に待機していた原田、井上源三郎、武田観柳斎らが加勢してきました。

別働隊の土方組もようやく到着。会津藩や桑名藩も池田屋を取り囲み、激闘はやがて終わるのです。

全身返り血で真っ赤に染まった永倉新八は、左手親指がぶらぶらするほど切られていたことにようやく気づきました。

刀は折れ、衣服も防具もボロボロ。幸いにも傷は浅く、すぐに回復しました。

この夜の、赤鬼のように血に染まった永倉らの姿は、京都の街を震撼させるのに十分でした。

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