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【岡田以蔵(人斬り以蔵)】
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土佐勤王党の一員として
以蔵が、ただの強い剣客ではなく、人斬りとして名を成したのはなぜか。
やはり幕末という時代のせいでしょう。
文久元年(1861年)、武市が土佐勤王党を結成すると、門下生であった以蔵は一も二もなく参加しています。
武市は身の丈六尺(180センチ)を越える色白の美男であり、滅多なことで感情を顔にあらわすことすらない人物でした。
高潔で愛妻家としても知られていました。寒梅が早春にほのかな香りを放つような、そんな素晴らしい人格者とされていたのです。
以蔵はじめ、門下生が彼に心酔する理由も理解できようというもの。
しかし武市は、その高潔な美男いう顔とは裏腹に、激情と陰謀、そして暴力に手を染める傾向もその身に潜ませていました。
黒船来航以来の混乱の最中、武市は「挙藩勤王」を掲げ、土佐勤王党を結成、政治改革を目指しました。
しかし、当時藩政を担っていたのは、吉田東洋率いる佐幕開国派です。
ここで武市は門下生に命じて吉田を殺害。城下に首を晒すという凶行に及ぶのでした
坂本龍馬も土佐勤王党に加盟していた時期がありますが、この血腥いやり方についていけず間もなく袂を分かっています。
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しかし、武市はこの暗殺でタガか外れたのではないか、とすら思えるほどです。
吉田の死ひとつで、流れが変わったかのようにすら思えました。
というのも、ここから先、土佐勤王党にとって「天誅」は、まるで麻薬のようなものとなるのです。
テロルひとつで時代を動かせる――そう誤解した者たちは、幕末という時代において血腥い行動に手を染めてゆきました。
それは「奉勅攘夷」を掲げた長州藩の過激派たちも同様で……言い方はきついかもしれませんが、彼らは暴力依存症ともいうべき事態に陥ってしまいます。
結果的に勝ち組に属しているため、その罪を問われることはありません。
彼らの時代から、既に150年が経過したわけです。
ここは冷静に認めたいところ。現代でいうところの過激派テロ組織が、勝ち組側に残ったようなものです。
例えば、組織として見ますと、松下村塾も土佐勤王党も、実質的には壊滅に追い込まれています。
やはりヤリ過ぎが原因でした。
天誅の季節
では、ここで土佐勤王党が関与したとされる主な暗殺事件を振り返ってみましょう。
いずれも文久2~3年(1862~1863年)の数ヶ月間における凶行です。
【文久2年(1862年)】
◆関白九条尚忠の青侍・島田左近が【安政の大獄】で辣腕を振るった長野主膳と懇意であったとして、田中新兵衛が斬殺
◆本間精一郎が、以蔵と田中によって斬殺される
◆関白九条尚忠の諸太夫・宇郷玄蕃頭重国が、島田左近の同類として以蔵により斬殺
◆島田左近の部下であった奉行所の目明し文吉(猿の文吉)が、「刀を使うまでもない」と以蔵によって絞殺
【文久3年(1863年)】
◆儒学者・池内大学が、山内容堂の招きで講義を終えたあと、待ち伏せた岡田によって斬殺。
池内は尊皇攘夷思想の持ち主でしたが、「安政の大獄」で処断されなかったのは井伊直弼と通じてたたからと誤解されての殺害でした。完全に濡れ衣です。
池内の耳はそぎ落とされ、中山家、正親町家に「安政の大獄で裏切っただろう」という内容の脅迫状とともに投げ込まれました
◆山城・葛野郡唐橋村の庄屋・宗助が佐幕派であるとして斬首され、土佐藩邸に生首が投げ込まれました。
容堂は「酒の肴にもならぬ、無益の殺生憐れむべし」と松平春嶽相手に嘆いています。そりゃ容堂も、怒りますわ
◆京都商人・平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛を貪欲だという理由で生き晒し
◆井伊直弼と長野主膳の愛人であった村山たかを生き晒し
◆村山たかの子・多田帯刀は岡田が殺害
この他にも、井上佐市郎(土佐藩士)や【安政の大獄】に関与した四人の与力、賀川肇(千種有文の家臣)の殺害にも関与したとされています。
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いかがでしょう?
