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【森有礼】
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若き英才官僚、紳士として啓蒙につとめる
わずか21歳でありながら、英語もでき、西洋のことに詳しく、頭も切れる。
そして泣く子も黙る薩摩閥。
森有礼は華麗なる経歴を歩み始めました。
明治元年(1868年)に外国官権判事に就任すると、明治3年(1870年)秋には 少弁務使(しょうべんむし)としてアメリカへ赴任、教育について広く見識を深めます。
3年後の明治6年(1873年)夏に帰国すると学術団体「明六社」を結成しました。
啓蒙思想を掲げ、そこには錚々たる面々が集まります。
福沢諭吉
西周
西村茂樹
中村正直
加藤弘之
津田真道
箕作麟祥
神田孝平
明六社からは『明六雑誌』が発行され、画期的な「妻妾論」が発表されます。
妻を人として大切にする――そんな当たり前のことをわざわざ告知せねばならないほど、当時の日本はマッチョイズムに覆われてました。
江戸時代の後期から世が殺伐とし始めると、マッチョで強い豪傑タイプこそが理想的な男性とされたのです。
豪傑は、女遊びもこなして当然。
しかも幕末になると、現実に明日をも知れぬ命となるため、京女の柔肌で慰める志士像が形成されてゆきました。
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しかし、時は明治へ。
欲にまみれて女性を漁るなど、あまりに野蛮で恥ずかしい。
知性と理性で人の上に立つ、ジェントルマンこそ必要なのではないか?
彼らはそうした理想を掲げたのです。
日本初の契約結婚
理想だけでなく実践しなければ意味がない。
それをまず己の身で示したのが森有礼でした。
明治8年(1875年)、森有礼は幕臣の娘・広瀬常と、福沢諭吉を証人として契約結婚を果たします。
1. 森有礼は広瀬常を妻とし、広瀬常は森有礼を夫とすること
2. 存命にしてこの約定を守る間は、お互いを敬愛し、夫婦の道を守ること
3. 夫婦の共有する品については、互いの合意をせずに、他人に貸与や譲渡をしないこと
画期的な男女の姿がそこにはありました。
洋装で婚礼に現れた夫妻の姿を取材すべく、新聞記者も集う中、にぎにぎしくこの夫妻は契約を交わしたのです。
同年11月に清国公使に就任すると、明治12年(1879年)にはイギリス公使となり、順調に外交畑を歩む森。
明治18年(1885年)12月22日、第一次伊藤内閣が発足すると、初代文部大臣となりました。
念願の教育畑を仕切ることができる――。
森有礼は女子教育にも注力し、良妻賢母こそが国是であると定めますが……明治19年(1886年)に常と離婚するのです。
離婚の理由は「妻の素行不良」が原因とされます。イギリス赴任時代、常が現地の男性と不倫したともされていますが、確たる証拠はありません。
いかに女子教育を訴えても、自身の妻となるとうまくいかない。そんな皮肉な結果ですね。
そして明治20年(1887年)、森は、岩倉具視の娘である寛子と再婚しました。
大日本帝国憲法発布式典の日、凶刃に斃る
森有礼が再婚した年の12月、ある新聞記事が物議を醸します。
某大臣が三重県の伊勢神宮を訪れたときのこと。
ステッキで御簾をまくりあげ中を覗くと、禰宜に「おやめくだされ!」とたしなめられ、左手で帽子を取り、今度は土足厳禁の場所へ靴のまま踏み入り、参拝したというのです。
この不敬をやらかしたのは誰だ!
いざ犯人探しが始まると、世間から西洋かぶれとされる森は、その筆頭候補に挙がりました。
森は「漢字廃止論」や「日本の公用語を英語にする論」を提唱したことがあり、キリスト教を日本の国教にするつもりだという噂までされていました。
報道と噂が結びつき、やがてある“国士”の胸に怒りの炎をたぎらせていきます。
明治22年(1889年)2月11日は大日本帝国憲法発布の式典が開催。
この日、森の家に、西野文太郎という25歳の青年がやってきました。
「今日、大臣を路上で襲おうとしちょるものがおる。詳細は直接申し上げたい」
これは大変だ!と慌てた秘書が仕込み杖を取りに行くと、二階から大礼服を着た森が降りてきました。
勢いよく森に飛びつく西野。
その手には、よく研がれた出刃包丁があり、森は右脇腹を突き刺されます。
秘書が西野を殺害したものの、森は内臓が飛び出し、大量出血。
翌日午前5時、ついに森は帰らぬ人となってしまいました。享年43。
大日本帝国憲法発布のため東京に祝砲が鳴り響く、その最中に「森文部大臣殺害」の号外が出回ったのでした。
福沢諭吉は森の死を嘆きました。
一人の大臣の死を嘆くのではない。わが文明のためとなる政治家を失ったことが惜しいのだ。
『時事新報』にそう記しています。
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森有礼は優秀であり、優れた功績があります。
ただ、それよりも、別の要素から注目を浴びる人物です。
漢字廃止論という突拍子のなさ。
契約結婚からの離婚というスキャンダル。
大日本帝国憲法発布と重なる非業の死。
こうした業績と関係ない要素が注目を集めてしまいます。
ジェンダー観点から見直すと、彼の女子教育評価は今後高まることがあるとは思えません。
むしろ森とは異なり、良妻賢母枠を乗り越えた女子教育実現に尽くした、津田梅子が注目されています。
それも時代の流れなのでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
渡辺浩『明治革命・性・文明: 政治思想史の冒険』(→amazon)
他