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【永倉新八】
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近藤との反目、隊内の亀裂
そのあとも【禁門の変】や、長州藩士の捕縛で活躍を重ねた永倉新八。
竹を割ったような性格は隊士だけではなく、会津藩士たちにも慕われました。
ただ、そういう性格のせいか、かえって近藤勇と対立することもありました。
「俺たちはよぉ、仲間として苦楽をともにしているんじゃあねえか。それなのに、近藤さんの増長ぶりはどうしたことでえ」
「そうだそうだ。気に入らねえ」
「試衛館のころはこうじゃなかったよなあ」
武士として重々しく振る舞う近藤のやり方に、永倉は反発します。
原田左之助、斎藤一、尾関政一郎、島田魁、桂山武八郎と脱退覚悟で建白書を出したこともありました。
脱退即ち切腹なのですから、どうにもがむしゃらな覚悟です。このときは、松平容保が仲裁に入り、無事おさまっています。
ただ、永倉新八のように近藤と性格の不一致程度ならまだマシで。
政治情勢が複雑化する中、隊内には不満を持つ者が増えてゆき、その一人である山南敬助がついに脱走しようとして切腹に追い込まれるのです。
永倉新八と懇意にしていた藤堂平助も、不満をあらわにしました。
彼は勤皇の志を持っていたのです。勤皇どころか、幕府について戦うことに耐えがたくなっていたのです。
藤堂は、伊東甲子太郎一派に接近。永倉も伊東とは親しく付き合っています。
慶応3年正月(1867年)には、伊東らと島原遊郭で何日も飲み歩き、近藤の怒りをかい、あわや切腹を命じられそうになりました。
土方のとりなしでこれは逃れたものの、永倉と近藤の間には、またしても亀裂が入りました。
これには、良くも悪くも永倉に政治的才覚が抜けていることもあったのかもしれません。
当時、幕閣には松前藩主・松前崇広が老中としておりました。近藤は松前藩つながりで永倉を伴って江戸まで向かっておりますが、そのあとこれといった進展はなかったようです。
教養があり、志と政治力が高い近藤からすれば、永倉はちょっと期待はずれであったのかもしれませんね。
さらば友よ、高台寺党始末
伊東と接近していたのは、永倉新八だけではありません。
斎藤一もそうでした。
ただし彼は間者。
斎藤は、伊東による近藤勇暗殺計画をつかみ、報告します。
そして慶応3年11月18日(1867年12月13日)、大石鍬次郎によって暗殺されました。
新選組は、この伊東の死骸を囮にして、御陵衛士を一網打尽にしようとします。
「伊東先生ッ!」
狙い通り、伊東の元へ駆けつける御陵衛士たち。その中には、かつて永倉新八と池田屋事件でも戦った藤堂平助もいました。
勤王活動ができないことに不満を募らせていた藤堂。慶応3年3月(1867年4月)、伊東一派と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく、新選組を脱退していたのです。
「藤堂はまだ若い。出来れば殺さぬように」
近藤からそう命じられていた永倉は、藤堂を逃そうとします。その意をくみ取ったのか、藤堂も逃げようとします。
そのとき一隊士の三浦常三郎が勢いで斬ってしまいます。
伊東の死骸回収に駆けつけた藤堂以下3名は、かくして命を落としました。
永倉新八は複雑な気分でした。
三浦は、藤堂を斬ったことに苦しみ、ストレスで早くに亡くなったと伝わります。
大政奉還、愛娘との別れ
高台寺党の惨劇からほどなくして、徳川慶喜が大政奉還を行いました。
新選組も屯所を引き払い、住み慣れた京都を去り、大阪に向かう時が迫っています。
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永倉新八は、その前にどうしてもやらねばならないことがありました。
馴染みの芸妓・小常が、永倉の子を出産後に亡くなしていたのです。永倉は小常の埋葬と弔いを済ませました。
愛する女性の忘れ形見である女児も、自身の生死もわからぬ状況では引き取るわけにもいきません。磯子と名付けた女児は、小常の姉(磯子の伯母)に預けられることとなりました。
永倉新八は、養育費50両を渡して、松前藩士のいとこ・長倉嘉一郎に頼るよう言づてました。
そして親子の対面は、そのまま今生の別れとなってしまう……かと思われましたが、磯子は後に、役者・尾上小亀となり、明治33年(1900年)に父と再会を果たすします。
永倉新八の子として生きることは苦難も多かったでしょうが、それでも彼女は立派に生き延びたのです。
近藤勇狙撃事件と鳥羽伏見の戦い
このころ、どうにも隊内に不穏な動きがありました。
御陵衛士残党が、近藤勇の命を狙っていたのです。
ついに今度は狙撃され、右肩を負傷。これより先、近藤に代わって土方が隊長代理として隊を統率することになります。
繰り上がるようにして、土方の信頼あつい永倉が、ナンバーツーのような扱いを受けるようになりました。
そして、慶応4年(1868年)が明けて早々、「鳥羽伏見の戦い」が勃発。永倉以下、沖田、原田、新撰組隊士たち25、26名が灘の名酒を飲み、景気づけます。
しかし、新選組を含めた幕府軍は大敗北――。
「槍や刀の時代は終わった」となるわけですが、コトはそう単純でもありません。
土方率いる新選組、林権助率いる会津藩らは、難しい退却を守り抜きました。
むしろ問題は、両軍の兵力や装備の差以上にモチベーションです。
大阪城に撤退しても、新選組らは意気盛ん。しかし、彼らの総大将たる徳川慶喜が逃げ腰で、まったくやる気がないのです。
どころか嫌がる松平容保まで巻き込んで、大阪沖から軍艦でさっさと引き揚げてしまったのです。
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新選組は、無念の思いでした。
試衛館からの古参隊士である井上源三郎は、この戦いで戦死。副長助勤・山崎蒸は被弾し、江戸に向かう軍艦内で戦傷死し、水葬されています。
ひとまず江戸に向かった永倉新八ら新選組は、一時の休息を迎えます。
江戸では大きな歓待を受けました。
京都の民には嫌われた彼らも、江戸っ子からすれば、将軍様を守る為に大奮闘する勇士。その人気は、東高西低だったのです。
喧嘩っ早い永倉は、この休息中に品川楼で喧嘩となり、刀傷を負います。
それを見た土方は、苦い顔をします。
「軽い体ではないのだから、自重しなさい」
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