だんだんと凶行がエスカレートし、死体損壊、武士以外も手に掛け、池内大学のようにどう考えても濡れ衣のような被害者まで出るようになっております。
公家の家に耳、土佐藩邸に生首を投げ込むのは、完全にやり過ぎです。
しかも問題なのは、大義があるとも思えないところ。
「安政の大獄」の意趣晴らしのようなことばかりで、とても【国のため】とは思えない。
吉田東洋の場合、まだ政治的実権を奪うという名目がありました。
しかし、文久2年以降の天誅は「我々に逆らえば殺す」というアピールのための、ただのパフォーマンスに堕してゆくのです。
そして以蔵は、大抵のケースで凶行の先頭に立っていました。
もっとも以蔵は、ただの暗殺者ではありません。坂本龍馬の依頼で、勝海舟を護衛したこともあります。
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血腥い切った張ったが大嫌いな勝は、以蔵が刺客を斬り捨てると思わずこう言いました。
「おめえさん、人をやたら斬るのは感心しないねえ」
「俺がいなけりゃ、先生の首こそ、そこに転がっちょったやろう」
さすがにこれには勝も「その通りだ」と認めざるを得なかったとか。
「無宿鉄蔵」の死
土佐勤王党は、さすがにヤリ過ぎました。
山内容堂が怒りをため込んでいたうえ、「八月十八日の政変」で尊皇攘夷派が失脚すると、彼らにも弾圧の手が及びます。
中岡慎太郎のように長州藩に保護された者もおりますし、とっくに袂を分かっているため弾圧されなかった坂本龍馬のような者もいます。
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しかし、その坂本もこの大弾圧には心を痛めています。
以蔵はどうなったか?
はじめは長州藩に匿われていたものの、やけになって酒色に溺れ、借金を繰り返し、仲間から見放されてしまうのです。
所司代を通して土佐藩邸に保護を求めた以蔵に対して、藩の監察役人である小笠原直吉は「こんな男は当藩の者じゃない」と否定。
実は、以蔵は文久3年(1863年)、脱藩していました。
そして所司代によって、額に「無宿鉄蔵」と入れ墨をされてしまいます。
かといって土佐に戻ることもできず、「土佐生まれの土井鉄蔵」という博奕打ちのフリして、強盗といった犯罪的手段を行いながら、京都に潜伏を続けていました。
そんなある日、三条通を歩いていると、土佐藩士が彼を捕縛。
さしもの剣客も、為す術もなく捕らわれてしまったのです。
「俺は無宿鉄蔵や!」
そう抵抗するも虚しく、土佐に送還された以蔵。
高知城下・南会所付の牢屋に入れられ、拷問が始まると、他の土佐勤王党の仲間とは違い、なんと以蔵は口を割ってしまいます。
岡田が口を割ることを恐れた武市は、阿片入りの天祥丸という毒を混入した食物を食べさせようとしたとか。
これは流石に反対された、あるいは効果が無かったとされます。
ともかくも簡単な拷問に屈して、悲鳴を上げ、次から次へと土佐勤王党の悪事をはき続ける以蔵。
武市は「以蔵は誠に日本一の泣きみそだと思う」と漏らしています。
斬首直前、これから先は武市とその仲間が処刑されると聞くと、以蔵は嬉しそうに微笑んだ、と伝わります。
慶応元年(1865年)閏5月11日、斬首、獄門。
享年28。
辞世は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」でした。
★
あまりに手を血で汚したこと、自白により仲間に損害を与えたことから、今日に至るまで彼の顕彰はほとんど行われておりません。
しかし、以蔵だけが悪いのでしょうか。
彼を都合良く捨て駒にした武市らは正しかったのでしょうか。
土佐勤王党は、維新の功労者であり、人気がある坂本龍馬や中岡慎太郎が所属していたことから、組織そのものの問題点はあまり語られません。
そのぶん以蔵に悪事の責任が集中しているように思えます。
確かに善人ではなかった。
されど根っからの悪人でもない。
以蔵は、組織に使い捨てられ、幕末に咲いた徒花の一つかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
『国史大辞典』
ほか